5.香りを纏う
「はい、これ。今日夕方から冷えるっぽいから。」
「?、、あ。ありがとう。」
昼休み。今日の昼ごはんであったオムライスをペロリと食べた迅くんは一旦自室に戻ったかと思うとすぐにリビングへと戻ってきた。
その手に持っていたのは黒色のパーカーで胸に玉狛支部のエンブレムがついたものだ。
「いつもごめんね。こんなに借りちゃって、迅くん着るものちゃんとある?」
「なーに言ってんの。あるに決まってるでしょ。ちゃんと着てね、風邪なんてひかないように。」
「うん。ありがとう。」
「じゃあ!」と言っていつものように私の頭を一撫でした迅くんは、また元気に出て行った。
たしかに、最近少し寒くなってきた。
着ているロンTの上から先ほどもらったパーカーを羽織る。男物だから、というか、迅くんのものだからもちろんサイズはぶかぶかだ。
また迅くんから服をお借りしてしまった。
今着ているロンTも迅くんのお下がりだ。
玉狛支部に足を踏み入れた次の日、いきなりこちらの世界に来て、着る服がないだろうということで迅くんが何枚か服を貸してくれたのを思い出す。
それらを日々着まわしている。
近界民に襲われたのは、たまたま実家への帰省からの帰り道だった。そのため、肩からかけていたボストンバックもそのまま一緒に食われ、ある程度の生活必需品も一緒だったのが救いだった。
しかし、服は着まわそうと思っていたため、着ていたものに加え一着しか持っていなかった。
迅くんが出て行った扉をぼーっと見つめる。
昼食の片付けも終え、掃除も午前中に全て終えてしまっている。
私は、本当にいつか元の世界に帰ることができるのだろうか。もしそうでないなら、私は、、、
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自室に戻り、取り出したのは財布。何故かはわからないが、こちらの世界と元いた世界のお金は同じだった。
「す、少なっ。」
と、いうものの、あまりにも少ない所持金に肩を落とす。
元々現金はあまり持ち歩かない派だった。
「このカードたちも、ペ◯ペイも、使えないよなあ。」
さよなら。コツコツ貯めた、私の貯金。
「はぁ、、、」
深く、ため息をつく。
このまま元の世界に戻らなかったら。帰れなかったら。私はこの世界で生きて行くしかない。
もしそうなったとしても、私はこのままずっとこの玉狛支部でお世話になるということはできない。
何もない私を拾ってくれた迅くん。居場所をくれた玉狛支部の皆。でもいつかは、きちっと自分の足で立たなくては。
「そのために、お金は絶対いるんだよなあ。」
自室を後にし、とぼとぼとリビングに戻る。
せっかく取った資格もこの世界では使えない。そもそも戸籍も身分証もない私はどうやってお金を稼げばいいのだ。
なんとかこんな私でも稼げる道はないのか。
藁にもすがる思いで手にしたのはタブレット端末。こんなときは検索検索。
"身分証なし バイト"なんて、、、打ち込んでみたものの無いよなあ。
「、、おっ!?」
ダメ元で検索してみたが、なんと。
数件、ヒットしたバイトの募集に目を見開く。
さらに、条件の欄には『女性限定!身分証なしOK!未経験OK!日給手渡し○万円!当日参加歓迎!』という表記。
日給、、◯万、、、?え、良すぎでは??
「なまえさんっ!!」
「っ!?わっ!!迅くん!?」
その時、ドンっ!!という音とともに扉が開かれた。突然のことにびっくりして目を向けると、入ってきたのは焦った様子の迅くん。
「ど、どうしたの?」
昼ごはんを食べた迅くんが出て行ってからは、まだ30分ほどしか経っていない。忘れ物でもしたのだろうかと思い、立ち上がってそう尋ねる。
目が合うと、「はぁーーー」と長いため息をついた迅くんは、ゆっくりと近づいてきた。
「よかった、、。いや、なまえさん。」
「はい?」
今度は少し、怒っているかのような表情になった迅さん。その手で私の左手首をとると、ぎゅっと握られた。
突然のことに、頭に?を浮かべてしまう。
「なまえさんがいかがわしいバイトする未来が見えたんだけど?」
「えっ!?!?」
「すごーーく確率は低いんだねどね。」と続けられる言葉には明らかな怒りが含まれており、握られた手首は少し痛い。
迅くんから発せられた言葉に混乱する頭をフル回転する。
あれ、なんで、いかがわしいバイト、、、?
「はっ、これ!」
「えっ?」
「いかがわしいバイトだったのか、、、」
そりゃ日給◯万円、、、騙された、、、。
手に持っていたタブレット端末を見つめる。
「はっ、ごめん!なんでも!なくて、、!」
「なーに見てたのかな?迅さんにも見せて。」
「あっ、だめだめ、だっ、だめー!!!」
咄嗟に後ろに隠したタブレット端末も、腕を引いて私の体ごと閉じ込めた迅くんによって奪われてしまった。
「はい、捕まえた〜。大人しくしてて。」
「、、っ、」
「ふーーん。これはこれは。身分証なしでこの日給、ねぇ。」
「うぅ。」
片腕で私を閉じ込めたまま、もう片方の腕でタブレット端末に目を通す迅くん。
片腕だけのはずなのに、身体を離そうとしても何故か抜け出せない。
というか、タブレットに気を取られていたが、なかなかにこの体制は、、、近いというか、抱き締められているわけだし、、恥ずかしい。
「ご、ごめんなさい。」
ことん。とタブレット端末が机に置かれる音がしたが、一向に離されない身体に耐えれなくなり、謝罪の言葉をひとつ。
トリオン体?というものだからだろうか、こんなに密着しているのに迅くんの香りがしないなあなんて。
「トリガー、オフ。」
「っ、わっ、!?」
そんなことを考えていた瞬間、一瞬、迅くんの身体が光に包まれた。眩しくて咄嗟に目を瞑る。
瞬間、ふわっと香る、迅くんの香り。
なんとなく、落ち着くのは、いつも迅くんの服を身につけていたからだろうか。
しかし、香りを意識してしまうと、それ以上になんとも恥ずかしい。
「じ、迅くん。そろそろその、離れたいな、なんて、、、」
「嫌?」
「いや、その、、恥ずかしいというか、、」
「うーん。悪いなまえさんには、お仕置きが必要だなあ。」
「うぅ。ごめんなさい。」
そっと腕が解かれ、身体が解放されたと思ったら、ニヤリと悪い笑みを浮かべた迅くんの顔。
「お仕置き、何がいいかなあ。」
少し嬉しそうに、イタズラっ子のように笑う迅くんに、なにか悪いことが起こりそうな、そんな気がする昼下がり。
2021.3.9
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