寒いのは冬のせい





今年が終わるまであと二週間ほど。
留三郎は、あんなに仲の良かった彼女と別れた。
友人達は驚いていたけれど、別に想う人がいて彼女と付き合うのは、どちらに対しても失礼だと思ったのだ。
いくらでも殴ってくれて構わない、理由も言わず土下座した留三郎に、彼女は笑った。


“そっか。……今までありがとう。楽しかったよ”


涙をこらえて無理やり作った笑顔は、今までで最高に綺麗で。
留三郎まで泣きそうになって、“ありがとう”と震える声で、それだけを返した。

自覚した瞬間に失恋したようなものだったから、最初は捨ててしまおうと思ったのだ。
けれど、自覚してしまうと、逆に思いは募るばかりで。
忘れようとすればするほど、余計に、兵助のことを考えてしまって。
もうどうしようもない、と諦めることを諦めた。
きっと、この先どんなに酷いことをされたとしても、嫌いにはなれないんだろう、と思ったから。

幸いにも、留三郎が普通に接すると、兵助も普通に接してきてくれた。
今まで通りに話しかけたとき、兵助がどことなくほっとしたように見えた、気がした。
それは錯覚、だったのだろうか。
淡い想いを持っているせいで、そう見えただけ、だろうか。
期待してしまいそうになる心が、つきん、と痛んだ。
そんな想いは隠したまま、あの日のことはお互いに、無かったことにした。

それでいいのだと、自分に言い聞かせて。


「……告白してしまえばいいのに」

「できるか」


大きく溜息を吐いた留三郎に、同じゼミ仲間である伊作は苦笑をこぼす。
彼女と別れた理由は、当然ながら友人達に隠し通せるわけがなくて、別れたその日のうちに全員に知られてしまっている。
ただ、相手が男である、とは言っていない。
言い出せなかった。


「もう、一回振られたようなもんだって言っただろ」

「けど、自覚したのはそのあとだろ?」

「ああ、なるほど。それならいっそ完璧に振ってもらって、完璧に壊された方がいいのかもな」

「……壊れるの前提かよ」


唸るような声に、仙蔵と文次郎は笑って焼酎の入った猪口を傾けた。
このふたりは留三郎の恋路を楽しんでいる節がある。長次と小平太に至っては、聞いているのかすら微妙なところだ。

平日の大衆居酒屋は賑わっていて、多少プライベートな話をしても誰も気にしない。
愚痴と恋と喧嘩の話なんてあふれるくらいにあちこち飛び回っていて、今更いち大学生の言葉なんて誰も拾わないのだ。
バイトやゼミが終わったあとで適当に待ち合わせ、ここで飲みながら留三郎の愚痴を聞くのが、ここ最近の彼らのルーティンになっていた。


「だってさあ、詳しくは知らないけど望み薄なんでしょ? 当たって砕けて、次の恋に目を向けたら?」

「……それが出来たら苦労しねえって」

「珍しいな。今までは積極的だったのに」

「とめさぶろーは、あいてをきずつけるのがこわいんだよなー?」


から揚げをふたついっぺんに食べて、すでに酔いが回りつつある小平太が笑う。
酔っぱらっているのに妙に核心を突いた言葉にぐっと詰まれば、小平太の向かいに座る長次もうんうんと頷いた。


「……言葉にしていなくても、振っているから、な。もう一度振ってほしい、というのはこっちのワガママ、だろう」

「ああ、なるほどねー」

「ほお、お前にもそういう殊勝な気持ちがあったのか」

「からかってやるな。なんせ留三郎の初めての恋だからな」


一番からかう気満々の仙蔵をじろりと睨む。
けれど確かに、こういう恋ははじめて、なのだ。なにせ今までが今まで、というか。
人より少しモテるだけに、声をかければ、たいてい、可愛い子とは付き合えた。
別れてもすぐに新しい彼女ができたし、別れを切り出されても、多少は凹むけれど“別れたくない”という執着じみた考えは浮かんだこともなかった。
彼女達が言っていた、“彼女として見ていない”というのは、おそらくそういうことだったのだろう。
兵助を好きになって、ようやく彼女達の言いたいことがわかった気がする。

留三郎はもう一度溜息を吐いた。


「重症だな」

「っていうかさあ、どんな子なのカノジョ。美人?」

「ああ、それは私も気になるな」

「写真とかないのか」

「わたしもみたい!」

「……私も」


好奇心を隠そうともしない友人達に内心で苦笑する。
好きな相手が男だと知ったら、彼らはどんな反応をするだろうか。
同性だからといって差別するような奴らじゃないことは、わかっているけれども。


「……ねえよ。つか連絡先すら知らねえ」

「「ええ!?」」


驚くのも無理はない、と思う。
けれど、部屋が隣でバイト先も知っていて、なおかつ連絡を入れるような用件ができるような相手ではないから、知らなくても今まで気にならなかった。
コーヒーを飲みにバイト先に行くような関係でも、一緒に遊びに行くほど仲が良いわけではないのだ。
……ただ。


「見た目でいうなら、かなり美人、だな。
睫毛は長いし、目はでかいし。色白ってほどじゃねえけど、どっちかっつうと白い肌ですべすべしてる。
それに仙蔵みてえなストレートじゃねえけど髪もつやつやしてて。
……指も長くて、体温低いから手は冷てえけど、綺麗な手、なんだよな」


ビールの入ったグラスを弄ぶ留三郎の、徐々に深くなっていく声とやわらかい表情に、伊作達は内心で驚いた。
彼女を切らさず、けれど、いつも彼女を見ていなかった留三郎が、だ。
愛情は求めるくせに、自分が注ぐ愛情はセーブする。
まるで、彼女に依存することをおそれて、一線を引いているように。
身も心も捧げてしまえば、自分が壊れてしまう、と思っているように。
心の奥に繊細な部分を隠して、全てをさらけ出すことをおそれていた。
その留三郎が、だ。
今、全力で恋をしている。

自分達に詳しく話さないのは、なにか事情があるのだろう。
言えないことならば無理に聞き出すこともない。
危ないことや犯罪なら止めなければならないけれども、伊作達は留三郎がそんな馬鹿なことはしないとわかっていた。
だったら、話せるときが来るまで待つだけだ。
表立って応援するような、そんな真似はできない、けれども。
心の中では、みんな、留三郎を応援していた。

居酒屋を出て、ふらふらと歩きながらマンションへ向かう。
頭の中はふわふわとしているけれど、意識はしっかり持っていた。
けれどアルコールが入っていて、酔っぱらっていたのは確か、なので。


「うわ、あ、食満さん……」


好きな人を目の前にして、感情を抑えきれなくなるのも、仕方のないこと、だった。

留三郎を見て、兵助は驚いたようだった。
それも仕方のないことだろう。なにせ今は真夜中で、留三郎が立っていたのはマンションの薄暗い廊下だ。
大きな目がぱちぱちとまたたいて、長い睫毛がぱさりと音を立てる。
あどけない表情が、いやに可愛らしく目に映って。
仕草ひとつで、こんなにも、心を揺さぶられる。
大きな瞳を見つめていると、いつも凛としている光が不安定に揺らいだ。
留三郎はふ、と口元に笑みを浮かべる。
笑っているのに、泣き出しそうな表情だった。


「……悪い。お前を、困らせるつもりはないんだ。
でも、とめられそうにも、ない。お前が俺を嫌いなら、それで……それなら、それで、いいから、だから、
せめてお前を想うことだけは、許してくれ」


息を呑んだのはどちらだろう。
留三郎の瞳に映った兵助は、どうしてだか傷ついたような顔をしていて。
そこまで嫌なのか、と思考がネガティブな方向へ進んでいく。
表情に出ていたのだろう、留三郎が言葉を発する前に、兵助が違う、と小さく呟いた。
俯いた表情は見えなくて、けれどぎゅう、と握りしめた拳は震えていた。


「違うんです、ごめんなさい……!
悪いのはおれなんです。困るとかじゃなくて、そんなつもりじゃなかったのに、ごめんなさい、そんなこといわせるために、いや、おれはあなたに、違う、嫌いじゃなくて、そうじゃなくて、おれは、……おれは、」


言葉を発しては取り消し、発しては取り消して。
その合間に謝って、だんだんと留三郎よりも泣きそうに声を震わせる兵助に。
留三郎の酔いはすぅ、と醒めていった。


「いいから、落ち着いて。……中、入ろう」


出来るだけ優しい声音でそう言って、部屋の鍵を開ける。
なにかしたら全力で殴ってくれていいから、と安心させるために笑って。
兵助はどうしてだか、また泣きそうに表情をゆがめた。


「……すみません」


俯いてしまった兵助の顔を覗き込む。
いつかの日と同じようにテレビの真正面に座らせて、留三郎はベッドに腰掛けた。
落ち着いたようで、いつもの澄んだ瞳が留三郎を捉える。


「いいけどよ、どうした?」


心配そうな瞳とやわらかい声音に、兵助は鋭く息を吸った。
本当の気持ちを話すのは、とても勇気とエネルギーが必要で、それが今まで隠していた相手ならなおさらだ。
けれど、あんな泣きそうな表情をさせてしまうまで、追い詰めてしまったのが自分なら。
兵助は、留三郎に全てを話す義務がある。
そうして、今度こそちゃんと、諦めて貰わなければならない。


「おれは、あなたとは付き合えません」


真っ直ぐ目を見て言ったことに、留三郎は一瞬だけ傷ついた色を浮かべて、けれどすぐにそれを隠して頷いた。


「わかってるよ。だからさっき、」

「違うんです。
……おれは、あなたが嫌いなわけじゃない」


間を開けて、留三郎は徐々に目を丸くさせて。


「え……だってお前、手つないだとき、嫌そうな、」

「手。……ああ、あれは照れてました。顔赤かったんで、見られたくなくて」

「……ああ……」


納得した留三郎は、一瞬歓喜の色を浮かべたと思えば、すぐに眉間にしわを寄せる。
くるくると表情が変わるこの人は、本当にわかりやすい。


「え、……じゃあ……どういう、」

「おれは、男なんです。どう転んでも、女にはなれない」

「? ああ、」

「子供も、産めないんです」


ひゅっ、と息を呑んだ。
思い出すのは、いつかの公園での出来事。
彼女と見に行ったイルミネーションの公園で、迷子の子供の世話をした。
兵助が作ったホットサンドを三人で食べて、三人でいろんな話をしたのだ。
あれは確か、兵助の目の前での出来事、だった。


「…………。」


申し訳なさそうに眉を下げて言葉を探す留三郎に、兵助はもう一度違うんです、と遮る。
その瞳はあの夜と同じく、恐ろしいまでに澄み切っていて。
あの夜と同じように、ざわり、と胸がうずいた。


「子供が産めないことを負い目に思ってるとか、親御さんに申し訳が立たないとか、そういうことを言ってるんじゃないんです」


兵助は綺麗に笑った。


「あの夜、アナタと彼女さんと男の子が並ぶ光景は、すごく自然だったんです。
アナタがお父さんで、彼女さんがお母さんで、小さな子供がいて。
ああ、あと数年したらこんな光景が当たり前になるんだろうなって、ストンと胸に落ちてきて。
そんな幸せな光景の中に、アナタがいるなら、なんかいいなって。
おれは、アナタに、そんな当たり前の幸せを持ってほしいな、って思ったんです」


留三郎は黙ってその言葉を聞いていた。
酔いはすっかり醒めていて、兵助の気持ちは痛いほどに伝わってくる。
純粋に自分の幸せを、想ってくれていることはわかる。
それが紛れもない、彼の本音だということも。
やさしさとあたたかさに満ち溢れている言葉は、けれど心をあたためることはなく。
ひとつひとつ認識するたびに、留三郎の心に冷たい氷のような棘が突き刺さっていく。


「……お前の気持ちはわかった。
けど、それでも俺は、お前といたいんだよ」

「……食満さんは、なにもわかってない」


ぐ、と奥歯を噛みしめて、“帰ります。夜分遅くにすみません”と早口で言うと、兵助は部屋を出て行った。
パタン、と無機質な音が部屋に響く。

平行線は、どこまでいっても交わらない。
想いは同じなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
澄んだ兵助の瞳の色を想う。
祝福されるように彩られたイルミネーションの前で、まるで親子のように笑い合う三人の姿。
溢れる光から逃れるように、陰でひとり、その光景を眺めて。三人を見つめる兵助の表情だけ、影になって見えない。

目頭が熱くなって、留三郎は毛布を被る。
息が詰まるほど苦しくて、辛くて。
年甲斐もなく、声だけを殺して、子供のように泣きじゃくった。

心はずっと冷えたまま。
あたためるすべも、今は無い。







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