きみの温かさを知る





兵助はあからさまに、留三郎を避け始めた。
部屋を出るタイミングはずらされたし、会っても足早に去られて。
マンションにもあまり帰っていないらしく、少しずつ人の気配が薄れていく。
あのコーヒースタンドのバイトも、辞めてしまったらしい。
連絡先すら知らないから、電話やメールもできやしない。
キーケースについた黒猫のキーホルダーを見るたびに、胸がじくじくと痛んだ。

泣きはらした赤い目を見て、驚くよりも心配してくれた友人達に、全てのことを話した。
自分ひとりで抱えきれなくなった、ということもあるし、なにより、彼らに隠し続けることはできないと思ったのだ。
案の定、というか。友人達は話を聞いてもあっけらかんとしていて、そんなことかと笑い飛ばした。
隠し事をしていたことはバレていたらしい。
けれど誰も、一度も“諦めろ”とは言わなかった。
留三郎は改めて、変わり者の友人達に心の中で感謝した。
諦めるという気持ちは、不思議と一度も浮かばなかった。

兵助の行方が知れたのは、完全に姿を見なくなってから一週間ほどのこと。
バイトから戻ったとき、部屋の前で、偶然にも。
鍵を開けたと同時に、兵助の部屋の扉が開いた。
驚いて思わず凝視していると、出てきたのは、明るい髪をハーフアップにして、ヒョウ柄のストールを巻いている、オシャレな男。
タカ丸、と呼ばれていた、男だった。


「あの、」


思わず訝しげな声と表情になったのは、タカ丸が抱えているもののせいだ。
紙袋に入ったそれは、どう見ても兵助の服。


「へ? ……え、あ、すみませんっ! 怪しいもんじゃなくて、おれは兵助くんの知り合いで、ちょっと兵助くんに頼まれて荷物取りに来ただけっていうかっ!」

「あ、いや、すみません、落ち着いてください、わかったんでっ」


慌ててわたわたと弁解する。
この廊下で人を宥めるのは二度目だな、と思う。そうしてそのあとのことまで思い出して、また心がちくりと痛んだ。
そんな留三郎の心中には気付かず、ひたすらぺこぺこと謝っていたタカ丸が、はた、と顔を上げる。


「あ……もしかしてあなたが、“風邪ひいてぶっ倒れたお隣さん”?」

「は。」


誰かの真似のような言い回しに面食らう。
誰か、というか、おそらく兵助なのだろうけど、どうしてそれをタカ丸が知っているのか。
固まる留三郎を置いて、タカ丸はなにやらひとりで納得して笑った。


「やっぱりそうかあ! いやーあのときはびっくりしたんですよ!
急に電話かかってきたと思ったら、“今度カットモデル引き受けるから”って一方的にドタキャンしてきて。あとから風邪って聞いて、それなら仕方ないって言ったんですけど、兵助くん変なトコ真面目だから」

「え……と」

「いやあ、でも驚いたなあ。カットモデル頼んだとき、すっごく嫌がってたんですよ。
いつもなら本気で嫌なことはなにがなんでも逃げるのに……よっぽど焦ってたんですかねえ?」


確実に、留三郎が風邪を引いたときのことだ。
そういえば留三郎が起きたとき、兵助は電話をしていた。
焦っていたのは、留三郎が目の前で倒れてしまったから、だろうか。
焦って、いたのか。
本気で嫌なことを、簡単に引き受けるくらい。
留三郎は矢も盾もたまらなくなって、マシンガントークを続けるタカ丸に視線を向ける。


「あのっ!」


どこまで知っているのか、だとか、兵助との関係は、だとか。
聞きたいことは、山ほどあったのだけれども。
口をついて出た言葉は、


「あいつ、……どこにいるんですか、今」


自分でも驚くくらい、焦燥にかられた声だった。
情けない顔をしている自覚も、ある。
留三郎の言葉に、タカ丸は目を丸くして。
けれど、なにかを察したらしく、浮かべていた人懐っこい笑みを打ち消した。


「……ちょっと、時間ありますか」


煙草が吸えるところが良い、とタカ丸が言うので、あれこれ考えた結果、留三郎の部屋に招き入れた。
あまり外で話すことでもないし、ちょうどよかったかもしれない。
煙草に火をつけて、タカ丸はふぅ、と細く息をはく。留三郎も煙草に火をともした。


「さっきの質問の答えだけど、兵助くんは今おれの家と友達の家を行ったり来たりしてるみたいですよ」

「……やっぱり」


ぼそりと呟かれた言葉に、タカ丸はへにゃりと眉を下げる。
煙草を挟む指に力が込められた。


「兵助くんから、だいたいのことは聞きました。まあ、ほんとに輪郭だけですけど」

「ええ」


少しだけ逡巡して。


「おれは、兵助くんが高校生のときのバイトの後輩だったんです。喫茶店で、家を出るまでのほんとに短い間だったんですけど、も、すっごく厳しくて怖くて、でもやさしい先輩で。こっちで再会したときはびっくりしたけど、なんにも変わってない。
努力家でね、店長に認められるくらいコーヒー淹れるのうまかったんですよ」


煙草をもみ消した、タカ丸の声がやさしい色になる。
兵助のコーヒーがとても美味しいことは知っている。料理も。
コーヒーを淹れるときや料理をしているときの手際のよさや、どれだけ楽しそうに作業をしているのかも。


「兵助くんってね、意外と自分のことは器用にやれるタイプなんです。
まあ鈍いときもあるけど、でも、たいていはひとりで全部やれちゃうんです。辛いことがあっても、少なくとも人の前では絶対に泣かない。
その兵助くんがね、泣いたんです。おれの前で」


タカ丸は自分が傷ついたみたいな顔をして、俯いた。


“幸せになってほしいんだ、あの人には。おれのことなんか好きにならないで。
可愛い女の人と結婚して、子供作って。あの人は子供好きだし、きっと子煩悩になるよ。
娘でも息子でも、きっととことん甘やかすんだ。それで奥さんに怒られてさ。
誕生日には、子供のためにケーキと、子供が欲しかった物を奥さんと内緒で買ってきてさ。子供の喜ぶ顔を見て、奥さんと顔を見合わせて笑って。”

“だって男同士なんだよ。おれもあの人も男なんだよ。
子供どころか、結婚だってできない。お前達は偏見なんてないけどさ、世間からどう見られるかなんてわかるだろ。
親御さんだって傷つけるかもしれない。
だったら最初から、なにもしないほうがいいんだよ。”

“おれはさ。好きな人が自分のために手料理を作ってくれた、って、その思い出だけで生きていけるから。”


そう言って兵助は泣いたらしい。
留三郎はめちゃくちゃに煙草をもみ消し、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。


「どうしてあいつはいっつも……!」


無意識なのか、さも当たり前のように兵助は人の気持ちを優先する。
いなり寿司をくれたときも、風邪を引いたときも、コンビニで肉まんを買おうとしたときも。
その根底にあるものを、あいつは気付いているのだろうか。


「……教えようか、兵助くんの居場所」


タカ丸がぽつりと呟く。
驚いて顔を上げた留三郎とは対照的に、タカ丸はなにかを決意するような、覚悟するような表情を浮かべていた。
暫く無言で見つめ合う。
けれど。
留三郎が、ゆっくり首を振った。


「いや。アンタ、あいつに口止めされてんだろ。
だったら約束破るんじゃねえよ」


そう言って口元で笑うと、タカ丸は目を丸くして留三郎をまじまじと見る。
そうして納得したように、楽しそうに笑った。


「なるほどね。
繊細な人、か。兵助くんが言ってたの、ちょっとわかった気がする」

「え?」

「ううん。だったら、おれはもう帰るね」


兵助の服が入った紙袋を持って立ち上がる。
タカ丸を見送って、留三郎はもう一本、煙草を口にくわえる。

タカ丸と話して覚悟を決めた。
なにがなんでも兵助のことを追いかけて、そうして。
無理やりにでもわからせてやる。


別れた彼女から珍しくメールがあったのは、決意した翌日のことだ。
なにかあったのかと一瞬不安になったけれど、なんてことはない。
彼女の気持ちの整理がついたことと、偶然にも、留三郎を応援する内容だった。


“ようやく気持ちの整理がつきました。返信はいらないから、どうか最後まで読んでください。
留くん。私は、あなたに謝らなければいけないことがあります。
実はあのとき、いくつか嘘をつきました。
ひとつは、わかった振りしてたけど、ホントは別れたくなかったこと。
それから、留くんは何も言わなかったけど、別れた理由を知っていたこと。
その好きな人を知っていること。
そして、その好きな人も、留くんのことが好きだって、気付いてたこと。”

“この間、久しぶりに会いに行ったら、偶然だけど最後のバイトの日でした。
なにかあったのかって訊いたら、なにもないよって笑ってた。でも違うよね?
だって久々知くん、すごく寂しそうだった。“

“ねえ留くん、久々知くんのこと、ちゃんと捕まえなきゃだめだよ。
男同士だとかそんなこと関係ないでしょ?
だって人を好きになるって素敵なことなんだよ。辛いことも苦しいこともあるけど、それでも素敵なことなんだよ。
その上好きな人が自分のことを好きになることって、奇跡みたいなことなんだって、私は思うから。
だから、ちゃんと幸せになってください。

留くんと付き合えた時間は短かったけど、
とても、たくさんの気持ちをもらいました。
ありがとう。
大好きでした。”


長い長い文章は、彼女が考えに考えて打ったメールなのだとわかって。
後悔している気持ちも、本当に留三郎と兵助のことを案じてくれている気持ちも、痛いくらいに伝わって。
彼女の幸せを、心の底から、願った。

兵助の知り合いも、兵助が行きそうな場所もわからない。
大学やバイトを休むわけにもいかないので、兵助を探すことは困難すぎるほど困難だった。
兵助の大学を一日中張ったこともあったし、大学付近も探し回った。あのコーヒースタンドにも、何度だって顔を出した。
それでも兵助は見つからなくて、おそらく、兵助の方も留三郎を避ける努力をしているのだろう、と気が付いた。
けれど、やはり、諦めようとは思わなかった。





その夜のことは、本当に不思議な偶然で。
理由を付けるとするならば。
巡り合わせ、えにし、運命。
そういうことを言うのだろうけれど。

きっと、奇跡、と呼ぶのが一番相応しいだろう。
なんせ、神様が生まれた日、なのだから。





「今日も探すの?」

「まー、バイト終わったらな」

「今日くらい探すのやめたらいいのに」


今年最後の講義が終わり、同じ授業を取っていた伊作は苦笑をこぼす。
留三郎も苦笑を返して、伊作の肩をぽん、と叩いた。
それだけで得心した伊作は、留三郎の背中をバンッと叩く。


「頑張れ留三郎!」

「ってぇな!」


じゃれていると、今度は伊作と反対側の方から背中をバシンと叩かれた。


「見つからなかったら笑ってやるよ」

「ってめ、もんじろっ」

「では私は盛大に祝ってやろう」

「せんぞっ」

「……頑張れ」

「ちょう、じっ」

「骨は拾ってやるからな!」

「こへいたっ……」


それぞれにバシバシと叩いて去っていく。
五回も叩かれるとさすがに痛い。
けれど、それ以上に。


「っいてえっつうの!」


久しぶりに、声を上げて笑った。


留三郎のバイト先は、大学の近くにある娯楽施設のダーツバーフロアだ。他にもカラオケやビリヤード、カジノのフロアもある、ビル丸々で遊べるアミューズメントバー。
バーと言ってもメインはゲームなので、昼間もやっているし、夜も未成年は普通に入れる。隣にレストランがあるからか、昼間でも集客数はそれなりにあった。
留三郎はそこのバーテンダーだ。
白いシャツに黒いベストとスラックス、ネクタイを締めればなかなか様になっていて。
まだまだ見習いの身ではあるけれど、特に女性客には人気がある。

外はすっかり真っ暗になった。
あと10分もすれば、今日のバイトも終わりだ。
客の相手をしつつ、酒をつくりつつ。
今日はどこを探そうか、なんてことを考えていると。


「なんでだよ。おれダーツうまいからな」

「よっくいうよお前。私の方がうまいわ」

「僕はビリヤードの方が好きだけどね」

「あ、俺も。あとボーリング」

「お前、ボーリングはマジで強いもんな」


新しくやってきた客は、大学生の五人組。
その中に、聞き覚えのある、というより、焦がれていた、声。
バッと振り返ってそちらを見ると、目が合った。


「っ……」


勢いよく逸らされて、兵助は何事もなかったかのように会話に混ざる。
1ゲームだけだとしても、15分以上はかかるだろう。
時計を見る。時刻は21時に差し掛かろうとしていて、もう上がってもいい時間になっていた。
偶然にしても、ここまでできすぎた偶然はない。
仲間達と笑い合う兵助をちらりと見て、留三郎はバイトを終えた。

着替えてから、早速兵助に会いに行こう、とドアを開ける。
すると、留三郎を待っていたらしい、ふたりの男が立っていた。
毛先の丸い男と、面長の、目つきの悪い男。
さっきまで兵助と一緒にいた、兵助の友人だ。


「あの、ちょっといいですか?」

「……なにか?」

「違ってたらすみません。兵助のこと知ってますよね?」


直球すぎる言葉に留三郎は固まる。
ツッコミのように、目つきの悪い男がバシンと頭をはたいた。


「おま、ば勘右衛門! いきなり訊くんじゃねえよ!」

「だーいじょうぶだよ! 三郎は慎重すぎ!」

「お前が適当すぎるんだ!」

「知ってますよね?」

「まあ……」

「ほらぁ!」

「うるせえ」


漫才のようなやり取りに苦笑をこぼすと、勘右衛門がすいませーん、とへらりと笑う。
三郎も留三郎に軽く頭を下げる。口が悪いのは仲間内に対してだけらしい。


「あの、なにか?」


怪訝な顔で留三郎がふたりを見やると、ふたりは真剣な顔つきになった。
つい先日の、タカ丸の顔が浮かぶ。
と、いうことは。


「兵助のこと、どう思ってますか」


やはり兵助のことか。
留三郎は内心で苦笑する。
兵助はずいぶんと身内に可愛がられているようだ。
けれど、その真剣さには留三郎も応えなければならない。二対の瞳を、留三郎はじっと見返した。


「諦める気はありません。この先も、ずっと」


勘右衛門と三郎は、気迫すら感じる強い光を宿して、留三郎の目を見る。
そうして、ふたりはアイコンタクトを交わして。
留三郎に、頭を下げた。


「兵助を、よろしくお願いします」

「え」

「あいつ頭いいクセに馬鹿で頑固だから、何度だって教えてやってください」

「教えるって、なにを」

「世界は奇跡で満ち溢れてるってことを、です」


頭を上げて、勘右衛門がにっと笑った。
一緒に頭を上げた三郎が苦笑する。


「ちょっとそのセリフはクサいんじゃないか」

「うっそ、おれめっちゃ考えたのに」

「そ、あ、雷蔵」


勘右衛門に反応する前に、三郎がスマートフォンを取り出す。
タップした途端、物凄い怒号が聞こえてきた。


『てンめえ三郎! 勘右衛門も一緒か! なに勝手なことしてっ』

『まーまーまー兵助落ち着けって! な? どうどうどう』

『おれは馬じゃねえ!』

『さぶろー? かんえもーん? 兵助にバレちゃったから早く帰ってきてー』


のんびりと言う雷蔵の声を最後に、電話は切れる。
呆気にとられる留三郎の前で、三郎と勘右衛門は顔を見合わせた。


「やべ、兵助超怒ってんじゃん。この前八左ヱ門が豆腐台無しにしたときより怒ってた」

「そりゃ怒るだろ。早く帰らねえともっと怒るぞ」

「だね」


スマートフォンをポケットに仕舞う三郎に、勘右衛門が頷く。
歩き出そうとしたふたりは、けれどすぐに留三郎を振り返った。


「行くんでしょ?」


バーに戻ると、兵助が八左ヱ門に八つ当たりしている最中だった。雷蔵がまあまあ、とあまり意味のない宥め方をしている。
どうやら勘右衛門達と留三郎が話している間、八左ヱ門と雷蔵が時間稼ぎをしていたらしい。
すぐにバレたようだったけれど。
留三郎の顔を見た瞬間、兵助はこの上なく悔しげな顔をした。


「お前ら……!」


低い声はいつになく怒っていて、勘右衛門と三郎は首を竦める。
けれど、兵助がなにかを言う前に、留三郎がその腕を掴んだ。


「借りていきます」


怒りをはらんだ低い声で、勘右衛門の方を見ずに言う。
有無を言わせない声音は、兵助すら口を挟むことができなかった。

非常階段の踊り場まで引っ張ってくると、留三郎は兵助を叩きつける勢いでドアに押し付けた。
この時期に外はどうかと思うけれど、それを考えるだけの余裕も、シャツにカーディガンという薄着のままの兵助への配慮も、今の留三郎にはない。


「よくも今まで逃げやがったな」


低い声で睨みつけると、兵助は怯むことなく留三郎を睨み返す。


「あなたとは付き合わないって言ったでしょう」


およそふたりとも好きな相手と話しているとは思えない声と表情で。
兵助の返答に、留三郎は肩を握る力を強める。兵助がぐ、と眉を寄せた。


「告白の返事なんて訊いてねえ。俺はなんで逃げたのか訊いてんだ」

「……おれがなにしようとあなたに関係ない」

「関係あるだろ」


被せるように言って、目を逸らす兵助の顔を覗き込んで無理やり目を合わせる。
関係ないわけがない。本当に関係がないのなら、ここでこんなに、泣きそうな顔はしない。


「お前は逃げたかったんだ。俺からも、自分の気持ちからも」


兵助が唇を噛んだ。
その表情を見てようやく、留三郎はその手を放す。
ずっと、考えていた。


「わかってんだろ、自分でも。
……正直、俺の将来のこととか、嫁とか子供とか、親のことまで考えてくれたのは嬉しい。
あれは紛れもないお前の本音だったんだろ。
けどな。
俺らはまだ若い。お前に至ってはまだギリギリ未成年だ。
結婚とか、将来とか、まだ見えてもいねえ。
もしかしたら、俺の気持ちが勘違いとか、一種の気の迷いとか、そういう可能性だってあった。
それなのにそういう可能性は考えずに、お前は未来のことばっかり考えてた。
だから思ったんだ。
お前が俺を拒絶してたのは、……逃げたかったのは。
……付き合ったら、俺に執着しちまうからじゃねえか?」


大きな目を見開く。
どうして兵助が当然のように相手の気持ちを優先するのか、留三郎はずっと考えていた。
もちろん、元々寛容な性格だということも間違いではないのだろう。
けれどそこにあるのは、綺麗な感情だけではなくて。


「相手の好きなようにさせりゃ、自分が傷つかないで済むもんな」


人と関わるとき、人がもっともおそれること。
それは相手を傷つけることと、自分が傷つくことだ。
人と深く関わるには、本心からぶつかるしかない。
綺麗な気持ちだけではない本心は、どうしたって傷を負う。
だから本心を隠して、本音を偽って、傷ができないようにした。
相手に深入りしすぎないように。相手がいつ、自分を切り捨てても良いように。
兵助はそうやって、今まで人と関わってきたんだろう。
隠した本心が見えなくなって、本音を本心だと認識してしまうほどに。

それでもその壁を越えて、深く関わる人達はいる。
勘右衛門達や、タカ丸や。
そういう人達とはきっと、本心から付き合えている。
どれだけ嫌がっても、どれだけ怒っても、切れない繋がりを築けた。
その枠の中に、いつの間にか留三郎も入りかけていたのだろう。
だから、逃げ出した。


「お前は、別れがくることが怖かったんだろ」


友人とは違って、恋人は終わりがある。
そうしたらきっと、兵助は子供のようなワガママで留三郎を縛り付けてしまうだろう。
そんなことは、絶対にしたくない。
だから、自分でも気づかないうちに本心を殺して、留三郎の幸せを喜べると思い込んだ。
いや、実際兵助は喜べるのだろう。
けれど。
心の奥底、蓋をしてしまったその下には、傷だらけの、汚い気持ちがある。
必死で隠して、すっかり無くなった気になっていた感情。
留三郎の言葉は、兵助の心をひたすらに揺さぶっていく。

唇を噛み、黙って苦しげに俯いたままの兵助の肩に、ふわりとあたたかいものがかかった。
カーキ色のダウンコート。
思わず目の前を見ると、留三郎は今までに見たことがないくらい、やさしい瞳を兵助に向けていた。


「お前のぜんぶ、俺に寄越せ」


深い、染み入るような声が、ぽつん、と心に落ちる。
かたくなだった心の殻が、ほろりほろりと剥がれていく。
目頭が熱くなって、兵助は手で目元を覆う。
ああもうだめだ。奥歯を噛みしめた。
蓋をして、殺して、隠した、心の奥底が見えてくる。
見ないふりをしていたどろりとした感情が、這い上がるように湧き出てくる。

全てを包み込むように、留三郎の長い指が兵助の頭を撫でた。
その、てのひらのあたたかさに押されるように口をついて出た声は、笑ってしまうくらい震えていた。


「……彼女さんの話するの、すごく辛かったです」

「うん」

「女ってだけであなたの隣に立てるのが、腹立たしくて」

「うん」

「でも彼女さんがいい人だったから、余計に自分が嫌になって」

「うん」

「あなたが、彼女のこと話すたびに嫉妬して、苦しかった」

「うん」

「離れてたとき、すごく寂しかったです」

「うん」

「……奥さんも、子供も、作ってほしくない」

「うん」

「……あなたと、離れたくない……!」

「……うん」


静かな声とともに、ふわりと抱きしめられる。
どこまでもやさしくて、とてつもなくあたたかくて、ひたすら甘い温度。
胸がきゅう、とやわらかく痛んだ。

そのとき、カーディガンのポケットに入れていたスマートフォンが鳴る。
慌てて画面を見れば、送り主は勘右衛門。


「……うわ」

「……はは! さっすがお前の友達なだけあるなあいつら!」


送ってきたのは、これ見よがしにピースサインをしている四人の写真と、


“恋愛成就おめっとー!
荷物はバーテンさんに預けといたからごゆっくり!
おれらはこれから兵助の祝賀会焼肉パーティしてきます! 以上!”


というメッセージだった。
祝賀会って、焼肉食べたいだけだろう、と内心でツッコんで。
ふわりと微笑んだ兵助に、やさしい視線を向けた留三郎は、ん? と首を傾げる。


「恋愛成就……?」

「え?」

「あ。」

「うわっ、なんですか」


なにを思い当たったのか、突然兵助の肩にかけたコートのポケットを探り始めた。
出てきたのは、サンタ帽を被った、黒い豹のキーホルダー。
以前、コンビニのフェアで偶然もらった、アニメのキャラクターだった。
そして、留三郎のキーケースについているのは、赤いマフラーを巻いた黒猫。
黒猫は無病息災の神様、という設定で。
黒豹が。


「あ、そうか、恋愛成就」

「ホントに効果あるんだなこれ」


驚いた表情で顔を見合わせて、同時に吹き出した。
偶然にしても、本当にそうだったとしても、どっちでもいい。
奇跡のような確率で、想いが繋がったのは確か、なのだから。
お前が持っとけよ、と言われて、今度は笑顔で頷いた。


「兵助」


聞いたこともないくらいに甘い声で囁かれ、びくりと肩が震える。
声ひとつで、留三郎の感情が流れ込んでくるような錯覚。
名前を呼ばれただけで、鼓膜がぴりぴりと揺れて、脳がとけてしまいそうな。
けれど言葉を続けることなく、留三郎はそのまま、兵助の左手を取った。
なにをするのか、と視線でその手を追うと。

そのてのひらに、そっと唇を落とした。


「っ〜〜〜!」


兵助は耳どころか首元まで真っ赤になる。
ただ恥ずかしいだけではない、ふたりにしかわからないその行為の意味。
してやったり、な表情の留三郎に、兵助は内心でこのやろう、と盛大に叫んだ。

そして、留三郎のうなじから髪に指を入れて、引き寄せて。
恋人達の夜は、まだまだ終わりそうにない。




白い雪がふわり、ふわりと舞い始める。
シャンシャン、と、どこかで鈴の音が鳴った。









全ての生きとし生けるものへ、溢れるくらいの祝福がありますように。






×
- ナノ -