ため息まで白い
噛んだ瞬間にじゅわっと優しい甘さが染み出て、詰めた酢飯にほどよく絡む。ジューシーで甘辛い油揚げのいなり寿司は、衝撃的なくらい美味しかった。
それは、スマホを操作していた手を止めるほどに。
気が付くといつつのいなり寿司はあっという間に留三郎の胃袋に収まり、メインディッシュであるはずのおでんはすっかり冷めてしまっていたのだった。
とても美味しくて、けれどとても美味しかっただけに、留三郎はお礼の品に悩まされることとなった。
好意を貰うことには慣れている。バレンタインデーや誕生日に女の子からチョコや贈り物を貰うことはよくあることだったし、人の面倒を見ることが多いだけ、好意を渡す立場にもよくなるからだ。
真面目で律儀なところはあるが、だからと言って、同じように返すことはしない。
返そうとも思わなかった。
けれど今回はどうしてだか、同じぶんだけ返したい、と思ったのだ。
どうしてなのか、という疑問が浮かぶこともないくらい、自然と。
「あの、お礼ってなにがいいですか?」
どれだけ悩んでも良いお礼は思いつかず、結局留三郎は皿を返した時に本人に聞くことにした。
いなり寿司がとても美味しかったことと、何も返さないのは気分的にもやもやするので、と付け加えて。
兵助はいなり寿司の感想に嬉しそうに表情をほころばせて、それから“そんなつもりはなかったんですけど”と困ったように眉を下げた。
「美味しかったって言ってもらえただけで、おれとしては満足なんですけど」
「それだと俺の気が休まらないんで。なんかないですか、欲しいものとか、してほしいこととか」
「してほしいこと……」
少しだけ考えるように小首を傾げた兵助は、じゃあ、と留三郎を覗き込むように見た。
「食満さんの料理が食べてみたいです」
その日はお互い忙しかったので、好き嫌いだけ聞いて後日約束を取り付けて。
それからきっかり一週間後、留三郎は兵助を部屋に招待した。
部屋のすみずみまで綺麗に掃除をして、料理の下ごしらえも完璧にして。まるで彼女を初めて部屋に呼ぶときのように、いや、もしかするとそれ以上に気合を入れて準備をした。
もっとも、兵助はまさか招待されるなんて思ってもいなかったようだったけれど。
恐縮したようにそろそろと入ってくる様は、さながら警戒心の強い黒猫で、少しだけ可愛いと思ったことは内緒だ。
「しかし変わってますよね。絶対自分が作った方が美味いだろ」
フライパンの温度を確かめつつ材料を切って、所在なさげに座る兵助を見やる。
付けたテレビから笑い声が聞こえてくるが、兵助は興味なさそうに留三郎を振り返って苦笑をこぼす。
「いや、最近誰かの手料理なんて食べてないなって思っちゃいまして」
「ああ、まあ、一人暮らししてるとな。ちゃんと野菜食ってます?」
「昨日サラダバー行きました。ここからだと乗り換え大変なんですけど、隣にアミューズメントバーがあるとこで。近くで研修があったんで行ったんですよ。
そしたら、久々に野菜食べたせいかなんかすっごく美味しくて!」
「あー、わかるなあ。野菜ってこんな美味かったんだ! っていう」
「そうなんですよ! もうびっくりしました」
通う学校は違えど、住む場所は同じ。
意外と使う店や駅がかぶっていたりして、話は思った以上に弾んだ。
数日前まではただの知り合いだったというのに、まさかきっかけひとつでここまで変わるなんて。
あっという間に近づいた距離に未だに戸惑っている部分はあるけれど、それでもなんだか留三郎は楽しかった。それはきっと、兵助の方も。
「駅前の公園? あの大きいとこの」
調味料を混ぜながら兵助の方を見る。
兵助はお茶の入ったコップを両手で組むように持って、楽しそうに微笑んだ。
「ええ、その中のコーヒースタンドでバイトしてるんです」
「あー、確かにそんなとこあったような。へえ、じゃあコーヒー淹れるのうまいんですか?」
「自信はありますよ、高校のころ喫茶店でバイトしてましたから。
今はイルミネーションやってるんで、寒いけど意外と儲かるんです」
「ああ、まあブナンですしね」
「今度、彼女さん、連れてきてくださいよ。美味しいコーヒー淹れますし」
「いいな、飲んでみてえ。あいつも喜びそうだし」
年下の彼女は背が低くて、オシャレと甘いものが大好きな、ふんわりした子だ。
ピンクや白の、ふわふわとしたマカロンみたいな色の服装を好んで、かわいい、甘めのメイクをして。
甘え上手で寂しがりなところと、少しだけ天然なところがあって、面倒見が良い留三郎との相性も良いみたいだった。
イルミネーションを一緒に見て回って、写真を撮って。あたたかいカフェオレを一緒に飲んで、それから。
確かに、彼女は喜びそうだ。
料理の火加減を見ながらそんな想像をしていたから、そのとき兵助がどんな表情をしていたかなんて、留三郎が知るはずもなかった。
ふわんふわんと舞っていく白い湯気を閉じ込めるように蓋をして、留三郎はペットボトルのお茶片手にベッドに腰掛ける。
五分ほど待ってからあとひと手間で完成だ。
「休憩ー」
「ふふ、お疲れ様です」
「もうちょっとでできますよ」
楽しそうに笑う兵助に留三郎の表情もほころぶ。
テレビではタレントが、最近のニュースについてあれこれ言い合っていた。
あまり面白い話題とは言えない。
手持無沙汰になりそうで、兵助に断りを入れてから煙草の箱を手に取った。
「タバコ、吸うんですね」
「軽くですよ。まあでも、もうやめられねえなあ」
「喫煙者ってみんなそれいいますよね。おれの知り合いも似たよーなこといってました」
知り合いを思い出しているのか、兵助の瞳が柔らかく緩んだ。
なんとなくその話を続けたくなくて、白い煙を吐き出して話題を変える。
浮かんだ感情は留三郎の思考をかすめて、引っかかる間もなく消えていった。
「他にどんな料理作るんですか?」
煙草をくわえたまま立ち上がり、フライパンの中身を確かめる。
ピーマンを加えて、あと少しで完成だ。その前に煙草の火はきちんと消しておく。
「え? ああ、おれは簡単なものしか作りませんよ。スタンダードにハンバーグとか、焼きそばとか。
てかおれこっちに来て初めて知ったんですけど、ひとり分の焼きそば用の野菜があるとか」
「あー、確かに田舎にはないですよね。俺もこっち来たとき驚いたな。
それに、総菜がすごく多くて」
「ああ、それ思いました。弁当とか、サラダの種類も桁違いですもんね」
火を止めて、軽く塩コショウを振る。
漂う匂いは魚のようで、ワインの芳醇な香りとトマトの酸味、それから鼻につんとくるこの香りはにんにくだろうか。
部屋は美味しそうな香りで満たされて、知らないうちに兵助は猫のように鼻をひくつかせていた。
「はい、どーぞ」
丸く平べったい皿がテーブルの上にことん、と置かれる。
真っ白な鱈の周りを彩るように、輪切りのピーマンと半分に切られたプチトマト。それからしなしなに煮込まれた透明なたまねぎが、コクのあるスープの中で踊っていた。
おしゃれな料理に、兵助は思わず感嘆を漏らす。
「うわ、すごい……。これってアクアパッツァ、ですよね?
こんなの作れるんだ……」
「いやいや、アクアパッツァ“風”だから。それにレシピ見ながらですし」
苦笑しつつも、留三郎は兵助の反応に満更でもなさそうな表情をした。
ひとり暮らしを始めたころは料理をするのが楽しくて、友人達の反応もなかなかのものだったから、いろんな国の料理にも手を出したのだ。
本格的なものではないが、この料理には自信がある。
ガーリックバターを塗ってドライパセリを振ったガーリックトーストも出して、準備万端。
「いただきます!」
「召し上がれ」
子供のように瞳をキラキラさせて手を合わせる兵助に笑って、留三郎も手を合わせた。
鱈をほぐして口に入れると、その反応を待つように留三郎は黙って兵助を見つめる。
「……! 食満さん、これ、すっごく美味しいです!」
満面の笑みでパクパクと食べ続ける兵助に、ようやく留三郎もほっとしたように箸を取った。
鱈の旨味がぎゅっと詰まったアクアパッツァはとても美味しくて、濃い味の鱈も野菜の爽やかさの前では気にならない。
あっさりなのにコクがあるスープにはガーリックトーストを浸して食べると、ふくふくとした幸福感に満たされた。
「なんかもう、しあわせなんですけど……美味しすぎる」
「おいおい、大げさだって」
見ている方が幸せになりそうな笑みを浮かべる兵助に苦笑をこぼす。
けれど本当に幸せそうな兵助を見て、口をつぐんだ。
「いやもうホントに。手料理久々だし、美味しいし。今さいっこうにしあわせです」
少しだけ瞳が潤んでいるように見えて、留三郎は戸惑う。
どう考えたって、料理のレベルは兵助の方が上だ。自分の作ったものも、ここまで感動されるとなんだか逆に恥ずかしくなってくる。
しかもそれが、嘘ではないとその表情でわかってしまったから。
何も言葉を返すことができずに、留三郎はもくもくと箸を進めた。
テレビはいつしか、恋人に贈るプレゼントの特集を始めていた。
さすがに片付けはさせてくれと頼み込んで、皿と器具を洗ってから留三郎の部屋を出る。
食べた料理の味と、留三郎の笑みを思い出して、兵助は大きく息をはいた。
目に見える色に、さっきまでのひとときを思い出す。
ふわんと漂う湯気や、気だるげにくわえられた煙草や。
そのときの彼の表情や、仕草まで。
振り払うようにかぶりを振って、兵助は自室の鍵を開けた。