仁王と丸井と幸村



 条件反射の実験がある。犬の頬に管を刺し、唾液の分泌量を測定できるようにする。メトロノームが鳴ると、少量の餌を犬に与えるようにする。この手続きを繰り返すと、やがて犬はメトロノームの音を聞くだけで唾液を分泌するようになる。
 パブロフの犬、といえば耳に馴染みもあるだろう。


‥‥‥


 ピンポーン
 ピンポーン
 ピンポーン


 間を空けずに、チャイムを三回。天の岩戸が開く、呪文。ドアの中から走る足音が聞こえて、勢いよくアパートの一室のドアが開けられる。
「幸村くん…っ!」
 出てきたのは丸井で、喜色を顔に浮かべて名前を呼んだ。けれどすぐに、その表情は色を失う。丸井には残念だが、俺は幸村ではない。

「騙して、悪いの」
「この、クソ詐欺師ッ」
 心底忌々しいという表情で、丸井が言う。眉間の皺が凶悪だ。
 生白い肌が生気を欠いて、この世の生き物じゃないみたいに見える。ただ、中学の頃から変わらない髪の色だけが鮮やかで、不気味な艶を丸井に添える。


‥‥‥


 幸村が結婚した。
 大学二年生の六月。幸村は早生まれだから、まだ十八だ。妻となった女の腹の中には子がいるということだから、デキ婚というやつだ。幸村は失敗するような男じゃないから、計画的にやったんだろう。それほどその女が欲しかったのか。式には呼ばれたが、その女について記憶が残っていない。その程度の女だった。
 幸村と丸井の関係を見てきた自分には、幸村がなぜその女を選んだのか、真意が分からなかった。


 ピンポーン
 ピンポーン
 ピンポーン


 チャイム三回は、幸村の呪文。丸井は喜んで出迎える。幸村の脱がす手間を省くように、薄いカッターシャツだけ羽織って。たとえ、玄関で押し倒されたとしても丸井は抵抗しない。ただ、幸村の言うまま、脚を開き幸村を迎え入れる。
 丸井はそう躾られていた。

 二人の付き合いは、普通ではなかった。激しい恋のようで、恋ではない。愛はあるが、偏りがあった。愛に耽溺しているのは丸井で、幸村は冷静だった。二人には主従関係が見て取れた。
 だが、その付き合いは中学から始まって、少なくとも幸村の結婚までは続いていた。それまで、もちろん丸井は幸村から離れる気など毛頭なく、幸村も丸井を手放す気はないようだった。幸村が女といつ出逢ったのか知らないが、俺の知る高校時代には二人の間に入るものはなかったと思う。それとも、幸村は狡猾な男だから、上手く隠していたのかもしれないが。

 そうだ。幸村は二人の付き合いでさえ、上手く隠していた。俺は、あの日偶然に見てしまった。面倒だからと厭わず、授業に出ておけばよかったと、今後悔したところで遅すぎる。


‥‥‥


『ンッ…あぁっ…んぁア』

 中二の夏、授業をサボり、部室で休もうと思って俺は向かっていた。部室の傍までくれば、そんな艶めかしい声がする。誰だ、公共の場でセックスなんぞする痴れ者は。顔を拝んでやろうと窓から覗き込んだ。もちろんそこにいるのは、男と女だと思っていた。丸井の声変わりがまだ不完全だった、というのは理由にならないかもしれないが。とりあえず、俺の思考は正常だった。ヘテロセクシュアルの世界。

 窓の端から、少し覗く。そこにいたのは、まず幸村だった。おかしなのは、幸村が着衣をまったく乱していないと言うこと。半袖のカッターシャツに、きっちり締めたネクタイと、涼しげなベビーブルーの学校指定ベスト。学生ズボンは前を寛げてはいたが、僅かしか下げられてはいない。腰は確かに前後に揺れている。けれど、セックスしている筈なのに、ちっともそんな風には見えなかった。

 そんな幸村の下で喘いでいるのは、その赤い髪ですぐに丸井だと分かった。ホモセックスなんて、まさか出会うとは思わなかった。気色悪い。嫌悪感を覚える。なのに、その光景が異様すぎて目が離せなかった。

 きっちり着衣している幸村に対して、丸井は全裸だった。丸井の脱いだ制服はあちらこちらに散らかっている。丸井は後背位で貫かれ、幸村の片手は丸井の首元を押さえつけ、もう片方は腰に添えられている。二人の温度差のある状況に、強姦なのかと思った。だとしたら、止めるべきだとは思うのだが、足が動かない。その時、幸村と目があった。
 幸村は驚いたように目を見張った。それから、丸井の耳元に顔を下げて何かを言ったようだ。

『やぁ、ヤダッ…ンッぁん…やめ、なぃでぇッ!』

 丸井が叫ぶように言う。幸村は顔を上げて俺を見ると、ニヤリと笑った。それから、丸井の腰を抱え上げて床に座り、背面座位の体勢に変わる。

『アァアアアァァーッ!』

 深く入ったらしい丸井が絶叫する。幸村がこちらに向かって丸井の脚を開くので、モノや結合している様が見えて、本当に気持ち悪かった。
 ようやく足の緊張がとれて、俺はそこから逃げ出した。


‥‥‥


 目の前に幸村の掘った穴があった。別に幸村は誰かを落とそうと思った訳ではない。穴を掘っただけだ。ただ、その穴に、足元を見ずに歩いていた俺は落ちた。穴は深くて、自力では上れない。幸村にとって予想外であったが、都合はよかったのだろう。その姿を幸村は満足そうに見下ろしている。傍らに犬を侍らせて。


‥‥‥


『覗き見とは、随分趣味が悪いね』

 常套句を吐いて、幸村はベンチに腰掛けた俺の隣に座った。しまった、と思うがもう遅い。

『ハッ、どっちが。なんじゃ、アレ。お前、ホモだったん?』
 目の前のコートでは練習試合が行われ、衆人の目がある。即座に席を立てば、俺が幸村を避けていると分かってしまうだろう。詐欺師と呼ばれる身としては、弱みを握られたくはない。俺は観念して、応戦する。

『いや、俺はバイセクシュアルだよ。とりわけ男が好きなわけでも、女しか愛せないわけでもない』

 口の端にいやらしい笑みを浮かべて、幸村は言う。もともと小器用なやつだが、性癖まで小器用だ。
『丸井は』
『さぁ、ブン太はどうかな。聞いたことないや』
 軽く首を傾げて幸村は言う。興味なさげだ。二人の関係が読めない。

『ブン太かわいかっただろ』
『…吐き気がするわ』
 思い出させるな。女みたいに喘ぐ丸井の顔。それより、行為の異常さ。
『そう?分かってもらえないか、残念だね』
 かわいいのに、と言って向こうのコートで試合をする丸井を幸村は指す。俺は見なかった。幸村が薄く笑う声がする。

『お前には迷惑かも知れないけどね、俺はお前を利用するよ』
 告げられた宣告に、俺は幸村の顔を怪訝に見る。幸村は不敵に笑んでいた。


‥‥‥


 俺に与えられたのは、オーディエンスの立場。たった一人でその奇妙な劇を見る。幸村は俺に、自分と丸井のことを逐一教えてきた。
 秘密の親密。それに割り込む俺を丸井はいつも威嚇してきた。俺だって、知りたくもなかった。

 丸井はまるで、幸村の躾られた犬だ。


 幸村が座って、脚を開けば、その間に丸井はすぐに入って、幸村自身に舌で愛撫を始める。そして自分で自分の尻さえ解し、いつでも幸村を迎え入れられるように準備するのだと。


 そんな話を幸村は満足げに、俺に話してくる。俺以外に二人の関係を知るものはいなかった。丸井は時々襤褸(ぼろ)を出しそうになっていたが、幸村が巧みに覆い隠した。俺だけが知っている。俺にだけその秘密の共用を許した。それは、幸村の意図の内だった。今、こうしてこの場に立っていることが、それを証明している。


‥‥‥


 大学に入るまでずっとそんな二人の関係を見てきた。俺は外部の大学へ入った。はまっていた穴は深いと思っていたが、出てみれば呆気なかった。
 二人は殆ど同棲しているのだと、ジャッカルから聞いた。もちろん同棲とは言わない。大学の傍にアパートを借りた丸井、その利便性を駆使して幸村がそこに転がりこんでいるのだと言っていた。
 犬小屋かと、俺は思った。丸井はきっと、忠犬のように毎日幸村の帰りを待っているのだろう。


‥‥‥


『チャイムを三回。それが扉を開ける呪文だよ』

 結婚式の日だ。そう幸村に言われたのは。それから俺がここに来たのは一ヶ月後。
 何のことを言っているのかはすぐに分かった。けれど、なぜ俺に言うのか分からない。俺がいなくても二人の関係は続くと思った。実際にそうだった。
 けれど、俺がいなければ二人の関係は終わらなかった。

 丸井が大学に来ないのだと、ジャッカルに言われたのが幸村の結婚式から一週間後。訪ねていっても扉を開けてくれないのだと言われたのが、その二日後。幸村に、俺ならなんとか出来ると言われたジャッカルが、俺に泣きついてくるのがそのまた一週間後。ようやく決心を決めたのが、五日後の今日。

 一ヶ月間引きこもっていた体は骨のようで、唯一羽織ったシャツが死に装束みたいだ。

 幸村はきっぱりと、丸井を切った。結婚なんて肩書きで幸村が丸井を捨てるとは思わなかった。つまり、俺は幸村の考えを少しも読めていなかったと言うわけだ。俺は幸村にとって、単なる駒に過ぎなかった。

「帰れよ」
 丸井が強い語気で言う。俺は動かなかった。丸井はしばらく俺を睨みつけていたが、飽きたのか部屋の中へ引き返してしまう。


‥‥‥


 幸村に躾られたのは丸井だけではなかったと、舞台を用意されて見れば改めて分かる。だから、ここに来たくなかった。
 抗いようのない未来なんだろう。終わりのために用意された俺には。


 幸村は何度も俺に丸井との行為を見せつけてきた。嫌悪感は次第に薄れ、まるで丸井はそういう生物なんだと思わされる。雄を受け入れるのが当たり前の生物。男に犯されるための生物。
 見てきたのは、いつも丸井の後ろ姿だった。


‥‥‥


 土足で室内に上がり、丸井の背中を押して床の上に倒す。穴は既に解されていた。幸村のために準備していたのだろう。

 これから俺は、丸井を犯す。


‥‥‥


 条件反射が形成された後、餌を与えずにメトロノームの音のみを提示すると、条件反射は次第に消失していく。これを「消去」という。条件反射をある程度消去したのち、動物をしばらく休ませ、再び消去を行うと以前よりも強い条件反射を示す。この現象を「自発的回復」という。


 丸井の中に強く根付いた幸村は、消えないのかもしれない。
 けれど、そんなのはどうだっていい。もはや幸村は丸井を手放したのだ。

 ゆっくり時間をかけて、犬を躾ればいいだけの話。




Pavlov
20090604 町田




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