真田と丸井と切原 こぼれた愛をすすって生きる 世の中からこぼれた愛は苦い。だから、俺たちは少しずつしかすすれないんだ。 音が劣化したラブソングが黒いケータイから流れる。すんません、と謝って、でもきっと本当はそんなこと思ってないんだろうけど、赤也はオフフックボタンを押した。静かな空気に赤也の話し声と、電話越しの女の声だけ聞こえる。女が設定したっていう着うたは、当たり前だけど女と男の恋愛を紡ぐ。女が赤也を愛するのは、そんな風にいとも簡単なんだ。惨めだなんて思うのは、ただの被害者ごっこだけど。 「先輩、こいつ今から来るって言ってるんで」 先に赤也と付き合ったのは女じゃなくて、俺だった。だけど、いつの間にか本命と呼ばれる位置に女がいて。赤也は、それを浮気だとも本命だとも言わない。そして、俺にも本命だと言ってくれたことはない。 「そっか。じゃ、俺帰るわ」 確かめる勇気が、俺にはない。それに、どちらにしろ俺は救われないのだろう。一番には愛されないし、誰も俺と赤也のことなんて知らない。 世界からこぼれた愛は苦いし、それに最初からほんのちょっぴりしかないんだ。だから、少しずつしかすすれないし、全部飲んでみても満たされない。それでも、そうやって生きてるから、かっこつけてみてもこんな風に胸が痛いんだろう。 赤也の部屋ではキスすらしない。俺たちは一体何なの。 (こぼれた愛をすすって生きる) 幼い頃から師事している書道家の邸宅は、駅二つほど隣にある。その帰り、最寄り駅から歩いていると、途中の公園でうずくまっている者が見えた。具合いが悪いのかも知れないと、駆け寄ってみる。それが誰であるかが分かると、驚いた。朱と深紅の境を渡る、赤い髪。うずくまって、膝に顔を埋め、どうしているのかと思えば、すすり泣く声が聞こえる。 男児が泣くとは、何事だ。滅多に泣くものじゃ無し、大層な理由があるのかもしれない。 丸井の前に跪くだけならたやすい。しかし、そうしてからどんな言葉をかければいいと言うのだろう。 (跪くだけならたやすい) 先輩のこと、恋愛感情から好きだと思ったことは一度もない。ならなんで付き合ったんだって言われたら、単純に下心。だって、あの人は男のくせに、愛され方を知っていた。 都合のいいときだけ構って、後ろ指さされたくないから女も作った。こんなひどい俺を、あの人はどれくらい理解っているだろう。 愛があると思っているだろうか。 愛しても恋してもない。好きだと思うけど、それも一般レベルを超えない。恋人のフリして、先輩のことを貪る。 こんな我がままは、どこまで許される? (我がままの人道的許容範囲) 沈黙が降る。 結局俺は、跪くことも出来ずに丸井を見下ろしていた。もう五分も経っただろう。丸井は少しも動かず、ただ静かに泣くだけだ。 いよいよ痺れを切らして、静寂を裂くように小さく鋭い声を落とした。 「丸井」 (サイレント) 俺は贔屓の激しい人間だ。人付き合いにはボーダーを引きたい。嫌いな奴には塩のスプーン一杯だってあげたくない。好きな人にはバケツ一杯の砂糖をあげたい。 だからあの日、赤也に一番好きだったイチゴ味のキャンディをあげたんだ。 赤也の手に、初めて触れた日を思い返せば、涙はとめどない。ポケットに入ってたキャンディは、大好きだったのに、不幸の味がする。悲しいなぁ、やるせない。 そうやって泣いてたら、空から声が降ってきた。 「丸井」 低くて響く、声。聞いたことがあるなと、顔を上げればそこには真田がいた。俺の顔を見るなり、顔をしかめた。そんなに酷い顔をしていただろうかと、苦笑する。 いつの間にか、口の中不幸の味は消えていた。 (君にはイチゴ味の不幸を) とにかく丸井を立たせて、ベンチに座らせた。もう日が傾いてきている。丸井は随分泣いていたようで、目は赤く、頬に涙の筋がのこっている。 話の導入をいかにすればよいか分からず、押し黙ってしまう。丸井は俯いてまだ涙をこぼしているようだ。 「飲み物を、買ってくる」 きっと喉が乾いているだろうと仮定して、ベンチを立つ。すぐ傍の自販機で、自分の分の茶を買い、丸井には迷った末、慣れない物を買った。 「丸井、飲め」 差し出せば、泣き顔が淡く笑顔になった。甘い物が好きだろうと買った、メロンソーダが俺に似合わんことは分かっている。 (君にはメロン味の幸福を) 「はは、真田似合わないな」 差し出された缶を受け取ると、手がひやりとした。まだこの季節は寒いのに、冷たい飲み物を買ってくる辺り、愚直で少し抜けていて愛嬌があると思う。下手にコーヒーを買ってこられるよりはいいけれど。 「…分かっている」 照れたらしく、耳が赤くなり苦い顔をしている。 すかすかと、風が抜けてしまうくらい空っぽだった心が、少し満たされた。 そしてまた、泣きたくなる。 真田は聞いてくれるだろうか、俺の滑稽な話を。 (すかすか) 赤也。 名前を呼ぶだけじゃもどかしい。どうにかして俺の細胞の一部にしてやりたいって思う。だから、赤也の一部を食んで、受け入れる。俺は、赤也を、細胞単位であいしてた。 赤也は、気持ちよさそうにするけど、嬉しそうにはしない。知っていて、見ないふり。 本当は、赤也の部屋で過ごしている俺らが自然なんだ。 最初からないと思っていたこの関係。告白だって、砕ける覚悟で素っ気ないもんだった。でも赤也が、受け入れてくれたから。俺はどんなだって、手放したくないと思ってた。 限界が、こんなに早く来るなんて。 (細胞単位であいしてた) 丸井は、今までのことを話し終えると最後に言った。 「…ホモで、その上付き合ってる男に浮気されて泣いてるなんて、引くよな」 自嘲。笑い声は自然と掠れていた。 丸井がこちらを見る。その目は慰めてほしいとは言っていなかった。蔑んでほしい、罵ってほしいと言っていた。 気休めより、更なる絶望を望んでいた。深淵の不幸を知れば、今の丸井は救われるかしれない。しかし、それは正しいことではないと思う。 俺は何も言わなかった。俺はやはり言葉を知らないのだった。そんな俺に焦れてか、丸井は新たに言葉を紡いだ。 「時々、本当に、なんで好きになんのが、男なのかなって思うんだ。女を好きになるのが普通なんだって、…好きになったことはないけど、感覚で分かってる」 丸井の声は落ち着いている。何度もそのことを考えたんだろう。その結論は決まっているようだった。 「でも、結局最後にはしょうがないって思うんだ。好きになるんだから、しょうがないって。理由なんて分かんないし、考えてたらそのうち発狂する」 悩みを払うように頭を振って、丸井は呟いた。 「恋とか愛とかって分かんねぇ。こんなに苦しいのに、耐えるのは何でなんだろ」 「…俺は恥ずかしい話、恋だのというものをしたためしがない」 そう言えば、丸井はきょとんとした表情になった。しかし、真実なのだから仕方ないだろう。 「だから、講釈を垂れる程の立場でないが、俺が思うにそれは恋愛とは違うんじゃないだろうか」 言葉が上手く繋げず、歯がゆく思う。 「…きっと既に、お前は何度も考えただろう。結論は出ているんじゃないのか」 丸井はきっと、気付いているのだろう。俺がそう言っても、驚いた顔などしなかった。 「…やっぱり、終わりだよな…こんなの、全然幸せじゃねぇもん」 そう言うと、丸井は立ち上がった。 「真田、ありがとな」 笑顔が、最期のはじまりを告げた。 (最期のはじまり) あの日の告白は、言い訳のようにだらだらと言葉を紡いだものだけど、今日の告白はたった一言だけだった。 「別れよう」 甘い雰囲気の、仄かに香りもしない赤也の部屋で、珍しく真剣に向かい合っている。テニスコートの上以外じゃ、俺たちは弱虫で真正面から目を見ることすらしなかった。きっと離れるのは、怖くない。手放すのが惜しいだけ。 赤也は呆然としていた。けれど、すぐに顔色を赤に変えて、俺の頬をひっぱたいた。直情型なのはお互い様で、すぐに俺も赤也の頬を打ち返す。女じゃないから、暴力が卑怯だなんて言わない。しんみりとしたら、きっと俺は赤也を手放せない。 赤也は打たれた頬を手で押さえて、目から大粒の涙をこぼした。滴が連なり、流れになると、声を上げて泣いた。腕で顔を覆うようにして慟哭する赤也の体を抱き寄せて、背中をさすってやる。赤也はただの子供で、子供が抱えるに過重の問題を、どう収拾をつければいいか分からなかったんだろう。赤也も、苦しかった。こんな風に、指先に触れる細胞のひとつから愛してた。 目の奥が、じんと痺れる。 さようならは、むつかしい。それは、君から教わった。 (さようならのむつかしさなら君から教わった) ほっぺたと、手と、そして胸が痛かった。先輩は、苦しんだ筈だけど、俺だって苦しかった。 俺は結局先輩を愛せなかった。俺には荷が重すぎた。だってどうすりゃよかったの。どうすりゃ、よかったの。 だって、俺はあの非生産的行為でしか、救えないと思った。すこしいたいだけで、それさえ我慢すれば、救えると思った。だって、大切な先輩だったんだ。愛じゃなくても、恋じゃなくても大事なんだ。 すっきりした。 もう、どうしようもなくて。 やっと終わったって。 だけど、さようならは、いつだって悲しい。 (すこしいたいだけの非生産的行為) 真田は、俺たち二人の赤く腫れた頬を見て目を丸くした。 昼食を共にしたことはかつてなかったけれど、居心地は不思議と悪くない。少し強い日差しを避けるように木陰のベンチで真田と並ぶ。 「別れた」 「そうか」 労るような視線に、笑んで答える。辛いだけの別れじゃなかった。有終の美と言おうか。 「赤也さ、泣いたんだ。最後の最後でやっと、本心見せてくれた」 俺たちはやっと、素直になれた。だけどそれは遅すぎて、このままじゃいずれにせよダメだったんだろう。 寂しいけれど、未練はないんだ。いい別れだった。 「頬は、痛いか」 「まだ、少し…」 真田の手が遠慮がちに触れる。もう泣き尽くしたって思ってたのに、人間の七割は本当に水分で出来てるんだ。 赤也、痛みをちゃんとかんじてね。 この痛みが俺たちを許すんだ。 (痛みをちゃんとかんじてね) 丸井への認識は浅く、同じ部活の仲間くらいにしか思っていなかった。特に濃い繋がりもなければ、他に対してもそのようなものだ。殊に丸井に関しては、俺のような古いタイプの人間とは相容れぬ、まさに現代人の代表のような男だから、こんな風に二人きりで対すれば、ただ気まずいものと思っていた。しかし丸井の実態を見れば、たとえ言葉が軽くとも浅慮ではないし、見た目に寄らず聡明であると分かった。彼と話すことは興味深く、退屈しなかった。長らく話し込んでも疲れることもなかった。彼と俺では、生きてきた年月に少しの違いしかないが、経験や考えはまるで違った。彼の根は、ひどく純粋だった。 俺は愛を知らない。それは悪いことではいが、けれど足りない。 彼は愛を失った。彼が悪いわけではないが、けれど欠けてしまった。 ふたつの欠陥品。 寄り添えば、何かを生むだろうか。 (ふたつの欠陥品) 愛は地球を巣喰っている。たとえば俺が一回息をする間にも、愛は作られる。 吸って、吐いて、吸って、吐いて。 ハッピーエンドとも、バッドエンドとも分からないで愛は次々に作られる。 たとえばこうして俺が真田の隣にいる間にも、愛は作られる。 吸って、吐いて、吸って、吐いて。 真田の緊張が伝わり、俺も柄にもなく緊張してくる。 「丸井、こんな時にいうのは卑怯かも知れないが…」 ハッピーエンドとも、バッドエンドとも分からないで、でも、そんなことなんて気にしてられない。だって、好きになるんだからしょうがない。 「俺は…」 答えは、決まってる。愛は地球を巣喰っていると、つくづく思う。 (愛は世界を巣喰う) 世の中からこぼれた愛は苦い。だから、俺たちは少しずつしかすすれないんだ。 だけどそれを二人で分け合うならば、愛は溢れるのだと知った。 愛を知らない欠陥品。 愛を失った欠陥品。 寄り添えば、愛が生まれる。 こぼれた愛をすすって生きる。 そんなかんじでいきながらえる。 (そんなかんじでいきながらえる)
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