幸村と丸井
きみとぼくとかみさま


 幸村くんの負け試合というのを、少なくとも俺は見たことがなかった。VTRに収められた試合では、まだあどけない幸村くんが、コートの上で戦っている。相手選手はあまり動いていない。球を左右に振られて、幸村くんは踊らされている。体力の消耗が目に見える。最初は同等の選手だと思ったのに、終わってみたら幸村君を圧倒していた。スコアは4-6だった。苦い記憶が蘇る数字だ。ネット際に寄って握手を交わす二人。幸村くんの方が幾分か低かった。

「強かっただろ」
 俺が座るソファの背に肘を付いて立っている幸村くんが言った。テレビに映し出される場面は、表彰式になっていた。幸村くんは準優勝だ。
「うん、」
「同じ小学校の一つ上の先輩なんだけど、クレーのフェデラーとナダルみたいに、どうしても大会のコートだと勝てなかったんだよね」
「じゃあ、オムニじゃなきゃ勝てるの?」
「うん、まぁ勝率は6割くらいだけど。俺根本的にあの人苦手なんだ…」
「幸村くんでも勝てない人っているんだなぁ」
「はは、それは俺を買いかぶりすぎだよ。しかも同じクラブだったからさ、大会に必ずいるんだ」
「それは…、損だね」
 幸村くんは苦笑しながら頷いた。
 画面の中の幸村くんは、その人に頭をぐしゃぐしゃにかき回されて、苦い顔をしていた。負けじと叩き返す幸村くんは、いつの間にか笑顔になっていて、その人も痛がるフリをしながらも楽しそうだった。

 羨ましいな、とちょっと思った。


 今では俺たちに合わせてリバーサイドテニスクラブを利用しているけど、湘南出身の幸村くんは、小学校の頃は湘南の方のテニスクラブを使っていたらしい。リバーサイドテニスクラブとは全くの逆方向だ。テレビCMもやっているような大きなところで、そのテレビCMで、この度リニューアルして最新設備や、新しいコートを設けたと言っていた。曲がりなりにもテニス少年の俺が興味を示さないはずもなく、幸村くんに話したら今度連れてくよ、と言ってくれた。
 この間見せてもらった大会も、ここで開催されていたみたいだった。もしかしたら、あの人にも会えるかも知れない。きっと今勝負したら、幸村くんは負けない。


 約束の日の前夜は、興奮してなかなか眠れなかった。子どもみたいだ。


 リバーサイドテニスクラブが真新しい施設を売りにしていたのは4年も前のことだ。リニューアルしたばかりのテニスクラブの芝生は、まさしく青く見えた。ウォーミングアップに軽く1ゲーム。今日は調子がいい。幸村くんからサービスエースを取った。何だかコートが足に馴染む気がするのは、あの話を聞いたからだろうか。幸村くんは何だか緊張しているみたいだった。デュースに持ち込んで、一回はアドバンテージを取れたけど結局負けてしまった。だけどここまで追いつけたのは初めてだった。

「ブン太、強くなったね」
「そうかな」
 誉められれば嬉しくなるのは当然で、それが好きな相手ともなれば尚更。赤くなってるだろう頬を掻いた。
「そういえば、綱渡り、全部成功したじゃないか」
「俺もびっくりした」
 今までの綱渡りの成功率は6割5分くらい。調子が良くても2、3回は外していた。奇跡みたいだ。幸村君の前でいい格好ができてよかった。
「うん、すごい。お祝いにジュース奢るよ」
 幸村君が柔和な笑顔で、そんなことを言ってくれる。俺は慌てて頭を振った。
「え、そんな、いいのに!大したことじゃねぇし!」
「遠慮しないでいいよ。俺にもいい格好させて」
 戸惑っていた俺の手首を掴んで、幸村くんは自販機の方向へ進んでいく。半ば引きずれるような形で。手首なんか持たれて、脈拍が伝わったらどうしようって思った。

 前にメールで幸村くんがオススメしていた、スポーツドリンクを買ってもらった。幸村くんも自分で同じのを買った。冷たい液体が喉を通り抜けて、全身に広がるような感覚。額にかいた汗を拭った。ペットボトルを捨てるのが勿体ない気がして、家に持ち帰って花瓶にでもしようかなって思った。


 コートに戻る途中だった。コートに続く、コンクリートで舗装された通路で、幸村くんは声を掛けられた。
「精市!」
 親しげに呼ぶ名前が、知己の仲なんだと分かる。胸がチリ、と焼けた。
「先輩、久しぶりです」
 幸村くんが振り返って答える。少し気まずいと思いながら俺もその人を見れば、何だか見覚えがあると思った。背は幸村くんと同じくらいだけど、声変わりを終えた低い声。
「ああ、久しぶり。噂はかねがね聞いてるよ、全国制覇だって?流石は期待の王子様」
 にっこり笑った顔は記憶と違わず、幸村くんの言っていたあの先輩なんだと分かった。
「いや、俺なんて微力なもんですよ。あ、そうだ。ブン太、こちらが前言っていたナダルの先輩」
 幸村くんがそう言うと、先輩はニヤリとした。
「で、先輩、彼はテニス部のチームメイトの丸井ブン太くんです。なかなか強いですよ」
「はじめまして、いつも精市がお世話になってまーす」
「どうも…」
 気圧されて、声が小さくなってしまう。差し出された手を軽く握ったら、ギュッと握り返された。
「おいおいブン太くん、元気ねーぞぉ!しっかり精市を支えてやってくれよな。コイツ、かなり君の力、見込んでるみたいだからよ」
 あのVTRの幸村くんみたいに、頭をぐしゃぐしゃっとされた。先輩の一言に顔が赤くなったのが分かる。幸村くんが俺の力見込んでくれてるって本当かな。
「先輩、余計なことは言わなくていいから!」

「ははっ、でも、本当によろしく頼んだぜ」
 俺は激しく首を縦に振った。
「っと、そろそろ俺行くわ。ガキ共にボレー教えてやんねぇと。じゃ、またな!」
 そう言って先輩は慌ただしく行ってしまった。走り去っていく姿に、微かに違和感を覚える。ほんの少し、ぎこちなさ。
「足が…」

「気づいた?」
 そう言った幸村くんを見ると、後ろ姿を見つめて切なげに瞳を揺らしていた。
「不慮の事故があってね、先輩は片足が義足なんだ」
 ほとんど滑らかに走る姿は、きっとリハビリに熱心に励んだんだろう。辛いし、痛いし、苦しい。強い精神力や、気持ちがなければ乗り越えられないはず。
「それが、大会の翌日で、それ以来すっかりここのコートはダメになっちゃった。試合が終わってしまったら、って思うとね…。結局、先輩には最後まで勝てなかった」
 短く溜め息を吐いて、苦笑した幸村くんと目が合う。何か求められているようで、俺は視線を外し、もう遠くなった先輩を見た。
「俺も、対戦してみたかったな」
 きっと事故がなければ幸村くんと比肩する実力を持ち得ていただろう。幼い日の影ではあるけれど、確かに天賦の才能を持っていた。
 勿体ない。本人が一番分かっているだろうけれど。それだけに、さぞや辛かっただろう。無念だろう。

 対戦してみたかった。負けてもいいから、一緒にテニスをしてみたかった。

「俺は、信頼できる人格の人間にしか、先輩を紹介しないようにしてるんだ」
 不意に幸村くんが言った。
「さっきみたいな話をすると、みんな俺に同情的になるだろう。俺はただ雪辱を果たせないのが悔しいだけで、本当に辛いのは、悲しいのは、先輩なのに」
 また幸村くんと目が合って、今度は微笑まれた。その笑顔は、今まで見てきたどんな笑顔より、綺麗で、嬉しかった。

「でも、ブン太はそうじゃないから、嬉しかったよ。ブン太と、友だちになれてよかった」
 温かい感情が、心に流れこんでくる。幸村くんを構成する物質、世界、感情、全てが、俺を癒やす。涙腺がキュッとなった。

「俺も幸村くんと友だちになれてよかった…嬉しいっ」
 泣きそうなのをこらえた顔は、きっとみっともなかっただろうけど、幸村くんが頭をぐしゃぐしゃって撫でてくれたから結局泣いてしまって、更にみっともなくなった。

 心臓から肺を満たして、喉の奥まで好きって言葉でいっぱいだった。口を開けば、今にも漏れてしまいそう。
 だけど、今はまだ相応しくない。小さく息を吸い込めば、言葉は喉の奥ではじけて消えた。

 幸村くんが更に特別になった。
 忘れられない、君に近づいた日。


※オムニ(コート)=テニスコート用砂入り人工芝
(喉の奥ではじけて消えた)


 たゆたう煙は白いけれど、この部屋を表す白とは明らかに異質で、俺は入り口に立ち竦んでしまった。窓辺に腕を組んで寄りかかって外の景色を見ている幸村くんは、慣れたような手つきで煙草をふかしていた。大人びてはいるけれど、まだ中学生。様になっているのがおかしい。もっとおかしいのは、彼が神の寵児と呼ばれた人だからだ。
 灰皿代わりに窓枠に置かれたココアの空き缶に、煙草を押し付けて、吸い殻はそのまま飲み口に入れられた。窓を開けてカーテンを揺らすと、煙は霧散していった。喉の調子を整えるように咳を一つすると、幸村くんは漸くこちらを向いた。
「わ、ブン太来てたの」
「うん…」
 眠っているかもしれないと思って、極力音を出さないように扉を開けはしたけど、通常なら気づかない音ではなかった。それでも気づかなかったのは、きっと幸村くんは何か考えに耽っていたからだろう。目を丸くして驚く幸村くんは、慣れたように煙草を吸っていた姿とはうってかわってあどけなかった。吸い殻の入れられた缶から目が離せず、じっと見つめていると幸村くんが苦笑して言った。
「これ、仁王が差し入れてくれたんだ」
 仁王が。何で。
 スポーツマンに喫煙は御法度だなんて、分かりきっているじゃないか。自分だってそうなんだから、尚更。それに幸村くんは入院中で、大事な、大事なときなのに。無意識の内に眉間を歪めていた。

「俺が吸ってみたいって言ったんだよ。怒らないでやって」
「なんで…」
 幸村くんは慰めるように、穏やかな声で言った。その言葉が信じられなくて泣きそうになる。

「単に、好奇心だよ」
 それなら、今じゃなくてもいいじゃないか。大人になって、テニスを止めたら吸ってみればいい。法が許す年齢になって、自分で責任を持てるようになってから吸ってみればいい。
 なんで、そんな諦めたみたいなことするの。
「なんで…」
 それしか出てこなかった。幸村くんからの答えはなくて、ただ曖昧に微笑んでた。
 煙草を1本吸うと、5分寿命が縮むって聞いた。その手つきから、幸村くんが吸ったのは1本や2本じゃないだろう。人生において、たった5分かもしれない。だけど、未熟な体で毒のかたまりを吸えば、どれだけ幸村くんに損失を与えるか。幸村くんの病状は今小康状態にあるようだけれど、いずれは手術を必要とすると聞いた。幸村くんの吸った煙草が、どれだけの影響を及ぼすかは分からない。だけど、絶対に悪影響だろう。
 煙草がどうして悪いかなんて、考えればキリがない。
 好奇心だけで、幸村くんはこんな愚かなことはしない。幸村くんが一番分かっているから。俺たちの臨もうとしている舞台が、どれだけ厳しい世界かってこと。何が彼を動かしたのか、思いあたることは一つだけで、結局唇を噛むしか俺にはできない。
 暫時の沈黙が、何時間にも感じられた。窓辺と入り口、離れた距離が気持ちを表しているみたいで、胸が痛い。ぼうっと幸村くんの足元を見ていたら、幸村くんが俺を手招いた。何かに押し潰されてるみたいに重い体を進めて、幸村くんの隣に並ぶ。幸村くんは中庭の花壇を指差した。
「あの花がもうすぐ咲き頃なんだ」
 視線をやってみたが、目に映るのはまだ青い花壇。本当に花が咲くんだろうか、俺には分からない。
「隣街の植物園があるだろ」
 言われて俺は頷いた。二人で、行ったことがある。幸村くんの入院する前に。花のことなんて少ししか分からないけど、幸村くんがたくさん喋ってくれるから嬉しかった。
「あそこの中央花壇にたくさん植えられてるから、満開になったら見に行こう」
 優しい笑みを浮かべながら幸村くんが言うから、俺は頷くしかなかった。
 分かってる。幸村くんは俺のために約束してくれたんだ。

 うちの父親は元は愛煙家だったらしいけど、俺が生まれるときに一切やめた。母親は一度も吸ったことがないと言っていたし、祖母は嫌煙家だ。だから、煙草の匂いは嗅ぎ慣れない。

 異質な匂いが幸村くんから香って頭が痛い。
 煙草なんて嫌いだ。


(副流煙に沈む)


Re:Re:Re:


気持ち悪くなんかないよ!
ブン太が勇気出してくれて嬉しい。

俺もブン太が好きだよ。

だから、これからよろしくね。


(Re:Re:Re:)


God, you, and me.





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