フェチ | ナノ

 指先に伝わる、あのざらざらした感触が好きで、わたしは図書委員になったというと、たいていのひとはとても変な顔をする。本が好きなんじゃなくて? と聞かれることもある。
「本じゃなくて、図書館の、あの、ビニールのカバーがいい」
 そういうと、彼や彼女はますます変な顔をして、「変な趣味だね」というのが常だった。
 かく言うあなたがたも、それなりにへんてこな趣味をお持ちではないですか。そう言いたいのをぐっとがまん。ノートは二ページ目から書かないと気が済まないとか、暖めた牛乳の膜を食べたいがためにホットミルクを作るとか。横断歩道を渡るときには白線の上を歩いてしまうだとか。
 つまりは、普通のひとなんてどこにもいないんだ、ということに気がつくのにはそんなに時間はかからなかった。
 あえて言うならば、共通の感覚を持つ人が多いものごとが普通なのかもしれないけれど、まあ、そんなことはどうでよくて、大事なのは、わたしが好きなのは、図書館の本にかかるビニールが指先に触れる感触であるということただひとつだった。

 本棚に本を戻してゆくのは、わたしの好きな仕事の中でも上位にはいるもので、その理由は言わずもがな、たくさんの本に触れられるからである。ちなみに、いちばん好きなのは、本にビニールをかける作業。透明な定規で抑えながら、空気が入らないように、はじからはじまでビニールを滑らせて行く。出来上がった本を一番に手にとれるのはビニール掛けの仕事をするひとの特権だ。
 分類番号に応じて、本棚に一冊ずつ本を片づけて行く。古いものも、新しいものもある。だいたいのものは冷たくて、なかなか場所が見つからないときには手の熱がうつってじんわりと暖まる。その感覚が、なんだかおもしろいので、やっぱりわたしはこの仕事が向いているんだろうなあと思う。いつか、司書になってもいいかもしれない。ぼんやりとだけれどそういう風に考えることもある。
 こんなへんてこな趣味で将来を決めちゃっていいのかなあなんて思いつつ、手を動かすのは止めない。やらなくちゃいけないことは、意外と多いのだ。
 海常高校は、部活に、特にスポーツに力を入れる学校だ。委員会の方が手薄になるのは、まあ目に見えていることで。わたしみたいに週一回活動するだけの文化部に所属する人間は、正直部活よりも委員会の方で重宝されることになる。むしろ、そっちの方が部活みたい。
 ワゴンを押しながら、次の本棚へ。窓に近い棚のところに、ひとりの男の子が立っているのが見える。
 またいる、と思った。彼の名前は、黄瀬涼太という。バスケ部のエースで、モデルなんかもやっている、全校でも随一の有名人だけれど、図書委員の中ではまた違った意味で知られている。
 彼は、毎日授業終わりから部活始まりまでの二十分のうち半分は、図書館の、この窓に近い棚の前に立っている。特に何かするわけでもなく、ただぼんやりと。なぜなのかは、よくわからない。本を借りて行ったことは、一度もないので、わたしたちの間でもなんだろうねえ、とたびたび話題になる案件だ。
 そんな黄瀬くんを前に、わたしは少し足を踏み出すのをためらった。彼はいつもよりも、通路の真ん中に立っていた。このままじゃ、通れない。ワゴンを握る手を緩める。
「あの、すみません。通していただいても」
 小声でそう話しかけると、彼ははっとして、
「あっ、すンません」
 とその場をとび退いた。どうも、と少し頭を下げてその前を通り過ぎようとするも、浮いてしまっていた絨毯にワゴンのタイヤが引っかかって動かなくなってしまった。どうしよう。ワゴンを持ち上げようしたけれど、本が乗りすぎていてわたしひとりの力じゃ難しい。しかたがないので、本をいったん何冊かおろして、それから動かそうと考えた、そのときだった。
「ちょっと、いいっスか」
 取っ手を、骨張った手がつかむ。今度はわたしがびっくりしてとび退く番だった。わたしがどいたところに黄瀬くんがするりと入り、力いっぱい、という感じではなくワゴンを押した。もともと浮いて、ぷかぷかしていたタイル状の絨毯がタイヤの重みから逃げ出して床に落ちる。
「たぶん、これで大丈夫」
 彼は、そうと言って、わたしの方を見た。舞った埃にくすぐられたのか、彼の鼻がスン、と小さく音を立てた。

 涼太と出会ったときのことを思い出すと、今でも、あれはなかなかかっこよかったなあと思ってしまうというようなことを言うと、彼は「今はどうなんスか」とむくれる。子どもみたいな顔をして、わたしの首に鼻先を押し当てる。
 じゃまくさいと言いたいところだけれど意地悪はしない。休日なのだ。たまには、彼の好きなようにさせてあげたっていいだろう。悪い気は、しないし。
 今日の朝ごはんはフレンチトースト。牛乳と溶き卵、そこに砂糖を加えたものに食パンを浸して、バターで焼く。コーヒーメーカーはさっきからぽこぽこと音を立てている。
「今は、まあ、うん。涼太は、一般的に見て、かっこいいと思うよ」
 ええー、という声は限りなく不満げだ。わたしはちょっと皮肉っぽく言った。
「だって、あのときは、まさかあの黄瀬くんがそんな趣味をお持ちとは知らなかったから」
 スン、と彼が鼻をならす。
「いいじゃないスかあ、別に。迷惑かけてるわけじゃないんだしぃ……」
「別に、だめなんて言ってないよ。……ほら、動きます」
 はあい、と甘ったれた返事をして、フライパンの方に移動するわたしに彼はずるずるくっついてきた。子どもみたいな顔してる。もう見なくたってわかる。
 初めて彼と出会ったときから、十年以上が経った。わたしたちは将来を誓い、こうして今は同じ屋根の下に住んでいる。

 どうしていつもここにいるの、と声をかけたのは、助けてもらった日からふたつきあまり経った頃だった。
 夏休みの図書館開放の日で、彼は部活途中なのかTシャツとジャージという出で立ちでふらりと現れて、いつもの位置に向かった。そしてやっぱり何をするでもなく、その場にぼんやりと立っていた。
 わたしが話しかけると、彼は一瞬面食らって、「気づいてたんスか」と言った。図書館には他の利用者はいなくて、わたしたちはふたりきりだった。それもあって、わたしは彼に声をかけたのだ。手には、読みかけの文庫本を持っていた。ざらざらした感触を確かめるように、指先で背表紙をなぞっていたこと、よく覚えている。
「……いいにおいが、するんス」
「……におい?」
 意味がよくわからなくて、思わず聞き返す。そう、と彼は頷いて、鼻をスンとならした。
「においっス。いいにおい。特に、ここの棚の本は、古いのも、新しいのもあって、なんだか不思議で、でも落ち着くにおいがするんス。……なんでだろう、きみからも、似たようなにおい」
 そう言って、彼は目を細めた。とても優しい顔をしていた。

 あとから聞いたところによると、その頃の彼は夏のインターハイで負けて、落ちこんでいた時期だったらしい。部活の休み時間に、図書館に電気がついているのを見て、やってきたのだという。その、彼が好きな図書館のいいにおい、をかぎに。
 終わったことに「もしも」はないけれど。ときどき考えることがある。もし、わたしがあのとき彼に話しかけなければ、もっと言うと、もし、わたしが熱心な図書委員じゃなければ、向かい合って朝食を食べている「今」はきっと無いんだろう。
 不思議な縁もあるものだと思う。何かひとつでも違えば、わたしたちは、出会わなかった。
 コーヒーとフレンチトーストという簡単な食事。メープルシロップをたっぷりかけて、手がべとべとになるのも特に気にせず、手でパンを千切りながら食べる。そうする方が、おいしいような気がするから。
「そうだ」
 いいながら、わたしは、舌で指先をなめた。
「なに」
 答える彼も、同じポーズだったので、ちょっと笑ってしまった。わたしは続ける。「今日、布団ほそう。天気いいし」
「ああ、うん。いいっスね」
 おひさまのにおい、好きなんスよね。彼は言って、指先をティッシュで拭いてから、マグに手を伸ばした。
「あ、でも。やっぱり一番は、名前っス。仕事帰りは、特に。ああ、うん、でも寝てるときとか、起き抜けとかも、捨てがたいっスねえ」
 コーヒーをのみながら、心底うれしそうに語る彼に、「変な趣味」とだけ答えておく。その彼のにおいに対する「変な趣味」がなければ、わたしの図書館の本のビニールに対する「変な趣味」がなければ、わたしたちはきっと出会わなかった。知り合うことも、恋人になることも、その後一緒に住むようになることも無かった。
 きれいに拭いた手で、机の上の、ビニールのかかった本の背表紙をなでる。勤務先で終わらなかった分を、昨日の夜、家で片付けたもの。コーヒーを飲みながら、わたしは心のなかで言う。
 実はね、あなたと出会ってから、本のビニールが指先に触れることよりも、好きな感触を見つけたの。それはね……。

「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -