禁断 | ナノ

「………どうした。なんか、あったか」

いつだったかお母さんと出かけて買った、着すぎてくたびれたお気に入りのベージュのパーカーは、今は部屋着として毎日、袖を通す存在になった。お母さんがいなくなって、それでいてまだこのパーカーが新しかった頃、休日に出かけるときにこれを着たら、清志さんは決まって、お前はその色がよく似合うなとわたしに言った。ありがとうと笑ったその内側で、ベージュの服が好きだったお母さんと自分を重ねているんだということは、脳髄の更に奥、本能に近いところで理解していたような気がする。わたしは今、その清志さんの逞しい腕に抱きついたまま、動かない。

「………名前、」
「ふられちゃった」

今日は、清志さんが珍しく帰ってくるのが早かった。平日はいつもわたしが、部活帰りに買い物を済ませて、二人分の晩ごはんを作って一人で食べて、お風呂から上がった頃、「ただいま」なんて声が響く。その時点で11時頃だから、こうしてわたしが清志さんのお風呂上がりに、一緒にソファーに座ってテレビを見るなんてことはありえない。だから、だろうか。すぐとなりにある横顔にくるしくなって、手を伸ばしてしまったのだ。

二人分の呼吸が大気を揺らす。もしかしたらわたしの気持ちは気付かれているのかもしれないと、思ったことは何度もある。誰にふられたのか、もしも聞かれたらどうしようとか、思ったけれど、ありえないなと自答した。きっと清志さんは分かってる、分かってるから何も言わないんだろう。ああ、喉が渇く。心臓がうるさい。これはどれも、わたしひとりの感覚でしかない。血の繋がりのないわたしを、本当の娘として、大切にしてくれる。しがみつく力を少し弱める。今触れているぬくもりの持ち主は、もういないお母さんの、恋人で、夫で、わたしの父親。そう思うだけで良いのに、馬鹿なわたしはこのひとを、ただの男のひとにしてしまいたいと思っている。テレビに映るバラエティ番組のコメンテーターの、軽快な声が羨ましいと、ふと思った。わたしは本当に馬鹿だ。そして、心理と行動が矛盾する、ただの子供だ。じっとりと根付くこのわだかまりを嘲笑うみたいに、出演者やギャラリーの楽しげな声が耳に届いた。

「………見る目のねー男なんざほっとけ」

ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でられる。青春時代の大半をバスケに捧げたらしい清志さんの指は、細くきれいに見えるけれどとても皮が厚く、ごつごつとした男のひとのそれだった。そういえば何気なく、清志さんとお母さんの馴れ初めを聞いたことがあった。確か、バスケ部の選手とマネージャー。いいなあ、わたしも清志さんがバスケをするところを見てみたかったなあ。「もっといい男探せよ」なんて声が降ってくるのを、今、この耳がたやすく受け止めた。抱きついたときからずっとやまなかった、ソファーに沈む自分の膝のわずかな震えは、いつの間にか無くなっていた。ああ、大丈夫みたいだ。

「お父さん、みたいな?」

ぴたり、頭を撫でていた手が止まる。わたしは俯いているけれど、視線を確かに感じる。さっきまでとは違う沈黙に、すこし呼吸がつまる。何か言ってくれたっていいのに。そう心の中で愚痴を溢すけれど、そもそもわたしが悪いのだから言葉にはしない。今までずっと、お父さんと呼べずにいた。清志さんという呼び名で、距離を取っていたのは紛れもなくわたしだ。今さら、なんて思われているかもしれない。本当のお父さんが死んでしまって暫くは本当に悲しくて寂しかった。そしてこのひとがこの家に来てすぐ、ずっと心の中では、優しいひとが再びお父さんになってくれて良かったと、そう思った。思った、筈だったのに、なあ。どこで間違えてしまっていたのだろう。

未だにわたしの頭に手を置いたままの清志さんは、此処に血のつながりがないことを、わたし以上に気にしているかもしれないのに。それでも、いつもわたしを気遣ってくれていたのに。

「オレくらいの男はなかなかいねーよ」 「…………ナルシスト」
「はっはー、ちょっとしおらしく甘えてきたかと思えば憎まれ口か。轢くぞ」

初めて“お父さん”と会話しているような錯覚を覚えて、馬鹿だった自分にちょっとだけ呆れた。少し笑いあって、心が温かくなる。するりと腕を引き抜いて、わたしもお風呂に入ってくるねと、目を合わせずに告げた。気恥ずかしかったのは、お互い様だったらしい。おう、という短い返事が降ってきた。

「…そういや、明日、暇か?」
「え?暇、だけど…」
「買い物、行くか」

くしゃりと一瞬だけ頭を撫でられて思わず顔を上げたけれど、視線は交わらなかった。それでも、そっぽを向いているその顔はどことなく嬉しそうで、わたしは自分の頬が緩むのを感じた。

「………駅前のケーキ屋さんのパフェが食べたい」
「太んぞ」
「女心が分かってないなあ」
「へーへー、悪かったよ」

“お父さん”と晩ごはんの食材をスーパーへ買いに行くだけの道のりを勝手にデートだなんて舞い上がったり、その度に嫌な音をたてる心臓を誤魔化したり、お母さんに申し訳なくなったりと忙しかったいつかの自分へ、見せてあげたい。たまに泣きたくなるくらい大好きだったひとは、すごく大切なひとになった。この大切なひとと出かけるのはもう“デート”じゃないけれど、最高に幸せだよ、と。

「欲しい服もあるんだー」
「…しゃーねーな」

ベージュの、カーディガンなんかが欲しいな。もしも似合ってるって言ってくれたら、お父さんの娘なんだから当然でしょって言おうかな。お父さんの髪と同じ色だからねって、言ってやろう。心の中で、清志さん、と最後に呼んでから、ほんのちょっとだけ、泣いた。





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