冷たい手でもいいよ
藍色の空の下、いつものように、留三郎はモッズコートで身を庇いながら駅を出た。
どこを見ても景色はすっかり冬。日が暮れるのが早くなって、ふわんふわんとあちこちで白い息が舞う。
イルミネーションでの一件以来、彼女との仲が深まった。お互いに子供が好きだとわかったことで、よく将来の話をするようになったように思う。
まだ成人したばかりの身では、結婚なんて遠い未来の話のように、思えてしまうけれど。
彼女となら、うまくいきそうな気がする。
彼女はよく兵助のバイト先に行っているらしい。ずいぶん兵助の淹れるコーヒーが気に入ったようだ。
留三郎も会えば世間話をするし、気が向けば兵助のバイト先にコーヒーを買いに行く。あの迷子の親子もたまに来るようで、兵助から彼女や親子の話を聞くこともあった。
楽しそうに、嬉しそうに語る兵助はいつもと変わらなくて、胸騒ぎは気のせいだったのだと妙にほっとした。
ずっと、そんな関係が続くと思っていた。
ずっと、なんてそんな言葉、あるわけないと、知っていたのに。
コンビニに寄ろうか、ふと考える。
自炊は相変わらず週に一回のペースで作ったり作らなかったり。食べるのが自分だけだと思うと、どうもやる気に火がつかない。
なんとなく作る気にならず、適当に買って帰るか、とコンビニの方へ足を向ける。
ぴんぽーん、と機械的な入店音が鳴って、いつもの不愛想な店員がいらっしゃいませー、とやる気のない声を上げた。
適当に酒やつまみをかごに入れて、明日の朝ごはんになる総菜パンをふたつほど選ぶ。
種類の豊富な弁当の棚の前で悩んでいると、留三郎の肩がぽん、と叩かれた。
「こんばんは」
「お、そっちも今帰りか」
「はい。またコンビニ弁当ですか?」
かごの中をちらりと見て、兵助が苦笑する。
今入ってきたばかりなのか、手にはなにも持っていなかった。
「ひとりだとイマイチやる気が出なくて。てか、そっちこそ」
留三郎も苦笑を返しながら言うと、兵助は手をこすり合わせながらちらりとレジの方を見た。
つられて留三郎も視線を向ける。
「寒いから肉まんでも食べながら帰ろうと思ったんですよ」
「ああ。いいな、俺も買うかな」
レジの隣にあるホットケースを見ると、肉まんは残りひとつ。
ここのところ急に冷え込んだせいか、ピザまんやあんまんも残っていなかった。
兵助と留三郎はなんともいえない表情で、顔を見合わせる。
「盛況ですね」
「今日めっちゃ寒いですもんね」
「だなあ。……」
お互いに考えていることがなんとなくわかり、どことなく微妙な空気が漂う。
困ったように頭を掻いて、留三郎が口を開いた。
「……肉まんどうぞ」
「いやいや、食べたいんですよね?」
すぐに返ってきた反応に、やはり同じことを考えていた、と苦笑をこぼす。
肉まんを食べたくてコンビニに入ったのに、当然のように他人に譲る。
兵助らしいとは思うけれど、留三郎も他人の欲しいものを平然と奪い取るような、そんな図太い性格ではない。
しばらくの押し問答の末に、兵助が苦笑した。
「だったら、はんぶんこでもしますか?」
「……そうですね」
はんぶんこ、という言葉に少しだけ反応が遅れた。相変わらず言葉のチョイスがなんだか可愛い。
どちらが買うかでまたひと悶着あったものの、ここは留三郎が品物のついでに買う、ということで決着がついた。
留三郎も律儀な方だと思っていたけれど、兵助の方がよっぽど律儀だ、と財布を出しながら思う。
兵助は先に肉まんの半分の金額を渡してから、雑誌コーナーの方でスマートフォンをいじっていた。
「肉まんひとつ」
「はい」
不愛想な店員が珍しくくすり、と笑う。
どうやら言い合いが聞こえていたらしい。急に気恥ずかしくなって、留三郎は眉を下げてすみません、と苦笑した。
店員はいえ、と口元だけで笑って、また不愛想に戻る。会話はあんまり好きではないようだ。
「あ、」
「え?」
品物を見て、なにかに気付いた店員の声に顔を上げる。
店員はにこりともせずに。
「今、フェアやってまして」
流れるような説明に、留三郎は思わず目を丸くした。
「まさかですよ。俺はアニメすら知らないってのに」
「あはは、まあいいじゃないですか。可愛いし」
コンビニを出た二人の視線の先には、留三郎の持つキーホルダー。
サンタ帽を被った、黒い豹のマスコットが付いていた。
以前、兵助がゼリーを買って貰ってきた、黒猫のキーホルダーと同じアニメのものらしい。
どうやらまだフェアは継続中だったらしく、明日の朝ごはん用に買った総菜パンが該当商品だったようだ。
「じゃあいります? ふたつもいらねえぞ俺は」
「……いや、彼女にあげましょうよそれは」
苦笑する兵助にそれもそうか、と納得して、コートのポケットにキーホルダーを突っ込む。
今度のデートのときにでも渡そう、と考えて。
「っていうかアレ、まだ持ってんですね」
黒猫のキーホルダーは、今は留三郎のキーケースにつけられている。
捨てる気にはならず、かといって仕舞っておくのもなんだか違う気がして。
試しにキーケースにつけてみると、なぜか最初からそこにあったかのようにしっくりと馴染んだのだ。
意外そうに大きな目をまたたく兵助に、留三郎は誤魔化すように“貰いもんは捨てられないだろ”と視線を逸らした。
「……肉まん、食べましょうか」
兵助は綺麗に笑って、がさりと袋をひっくり返して肉まんを取り出す。
包み紙から半分だけパカリと取ると、包み紙の方を留三郎に手渡した。相変わらず気遣いが細やかだ。
「っ」
包み紙を受け取るとき、その長い指先の異様な冷たさに思わず息を詰めた。肉まんを持っていたのに全くあたたまっていなくて、ぞっとするほど温度を感じない。
留三郎の反応に兵助は気付いて、申し訳なさげに眉を下げる。
「あ、すみません」
「いや、びっくりしただけだ。つうか冷たすぎねえ? 体温低いのか?」
「そうなんですよ。それにちょっと今日は冷たい場所で作業してて、」
それはほとんど無意識の行為だった。
眉を下げて笑う兵助の、肉まんを持っていない右手を、下から掬うように取る。
節くれだった長い指の、大きい、滑らかなてのひら。
氷を溶かすように、自分の左手でそれを包み込むように握った。
なんの意識もなく、ただ、その手をあたためたくて。
「――あ、の、」
我に返ったのは、なにかを押し隠すような、硬く震えた兵助の声が耳に届いたからだった。
自分がなにをしているのか、ようやく頭が追いついた。
ハッとして、慌ててその手を放す。
「ぅわっ、あっ、悪い!」
「い、いえ……」
「すまん! お前の手が冷たくて、あっためてやりてえな、とか思ってたらつい!」
ついじゃないだろ、と頭の隅で冷静に思う。
男に突然手を握られるなんて、いくら知り合いと言ったって気分の良いものではないだろう。
現に兵助は俯いたまま、留三郎の顔を見ようともしない。
「ホント、悪い! ヘンな意味じゃねえから!」
「……わ、わかってます。大丈夫です。帰りましょ。ね。」
「……お、おう……」
自分を落ち着かせるように早口でそう言って、兵助はスタスタと歩き出す。
留三郎の顔は、一度も見ることなく。
口先だけの言葉とあからさまな拒絶に、心臓がつきり、と痛んだ。
マンションまでの数分が、とてつもなく長い時間に思えて。
身体をあたためるはずだった肉まんは、冷めてぬるくなっていて。
けれどいくら噛んでも、味は全く感じられなかった。
硬かった兵助の雰囲気が和らいだのは。
マンションの玄関で、明るい髪の男が兵助の名前を呼んでから、だった。
「兵助くん!」
声音まで明るい男の声に、兵助はハッと顔を上げる。
途端にゆるりと溶けた表情は、留三郎が見たこともないほどやわらかくて。
「タカ丸さん」
聞いたこともないほど、やさしい声だった。
「ウチまで来てるなら言ってくれれば良かったのに」
その言葉で、さっきコンビニで連絡を取っていたのが彼だったのだと気付く。
兵助の言葉に、タカ丸はへにゃりと眉を下げて笑った。
「や、ごめんね。驚かそうかと思って」
「アンタねえ……え、ちょっと、いつからいたんです?」
「ええ? んーと……1時間、くらい?」
「どっか適当なとこ入っててくださいよ!」
タカ丸相手に話す兵助はいつもよりも少しだけ、雰囲気が違っていて。
言葉遣いこそ敬語だけれど、ふたりの間にはどこか気安さがあって、親しい関係なのだと分かる。
自分がいても邪魔だろう、と留三郎はマンションに入ろうとした。
そのとき。
兵助が留三郎の目の前で。
「ああもう、こんな冷えてんじゃないですか!」
タカ丸の手を、両手で包んだ。
それはついさっきの自分の行動と同じ、あたためるための行為。
しかしついさっき、兵助は拒絶した。
それはつまり、拒絶されていたのは、男ということではなく、留三郎、ということで。
激しい感情が唐突に腹の底から湧いてきて、
ふたりを気にする余裕もなく、留三郎は部屋まで一気に走った。
あの場に少しでもいたら、余計な言葉をぶつけてしまいそうだった。
兵助にも、タカ丸にすらも。
バタン、と大きな音を立ててドアを閉める。
その扉に背を預けて、留三郎はへなへなと座り込んだ。
(いまさら……!)
今更だ。なにもかも。
鈍い鈍いと言われていたけれど、本当に自分の感情には鈍い。
こんなことになってようやく気が付くなんて、自分でもほとほと呆れてしまう。
嫌われても仕方がないことを、たくさんしてきた。
もう、遅い。手遅れだ。
ようやく気付いた気持ちも、どうしようもない。
気付かなければよかったのに。
留三郎は、きつく、きつく瞳を閉じた。
今更気付いた。
気付いて、しまった。
(俺は。)
兵助のことが、好きだ。