身を苛む不安 1





母を思い出す時、真っ先に脳裏に浮かぶのは、長い銀の髪だった。
実のところ、顔はよく覚えていない。
美しい人だった、という記憶はあるが、おのれに向けられていたのは、常に横顔か背中ばかりだったから。

ときたま、窓のそばや寝台の上に、死んだ母の幻を見る気がする。
けれども、亡霊となってさえ、彼女のまなざしがこちらへ向くことはなかった。
まるでとり殺す価値さえないのだとでも言うように。

実の母にすら、恨みつらみさえ向けられない。

だれひとり、こちらを見ない。


もしかすると、亡霊はおのれのほうなのではないか――


長い銀の髪が目の前をよぎった。

思わず伸ばした手を、しなやかな銀糸がすり抜ける。

あの髪と、この手と。

どちらが幻なのか分からない。

生きているのか、死んでいるのか、

分からないのは、自分も同じ。


――あなたと同じだ、母上。


目に映るおのれの指先が、ゆらりとぼやけて霞む。

溶ける。
溶けて、流れる。
ゆらゆら揺れて、心地がいい。

どうせ幻ならば、このまま溶けて消えてしまえばいい。
その想いは、ひどく甘く、虚ろな心を満たした。





ふ、と目を開いたマクシミリアンは、頭の奥に鈍い痛みを覚えて再び目を閉じた。

神経に染み込むような独特の香り。
これは、阿片の――

額に手を当て、重い頭を振る。
ゆっくりと瞼を持ち上げておのれの手を見上げる。それは、むろん溶けてなどはいない。

ふわふわと定まらない夢を見た。
母の幻。
溶けていく身体。
これまで少しも満たされたことのない胸の内が、甘い毒に濡れて潤される心地。

けれど、ひとたび夢から醒めてしまえば、変わらず口を開けた亀裂は深い闇を覗かせていた。

「……幻で、飢えが満たされるはずもない、か」

アランから受け取った紙包みには、まだ半分ほど阿片の欠片が残っている。枕元に放り出されてあったそれを、マクシミリアンはくしゃりと握りつぶすと、窓の外に投げ捨てた。





「マクシム、今夜、一緒に出かけないかい」

遠慮がちなクレイの言葉に、マクシミリアンは顔を上げた。
アランと出会った夜会の翌日から、彼は毎日のように屋敷を訪ねてくるようになった。こちらの無事な顔を確かめるなり、慌てて帰って行くこともしばしばだった彼が、今日はのんびりと茶の香りを楽しみながら、

「今夜の夜会はね、とある老婦人が、親しい友だちを誘って開く……言ってみれば食事会みたいなものだから。俺も昔じいさまのお供でよく連れていかれてね。たぶん孫みたいに思われてるんだろうけど、今でもときどき誘ってくれるんだ。優しくて感じのいいご婦人だから、この間みたいに変に遠巻きにされるようなことはないよ。今度はおまえも少しは楽しめるんじゃないかと思うけど、」

「クレイ」

一緒に行かないか、と誘う友人の長広舌を遮って、不機嫌な一瞥をくれるマクシミリアンだ。

「気の優しい老婦人の孫の代わりなぞが、このわたしに務まると思っているか」

おまえならばいざ知らず、わたしでは老い先短い婦人の心臓にとどめを刺すのが落ちだ、と。
冗談とも思えない口調のマクシミリアンの台詞に、クレイがしばし押し黙る。

「まあ……確かに、あそこにおまえを連れて行くのはちょっぴり気が引けるけれどね」

せっかくの穏やかな雰囲気を片端からぶち壊しにしそうだ、とぼやく、遠慮のない友の台詞にマクシミリアンは苦笑した。

「――だけど、最近はゆっくり話をする時間もなかっただろう? 新しくできた友だちと遊ぶのもいいけど、たまには俺に付き合ってくれてもいいんじゃないかい?」

「アラン・バートンのことか?」

安心しろ、あれは友人なぞではない、と嗤うのを、クレイが少しばかり情けない顔になって見上げる。

「親しい知人を訪ねるのに、ひとりでは不安だと駄々をこねる歳でもないだろう。気のいい婦人との食事会とやらは、おまえひとりで行けばいい」

つれない台詞を残して部屋を出ていくマクシミリアンに、クレイはため息をこぼしながらつぶやいた。

「……いいや、俺も行くのはやめておくよ」

ポケットに手を入れると、かさりと音を立てる紙包み。
さきほど窓の下で拾ったその包みの中の小さな欠片は、そういったものに縁のない自分にも、よからぬ代物だろうと知れた。

友人がときおり纏うようになった酒や煙草の香り。

気付かないはずがない。

「マクシム、頼むから……馬鹿をするのは、やめておけよ」

面と向かって言えなかった言葉が虚しく宙に溶ける。
このところずっと胸に居座り続ける不安も、手の中の紙包みのように握りつぶしてしまえればいいのだが。




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