煌星のゆくえ
部屋の中は、ふわりと紅茶の香りで充満している。それに交じるのは、少しの埃と黴の匂い。そして使い古されたような紙の匂いだ。
この部屋はエルシオン学院の寮にある一室で、一室につき四名が寝泊りすることになっている。それなのにどうしてか、この部屋は埃を被ったベッドがふたつ、そうでないベッドも空っぽで、最後のひとつを使う人間は今わたしの目の前に座っている。
「いい香りだと思うだろう。」
男は自分が持ち込んだ本やら羊皮紙やらに囲まれて、ティーカップに収まった紅茶をぐるりとかき混ぜている。
「色と香りは好きよ。」
味が好きとは言っていないが、わたしは紅茶の深い真紅が好きだった。紅くて底の見えない、美しい色。しかしそんなことを思っても、わたしは紅茶でなくコーヒーのほうが好きだ。底の見えない色は紅茶のそれと同じだし、少し酸味があって目をきっぱりさせてくれるところもいい。それにわたしは、この男の飲み方が好きではなかった。
「なに?」
ようやくじゃりじゃりとした砂音が消えて角砂糖が完全に溶け込んだのを見るや、男はミルク入れをとりそれを注いだ。元々ティーカップの半分に届くだろうかというほどまで注がれていた紅茶だが、それも大量のミルクでなみなみとしたものに変わっている。色も、もはや美しい赤みは消えてブラウンがかった白い液体である。
「そうそう、なんでこんなに人が少ないのかって訊いてたな。アンジェロとエリオットは長期休暇で実家に帰っているし、リックは魔法道具の筆記がとんでもないことになっているとかで補習だ。」
でもわたしあまり好きではないわ。と口を開きかけて、やめた。人の悪口を言うわたしは、わたしの嫌いな人より嫌いだったから。アンジェロたちは嫌いだけれど、嫌いな人について考えるのなら、好きなことを考えたい。時間の無駄だし、何より虚しくなるだけだ。
男は、デトワールは彼らのことがあまり好きではなかったなと苦笑いして鼻を指先で掻いてみる。気づかなかったが、男の涼しげな目元には涙黒子に被せるようにしてくまができている。
「あんた、また徹夜したのね。そのうち風呂場ですっ転んでも知らないから。」
「あれ、前に徹夜続きのせいで逆上せて湯船に沈んでたのは誰だっけかな。」
「……あっそ。」
相変わらず食えない男である。心配して損をするというのはまさにこのことだ。
わたしは何ともいえない気持ちを抱えつつ、自分の目下にある紅茶に手をつけた。砂糖が少しと、前に買った甘い蜜を入れる。普段手元にある蜂蜜は紅茶に入れると紅茶が黒ずんでしまうためあまり一緒にすることは好まれないが、柑橘類の蜜と混ぜられたこれは、色味を変えることなく紅茶を楽しめるのだ。
紅茶のふかい赤をティースプーンで混ぜ合わせ楽しんでいると、ふいに男が口を開いた。
「……デトワールは、ヒトのたましいって本当にあると思うか?」
「はあ?」
普段から屁理屈で突拍子のないようなことばかり言うこの男だが、今日はいつにもましておかしい。最近読んだ本にでも影響されたのかもしれない。
「たましい、魂ねえ。あるんじゃないの? こうしてあんたと話してるわたしにも、きっとあると思うけど」
「でもさ、俺は思うんだ。ヒトのたましいって、所詮器があってこそなんじゃって。名前は器につけられた記号で、性別も、年齢さえも、器に依存しているもの。」
こいつの言っていることはさっぱりだし、なぜこんなことを言われているのかもわからない。
「だからきっと、たましいがどこかで入れ替わってしまっても器の記憶を忘れてさえしまえば、あとはきっと簡単なんだ」
「じゃあ、あんたにとってたましいって器が違ってしまえば変わるものってこと?自我も性格も左右されるっていう意味に聞こえるわ」
「ああ、そう思ってる」
ずばりと断言する男を見て、じゃあこの男も身体が違えばわたしとのこのこんがらがった関係もないものになる、と考えているのかと思った。べつに変わってほしくないなんて思ってもいないけれど、器の記憶だからとひとことで片付けられてしまうのはなんとなく嫌だった。
たとえこの黴臭い部屋で飲んだ紅茶の記憶でも、こんなくだらない話の記憶でも、まるでなかったかのようにするのは嫌だ。器が変わるなんてことは有り得はしないことなのだろうとしても、ひどく簡単なひとことで済ませられるのはどんなに虚しいだろう。
「そうね、だからあんたは周りから冷たい男だって言われるのよ。」
なんだか味気ないものに変わってしまった紅茶に口をつけて、わたしはつまらなさげにつぶやいた。
「ねえ、あんたは魂ってあると思う?」
それからまた、すこし経って。
奇しくもわたしは、また別の男に、かつては自分が問われたはずの質問をしていた。ただ状況は打って変わっており、場所はエルシオン学院の寮の一室ではなくセントシュタインの宿屋で、目下にあるのは紅茶ではなくコーヒー。そして対峙する人物は赤毛のつり目で、涙黒子も、それにかぶさるような隈もない。
「デトワールから話掛けてくるなんてずいぶん珍しいことで。そんで、魂だっけ? あるんじゃねえの。なきゃこんな風に会話なんてできねえし……。」
「別にわたしだって話したきゃ好きに話すわよ。」
わたしはいささかむっとしつつ、コーヒーに口をつけて喉に滑らせた。温かくて美味しいそれは、喉を伝って腹の底にすとんと落ちた気がする。目の前の男――レイとは、宿屋の2人がけ席に対面して座っていた。
「……もし身体が自分のものでなくなっても、自分を自分って証明できる? 」
わたしがそう訊ねると、レイもまた目下に置かれた紅茶に口をつける。あのときとは違い、紅茶はふかい赤を保ったままだ。ティーカップを傾けて液体を飲む一連の作業を済ませると、レイはきょとんとまぬけ顔をした。
「自分のことを自分だと思ったらそうできるだろ? 自分がそう思っていれば、誰かに証明する必要なんてないだろうし。」
その答えは、数年前わたしが出せなかった答えで。
「でも、性別も年齢も、記憶も身体があってこそなのよ。身体が変わって環境も変わって、それでも中身がそのままなんてそんなこと……。」
「性別や性格が変わっちまってもそれは自分自身の変化だろうし、記憶なんてもんは外側が変わっても大切であれば深く残ってるはずさ。」
わたしがあれだけ悩んで出せなかったものを、レイはあっさりと紐解いてしまった。実際解かれてみるとなんでもないような質問の答えは、先程飲んだ温かいコーヒーのように腹の底へとすとんと落ちた。
ああ、こんなに簡単な答えでよかったのね。
勝手に深く考えて難しくしていたのは、あの男ではなくわたしだったようだ。
そしてわたしは残されたコーヒーを一気飲みして、ミナモ達を探しに行くわよ、とレイを急かすのだった。
煌星のゆくえ
あとがき
いろいろと悩んだ末、短編はデトワール目線のお話になりました。この子たちは揃いも揃ってどうしてこんなにこむずかしい話をしたがるのやらという感じです。おかげで一ヶ月くらい書いたりやめたりを繰り返してやっと完成しました。
デトワールとレイの性格をわたし自身よく知るつもりで書き始めて、ついでだからと情景描写諸々にも気合を入れて書いてみましたが背伸びしすぎた書きかたのせいでところどころおかしいかもしれません。
デトワールとレイのイメージは、デトワールが余計にややこしくして悩んでいるものをレイが横から全部さらっと溶かしてしまう感じです。レイは彼女を気に入っているので日常的にもよく話すふたりですが、デトワールのほうはやたら相手の名前を呼びたがらない節があります。
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