シナリオ | ナノ
ばたばたばたばた。端からしたら騒がしいであろう慌ただしさで二つの足音が廊下を駆けていく。迷惑だろうとは思うが止められない。何故なら、時計の長針があと三ミリほど動いたらホームルームの本鈴が鳴ってしまうからだ。

「おい、修斗!あんまり走るなよ!」
「だって!俊介は良いけど俺、今度遅刻したらマジで怒られるって!」

だからって云々と後ろから聞こえる小言を全て無視して階段を駆け上がる。俊介のあまりの滑舌の良さによく舌を噛まないなあ、と下らないことを考えて疲れ始めた呼吸を誤魔化した。今朝はしっかり余裕を持った時間に家を出たはずだった。この遅刻に俊介が同伴しているのには理由があった。
朝の通学路で、誰かの落とし物らしい野球ボールを拾った。その時、偶然にも幼なじみの丸ノ内俊介を見つけた。修斗は自分が野球ボールを見ると我慢が出来なくなる質だということを十二分に自覚していて、身体がむずむずするような感覚に負けて俊介に声をかけたのだ。そのまま一緒に時間なんて忘れるくらいボールを投げ合って、そして気付いたらこの様だった、というわけだ。
ヤバいヤバいと口に出しながら階段の最後の段を踏み、教室までのラストスパートをかける。俊介も、さすが練習がヘビーと噂のダンス部なだけあって、息一つ乱した様子もなくほぼ真後ろを走っている。多分、追い抜こうとすれば出来るだろう。けれどそれをしないのが俊介の優しいところだ。あと曲がり角を一つ曲がれば、教室までは一直線だ。転びそうになりながら、勢いよく角に差し掛かった。
どんっ。

「うわあっ!」

角は曲がったはずだ。けれどぶつかった、何かに。後ろに尻餅をつく形で倒れ、すぐ近くでドサリという音がする。ぶつかったものは壁ほど堅くはなかった、それに加え今の音。やばい、と直感的に思うと同時に、俊介から驚愕の声がかかった。それに返事をする余裕もなく、修斗は顔を上げると自分がぶつかったものを確認する。

「あ…ご、ごめん!」

一瞬先生かと思った修斗は表情を強ばらせた。このぎりぎりの時間に来るのはそれ以外に考えられなかったから。けれどその予想は見事に外れ、目の前に座り込んでいたのはこの雷門中の制服を着ている生徒、しかも女子だった。周りには修斗の鞄から飛び出した教科書が散乱している。さあっと顔が青ざめていくのが分かった。相手が女なのと、もしも先輩だったらという不安からだ。けれど最悪の事態は免れたらしく、相手の制服のリボンは野球部のマネージャーの春野と同じ一年生の物だった。
それでも、後輩だからなんて関係なく、いつまでも顔を上げない彼女を見て、もしかして怪我をさせたのかも知れないという不安が押し寄せる。慌てて助け起こそうと肩に触れると、彼女は漸くゆるゆると頭を上げた。暖かい琥珀色の瞳と、初めて視線がかち合った。不思議そうに、無言のままあどけない表情で見上げてくる。

「えと、怪我とか、ないか?」
「……?」
「ごめんな、俺が前見てなかったから」

謝罪の言葉を述べると、彼女ははっと覚醒したかのように瞳を見開いて、素早く立ち上がった。スカートの中が見えそうになって、修斗は慌てて後ずさり、心を落ち着かせてから腰を上げた。隣では、とっくに追いついてきた俊介がまた小言を零している。だから走るなって言ったんだ等という声の棘が少し胸に刺さった。もう一度ぶつかったことを謝ろうとしたが、彼女はまた廊下にしゃがみ込むと自分が落とした教科書やノートを必死に広い上げていて、手伝う間もなく所持品は全て彼女の腕の中に戻ってしまった。
なんだか変な動きをする奴だなあ、とぼんやり眺めていると、彼女は自分が被害者であるにもかかわらず深く一礼をして修斗達の横を駆け抜けていった。ぱたぱたと、自分とは全然違う静かな足音が聞こえた。彼女の姿を一つ先の角に見えなくなるまで見送ってから、修斗も廊下にぶちまけた自分の荷物を集め始めた。教科書、筆箱、弁当と次々に鞄へ放り込む。と、最後に一つ、見慣れないものを見つけた。

「これ…あいつのかな」

手に取ったのは少し大きめの電子辞書だった。修斗は辞書なんて持っていないし、確実にさっきの彼女が落としていったものだろう。けれど、何故学校に電子辞書なんて持ってきているのだろう。確か電子タイプの辞書は禁止だった気がするのだが。修斗はそれを目の前にかざしながら首を傾げた。すると俊介が、それを見て「ああっ、おまえ!」と耳元で叫んできた。かなり鼓膜に響いた。

「おまえ、それ、あの子のだろ!早く返してこないと困るぞ!」
「え?なんで?」
「なんでって…修斗、あの一年のこと知らないのか?」
「全然」

あんぐり。俊介は口をまあるく開いた。それと同時に本鈴が廊下に響き渡った。げ、と眉を顰めるが、もう手遅れだ。自分のクラスの担任がチャイムぴったりに来るのは分かっていた。落胆する気分を何とか保って、チャイムなんか気にならないらしい俊介の言葉の続きを促した。俊介は驚きから呆れ顔に表情を変えて、何かを諦めたように大きなため息を吐き出した。あのいかにも普通そうな女子が、そんなに有名なのだろうか。疑問に首を傾げたまま、俊介の言葉を待つ。

「おまえんとこのマネージャーと同じクラスの菊池愛夏だよ」
「ふーん。で、有名な奴なのか?」
「有名、っていうか…」

そこで俊介は言葉を濁した。何か言いにくそうに難しい顔をしている。困ったようにする俊介に「なんだよ」と催促すると、少し遠慮したように小さな声で続きを話した。

「それ、菊池さんが使ってるワープロだよ。菊池さんは、喉が悪くて声が出ないんだ」

だからみんな知ってるんだ。と俊介の最後の言葉を聞きながら、今度は修斗の方が口を大きく開いた。脳裏に、今さっき見たばかりの琥珀色が鮮やかに映し出された。
これが、遠藤修斗と菊池愛夏の少し奇抜な出会いだった。
その後、のんびりと話しながら教室に入った修斗と俊介は担任にこっぴどく叱られた。これなら廊下を走って怒られた方がましだったと思ったのは、隣の俊介にも言わなかった。真面目な俊介はそれを聞いてもため息を吐きながら呆れるだけだと何となく想像できたからだ。そして漸く席に着けた頃に丁度チャイムが鳴り、担任はさっさと教室を出て行ってしまった。修斗は普段通り授業の準備をしようとした。しかし、後ろから肩をとんとんと叩かれ、修斗は制止した。首だけで振り返れば、俊介が目を細めながら自分を睨んでいた。

「早く一年の教室行ってこい」

何となくその言葉が予測できたからか、修斗はすぐに立ち上がり先程拾ったワープロを片手に教室を出た。違う、忘れていたわけではない。断じて違う。俊介はこういう時にはついてきてくれないのか、と少し肩を落とした。寒い廊下を早足で歩いていたためか、目的の教室にはすぐに辿り着いた。扉の影から教室の中を覗き見たが、目的の人物は案外すぐに見つかった。何故なら、後ろの方の席でバックをひっくり返して一人慌てている女生徒の姿が見えたからだった。幸いなことに、その側に修斗と見知っている人物を見つけ、修斗は小声でその名前を呼んだ。

「おーい、春野ー…」
「え?あ、遠藤先輩!」

春野彩音は野球部のマネージャーを勤めている一年生だった。気さくでいつも元気な彼女なら声をかけるのに気がひけるようなことはなかった。すぐに修斗の呼びかけに気付いた彩音は、隣に居た例の女子を置いてこちらまで寄ってきた。

「おはようございます。どうしたんですか?」

首を傾げる彩音に軽い挨拶を返し、修斗は懐に入れていたワープロを取り出した。

「あ!これ愛夏の!愛夏ー、ちょっと来て!」

これ、今朝あの子とぶつかった時に拾ったんだ。そう言おうと思ったのを見事に遮って、彩音は止める間もなく、ぶつかった張本人を大声で呼んでしまった。彩音に拾ったものを渡してさっさと帰ろうと思っていた修斗は、予定外な展開に少しばかり焦った。あと五分で一限目のチャイムが鳴ってしまうのに。愛夏、と呼ばれた女子はゆっくりと席を立ち、途中で修斗の姿を見つけるなり急に慌ただしくこちらに駆け寄ってきた。それは修斗が今朝ぶつかった相手だということに気付いたからか、それとも修斗の手にしっかりと掴まれているワープロを見つけたからか。近くまで寄ってきた愛夏は、修斗と彩音を交互に見た。三つ編みのおさげになっている茶髪がせわしなく揺れ、最初のおとなしそうな女の子というイメージが崩れた。何故そんな第一印象を抱いたかといえば、それはやはり喋らないこと、そして彼女の見た目だったのだろう。茶色のおさげに綺麗に切りそろえられた前髪。少し垂れ目気味なのもあって、初めて見れば誰もが自分と同じ印象を受けるだろうと思った。加えて、俊介に「菊池愛美は障害持ちだ」というような説明をされていたからか、修斗は完全に彼女に元気のなさそうなイメージを抱いていたのだ。けれど、今みたいにすぐに慌てたり鞄をひっくり返したりとしているのを見ると、案外そうでもないのかも知れない。

「愛夏、遠藤先輩がワープロ届けにきてくれたんだよ!ほら、お礼!」
「あ、や、良いよお礼とか!ぶつかった俺も悪かったんだし」
「ぶつかった?」

彩音は目をぱちくりと瞬かせた。どうやら彼女は今朝の出来事を何も聞いていないらしい。修斗はホームルームの前に廊下で愛夏とぶつかった経緯を簡単に説明した。改めて、あれは全面的に自分が悪かったと確認して少し気分を落としたのは言わないでおこう。

「へえ、そうだったんですか。わざわざありがとうございます」
「別に良いって」
「でも、よく愛夏だって分かりましたね」
「ああ、それは」

菊池は有名だって俊介が言っていたから。そう口走りかけて、修斗は思いとどまった。有名だと言ってしまうのは愛夏に失礼な気がしたからだ。障害を持っているせいで名前を知られているなんて、本人にとって嬉しいはずがない。それは自分なりに気を遣ったつもりだったのだが、生憎と修斗は成績と反映して頭が悪かった。途中まで出かけた言葉を飲み込んだのは良いが、不自然に途切れてしまった会話を次に繋ぐことが出来なかった。そのため、修斗は苦笑いを浮かべたまま冷や汗をかく羽目になってしまい、皺の少ない脳みそを絞るように当たり障りのない言葉を考えた。しかしそれを思い付くよりも先に、制服の裾を何かに引っ張られ、修斗の思考はぱちんと弾けるように遮られた。制服を引いたのは愛夏の指だった。それを確認して正面を向けば、愛夏は何故か修斗に向けて笑っていた。意味が理解できずにいる修斗は、愛夏に両手を差し出されてもしばらくはその意図に全く気付けなかった。両手のひらをじっと凝視しながら一瞬考え込んだのち、自分が彼女のワープロを持ったままだということに漸く気付き、恥ずかしい思いをしながら慌ててそれを持ち主に返した。すると、愛夏はそれをしまわずに、おもむろに開いた。何かを打ち込んでいるようだが、修斗には何が何だかまるで理解出来なかった。呆然としている修斗に、愛夏は急にワープロの液晶画面を向けてきた。少し驚いて後ろにのけぞりながらも、それが愛夏の普通なのだろうと思い修斗は液晶の文字を頭の中で読み上げた。その画面には、「気にしてないから大丈夫です」という文字。どうやら分かっていたらしいということ、そして後輩に逆に気を遣わせてしまったことが少し恥ずかしがった。そのせいか、その文章に対して、修斗は非常にたどたどしい不器用な言葉で返事をしてしまった。一瞬、場がしんと静まり返った。カチッという時計の針が進む音がしたような気がしたが、おそらく気のせいだろう。「あ、じゃあ愛夏、ちゃんと紹介するね」と彩音。なかなか上手く空気が読めないところは彼女の短所でもあり長所だと言えるだろう。彩音は修斗の方へ手のひらを向けた。

「野球部の遠藤先輩。すっごいバッターなんだよ。で、先輩。この子が菊池愛夏。私の幼なじみなんです」
「へえ…じゃあ悠斗の方とも幼なじみなのか?」

悠斗というのは野球部の部長で、春野悠斗という。名字を見ての通り、彩音の実の兄だ。「もちろん、みんな同じ小学校ですから」と彩音は大きく頷いた。彩音と悠斗はとても仲の良い兄妹で、学校でもよく話しているのを見かけるが、同じ学校に幼なじみがいるというのは初耳だった。うんうんと相槌を打っていると、愛夏は急に彩音に向かって両手を突き出した。そのまま指を折り曲げたり広げたりを繰り返して、修斗はそれが手話という話法を使っているのだと気付いた。愛夏の言葉を読み取って、彩音はこちらを向いた。なるほど、ワープロを使わない時はこうやって他人と会話するのか。彩音は愛夏の通訳者、といったところだろう。

「愛夏、遠藤先輩にありがとうって言ってますよ」
「えっ、あ、こっちこそごめんな!」

一瞬、彩音と愛夏どちらに言えば良いのか迷った。会話をしているのは愛夏のはずなのに、喋っているのは彩音だから。ふと、愛夏を見れば彼女が笑っていることに気付いた。さっきと同じ笑顔、少し違和感を抱いた。困ったみたいに笑うんだな。言うかどうか迷って、飲み込んだ。そんなことを言えば、余計に愛夏を困らせてしまうだろうから。修斗には分からなかった。それが愛夏の普通なのか、それとも困ったような笑顔が普通になってしまったのか。

「菊池!」

気付いたら、というのは些か間違いか。修斗は衝動的に、愛夏を片手を掴んでいた。

「俺と友達になろう!」

そして、考えたことをそのまま叫んだ。ぽかん、と修斗を凝視したまま動きが止まっている愛夏にはお構いなしだ。修斗は自分でも、自らの発言の意味が良く分かっていなかった。その日に知り合った後輩に、いきなり友達になろうなんて大声で言う奴なんて普通はいない。けれど、修斗はもう自分で自分を止めることを考えてもいなかった。一度言い出すと後先考えないというのが、修斗が友人に馬鹿だの阿呆だの言われる理由の一つだった。

「俺のこと呼び捨てでいいから!あ、俺も愛夏って呼ぶ!じゃあチャイム鳴るから帰るな、また来るから!」
「ああっ、ちょっと、先輩!」

たたみかけるように言いたいことだけを言って、彩音の制止の声も聞かず修斗は踵を返した。廊下に出て十秒もしないうちに、一限目のチャイムが校内に響いた。けれど修斗の頭には、授業のことよりも愛夏のあの困ったような笑顔が張り付いて消えなかった。少し、いや、かなり強引だったかも知れない。彩音も愛夏も驚いた顔をしていた。何故、自分が急にそんなことを口走ったのか、考えてみたものの良く分からないままで、修斗は自分の行動を思い返してまた恥ずかしい思いをした。ただ、その時思ったことだけは、はっきりと自覚していた。
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