この熱は消えぬまま




年下の彼女は同じ大学の後輩だ。
学部も学科もサークルも違うけれど、だからこそ会うのは必然的に大学が終わったあとになる。それでも最近は忙しくてどうも会えない日が続いていて。
彼女は仕方ないよ、頑張ってね、なんて言ってくれていたけれど、その声が寂しそうで。
そんな声を出させてしまったら男として会わないわけにはいかない、と思ったのだ。

そうして無理した結果、ものの見事に風邪を引いてしまった。

バイトは休まなければいけないが、講義を入れていない日だったことはまだ幸いだった。
一日寝てれば治るだろう、なんて楽観的に考えていたのだけど、熱が高いせいかどうにも寝付けない。
のどが痛くて食欲は出ないし、身体の節々も痛い。だるさから動くのもおっくうで、朝から何も口にしていなかった。
けれどそれではいけないということは、さすがに留三郎にも分かっているので。
這う這うの体でなんとか冷蔵庫まで向かう。
たった1メートルほどの距離がとてつもなく辛い。これはかなり重症だと、妙に冷静な頭で思う。
そうしてようやく辿り着いて、冷蔵庫を開けた。
しかし。


「……まじか……」


冷蔵庫は見事なまでに空っぽで、いつも作っている麦茶すらもペットボトルの下1センチしか残っていなかった。卵の空パックとチューブのにんにくとからしとわさびがあるだけで、食べ物もない。
棚を振り返っても、米どころか麦茶のパックすら無かった。
そこまで認識して、ようやく風邪を引く前のことにまで思考が回る。

そういえば、彼女に会うことが第一優先で、自分のことは全部後回しにしていたのだった。友人にも“あんまり無理しすぎたら身体壊すよ”なんて言われた気がする。
けれど、それでも彼女を大切にしたかったのだから仕方がない。


(……買い物、行くしかねえよなあ……)


熱で溶けかけている頭でそう結論付けて。
いつもの何倍も緩慢な動作で、身支度を始めた。
自覚すると途端に動けなくなるので、熱は測らないでおく。わりと高そうな気がしたけれど、気のせいだと自分に言い聞かせた。
けれど、やっぱりそれは無謀な決断で。

バタン、とドアを閉めた途端。

ふらりと視界が揺れて、ぐるりと脳みそをかき混ぜられた。
あ、まずい。倒れる。
頭の隅で、妙に冷静にそんなことを考えながら。
かすんでいく留三郎の視界に、見覚えのあるネイビーのPコートが見えた、気がした。





*****

ほわりとかおる、だしのにおいと、ことこととなる、なべのおとがきこえる。ゆらゆら、ゆらゆらと、なみのうえにいるような、かんかく。
なんだか、からだがういているような、ふわふわとしたここち。
このままずっとこうしていたい、あんしんかん。

けれど、じわりじわりと、どすぐろいくらやみが、おそってくる。
せっぱくかんとしょうそうが、はうように、おそいかかってきた。
からだじゅうのあちこちが、いたくて。
いきができないほど、あつくて。
くるしくて、つらい。
たすけて。

そう、おもったとき。

ひやりとしたものが、くびすじにふれた。
それはくびすじから、ひたい、ほほをさわって、ゆるく、ひだりのてくびをにぎる。
つめたくて、きもちがよくて、なんだかあんしんするおんど。

やさしくて、あたたかくて。
いたみも、あつさも、くるしさも、つらさも、ゆっくりとほどけていくような。

“それ”がゆっくりとはなれていく。
おもわず、すがるようにおいかけた。
つかむと、“それ”はぴくりとはんのうして。
そして。

――ふに、と、てのひらに、やわらかいものが、ふれた。

すぐにはなれたそのおんどは、けれど、とてもここちよくて。
ゆるゆるといしきがとけていく。
どこかせつなくて、けれどあたたかくて、つつまれるような、ゆったりとしたこうふくかん。
いまのはなんだったんだろう。
そんなことをかんがえる、まえに。

いしきはゆっくりと、あたたかなくらやみのおくに、おちていった――

*****





留三郎の意識が浮上したとき、部屋には誰もいなかった。
けれど留三郎には冷えピタが張られていて、頭の下には氷枕があって、
部屋はなんだかあたたかい匂いで満たされていて。
さすがに服はそのままだったけれど、仕舞っていた毛布が被せられていて。
なんだかとても良い夢を見ていた気がするのだが、あまり覚えていない。

ふと首を傾げた留三郎の視界に、テーブルの上に置かれたメモが映った。重石代わりに、白いボンボンのついた赤いマフラーを巻いた、黒猫のキーホルダーが置かれている。
そのキーホルダーもなんだと思ったけれど、一番に浮かんだのは“誰かに迷惑をかけてしまった”ということで。
申し訳ない思いでメモを見る。


“必要な物は冷蔵庫に。
葛湯と卵粥を作ったので食べられそうならどうぞ。勝手に台所使っちゃってすみません。

元気になったら、ウチのバイト先の売り上げ貢献してください。久々知”


綺麗な文字で簡潔に書かれた言葉。
やはり、部屋の前で見た気がしたのは兵助だったのだろう。そしてわざわざ看病までしてくれたらしい。
申し訳ないという気持ちも見越していたような最後の言葉に、胸がほこりとあたたかくなった。

冷蔵庫を見ると、ひとつ減っている六個入りの卵パックと、ミネラルウォーターやゼリーが入っていて。
棚にはレトルトのお粥や米、固形の栄養調整品が並べられている。
台所には一人用の鍋に入れられた卵粥と、マグカップに入れられた葛湯があった。どちらもまだ暖かい。
もしかすると、ついさっきまでいたのかもしれない。
時計を見ると、昼の4時を過ぎた頃。出かけようとしたのがちょうど10時頃だったから、さっきまでいたとしたら、一日のほとんどを無駄にさせてしまったことになる。
さすがに、バイトまで休んだということはないだろうけれど。


(毎日通うか……?)


それくらいしないと申し訳が立たない。
あと、買ってきてくれたものの代金も支払わないと。
ミネラルウォーターを飲んでだいぶ落ち着き、熱も下がってきたのか、あれこれと考えるだけの余裕が出てきた。
すると。
かちゃり、と静かにドアが開いた。


「あ、起きたんですね。メモ見ました?」

「え、なんで……」

「ちょっと電話してて」


入ってきたのは兵助だった。
じっと留三郎の顔色を見て、ほっとしたように微笑む。


「だいぶ顔色よくなりましたね。大学から帰ってきたら目の前で倒れるんですもん、もうびっくりしましたよ」

「すんません、いろいろと迷惑かけたみたいで。
っつうか、ずっといたのか? もしかしてバイト休んだりとか……」


申し訳なさそうに眉を下げる留三郎に、兵助は慌てたように手を振る。


「や、バイトは今日休みなんでっ。
……かなり熱が高かったみたいなので、ひとりのときに何かあったら大変だと思って。
あ、ご迷惑ならもう帰りますから」


気を使わせないようになのか、返事をする前にあっさりとそう言って立ち上がった。
留三郎は焦って思わず、縋るように腕を掴む。
兵助が驚いたように振り返った。


「あの、代金、とか」


そう言うと、ああ、と納得したように頷く。
なぜだかほっとしたような表情をした、ように見えた。


「その前に卵粥か葛湯、どうですか?」

「え。ああ、じゃあ、葛湯を貰います」

「はい。たぶんまだあたたかいから大丈夫ですよ」


お金の話をはぐらかされたような気がして、立ち上がった兵助に“代金のことは後で聞きますからね”と一応釘を刺しておく。
兵助はわかっていたとでも言うように、くすくすと笑った。


「あ、リンゴアレルギーとかないですよね?」

「リンゴ? ないけど」

「よかった。はい、どうぞ」


あたたかいマグカップを手渡される。
やさしく甘い香りの中に、甘酸っぱいリンゴの匂いがする。ふん、と香る独特の匂いはショウガだろうか。
渡されたスプーンでかき混ぜてみると、とろりとはちみつ色の液体が揺れた。
スプーンですくって、ひとくち。


「……やっぱり、そっちの料理のが美味いですよ」


とろりと甘くて、けれどすりおろしたリンゴのお陰でのど越しはすっきりしていて。ショウガが入っているからか、ふたくち、みくち、と飲むうちに身体があたたかくなってきた気がする。


「うめえなあ」


ぽろりとあふれ出てきたような言葉に、兵助は優しく目を細めた。
あたたかくて優しい味と、すりおろしたリンゴの匂い。
どこか懐かしくて、なんだか嬉しくて、また留三郎の胸はほこほこと満たされる。


「……なんか、いいもんだな。看病されるって」


兵助はきょとんと眼を丸くさせて、くつりと笑う。
そしてメモの重石代わりに置いてあった、猫のキーホルダーを手に取った。


「大丈夫ですよ。これからはこの子が病気を跳ね返してくれますから」


いたずらっぽい表情に吹き出した。


「あ、笑いましたね。一応お守りなんですよこれ」

「お守り?」

「知りません? アニメのキャラなんですけど、この子、無病息災の神様なんですよ。
コンビニでフェアやってて、ゼリー買ったら貰ったんですけど。凄い偶然でしょ?」


だからこれからは大丈夫なんです、と兵助は楽しそうに断言する。
留三郎は手渡されたキーホルダーをまじまじと見た。
たまたま貰ったキーホルダー。
赤いマフラーを巻いた、黒猫の神様。
しかも無病息災ときた。
確かに、なんだかご利益があるような気がする。


「じゃ、もし久々知さんが風邪引いたときは俺が看病しに行きますね」

「いやいや、おれは友達に頼みますよ。というか、彼女とか友達に連絡したらよかったのに」

「…………思いつかなかった」

「ええ……相当参ってたんですね。ダメですよ、ちゃんと自己管理しないと」


声音ばかりは怒った振りをして、兵助はゆるく苦笑する。
目の前で倒れて心配させてしまったのは本当なので、留三郎は大人しく謝った。

釘を刺しておいた通りきちんと代金を支払うと、兵助は“長居するのは悪いから”と帰っていった。
“卵粥は適当に温めて食べてくださいね”とひとこと付け足して。
出汁の香りはずっと漂っているから、“ありがとうございます”と素直に頷いた。

夜になって、鍋に入ったままの卵粥を温め直した。
鍋の蓋を開けると、ほわん、と湯気が立つ。
一緒に、美味しそうなかつお出汁と、卵の香り。


(……?)


頭の中を、なにかがかすめた、気がした。

なんだろう。
出汁の香り。
出汁の香り?
いや違う、
出汁じゃなくて、卵粥の香りだ。

なんだかこの香り、どこかで嗅いだような――?


「あ、」


思い当たったことに、留三郎は暫く固まっていた。

すっかり熱の下がった身体に、
左のてのひらだけ、妙にあつくて仕方なかった。





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