幸村と丸井
きみとぼくとかみさま


 思えば、すこし前から幸村くんは体調が思わしくないようだった。普段の生活では何でもないような振りをしていたけど、テニスをすればそれは僅かながら、でも、確かな違和感をもって表れていた。
 球筋がブレる。
 球威が劣る。
 あと一歩が届かない。
 幸村くんは寝不足だとか、疲れが溜まってるとか言い訳したけど、そんなの幸村くんらしくない。テニスコートの上で神の寵愛を受けたその人に、惨めな様は似合わない。

 見たくなくて
 目を閉じ

 聞きたくなくて
 耳を塞ぎ

 言いたくなくて
 口を噤んだ。

 真実を見れば、それは繊細に破綻し始め、
 耳を澄ませば、神は地に落つ
 口にすれば豪奢な夢が終わる。

 みんなで隠蔽した。事実に、蓋をした。


 幸村くんが倒れたのはある朝、駅のホームで。
 映画のミステイク。張りぼてが破られてしまったみたいに、そこに君臨するはずの神の子は呆気なく、落ち葉のように地に滑った。

 俺はその場にはいなかったけど、空耳を聞いた。幻を見た。喘ぐような、殺した息が漏れた。


 かみさまはいじわるだ。


 はかない きみと
 よわい ぼくと
 いじわるな かみさま


(きみとぼくとかみさま)


 その日は練習試合と言えど、俺が立海の名を背負った初の対外戦だった。仲の良かったレギュラーの先輩が俺を見込んでくれて、一年でありながらその試合に出してくれた。そのことで、俺はいい気になっていたのかも知れない。
 初めは上手く攻めていたのに、巻き返されて4‐6。持久力不足と、はっきり結果は見えていた。当時にはもう成功率はまだ低かったけど、綱渡りは完成させていて、「上手く誘い込めばいい勝負球になるだろう」と、先輩はそう言ってくれた。テクニックには自信があったし、短期戦が得意だった。
 奢れる者は久しからず。俺はもっと貪欲になるべきだったんだと思う。体力作りは基本だし、一年用のメニューは体力に重点を置いて組まれていた。それは確実にこなしていた、けれどこの全国に名立たる立海で、仮にもレギュラーを目指そうと言うのならば、その程度で甘んじてはいけなかった。レギュラーの練習を見れば、俺らの二倍はキツいメニューを優にこなしている。それくらい、俺も本気になるべきだった。
 初めての試合にしてはよくやったと、先輩は慰めてくれたけど、期待にそぐわなかったんだと、悔しく思った。すみません、と謝ったら、次は挽回してくれ、と言われたから。せっかく俺を推してくれたのに、情けない。

 夕方になって俄雨が降り出した。コートには誰もいなかったが、俺はそこから動けなかった。ザァザァ降る雨が、肌を叩く。紛れてしまえば分かるまいと思えば、我慢していた涙が出てくる。悔し涙はいいもんじゃない。疲れるまで泣きでもしなきゃ、ちっとも気分が晴れない。涙が涙腺から溢れてくるように、悔しさも体の奥底から溢れ出てくる。
 やりきれなくて、仕舞いには頭を抱えた。雨脚が強くなる。痛いくらい体を叩く。
 それが、突然消えた。雨の音は未だ止まず、降っているのは確実なのに、肝心の雫が落ちてこない。不思議に思って顔を上げれば、幸村くんがいて、俺に広げた傘を差し出していた。幸村くんの翳(さ)しているのは折りたたみ式のもののようで、俺に差し出されたものは普通の傘だった。
 どうすればいいのか分からず、躊躇(ためら)っていると、幸村くんは普通の傘を持った手を俺に示すように揺すった。俺に「持て」と言うことなのだろうと理解して、柄を握る。

「風邪引くよ」
 そう言って幸村くんは笑った。今さらきっと、手遅れだろうけど。

 笑った顔が優しかった。俺の無様な負けを見ていたろうに、同情や憐憫や侮辱なんて微塵もなくて、きれいな笑顔だった。

「ありがとう」
 震える声で礼をすると、幸村くんは満足したように頷いて、踵を返した。俺は笑顔で言ったつもりだけど、雨に濡れて泣いた後じゃ、きっと酷い顔だっただろう。

 直に雨は止んで、やっと俺は部室に向かった。そこにはジャッカルだけ残っていて、鍵を任されたと言った。悪いと謝ると、ジャッカルに「大丈夫か」と、心配そうな顔で聞かれた。俺は黙って頷いた。

 ロッカーを開けたら、清潔な白いフェイスタオルが置かれていた。柔らかいそれは、俺のじゃない。
 丁寧に書かれた精市という文字をタオルの端に見つけると、俺はもう一度涙の浮いた顔を押し付けた。


(負け犬に雨)


 C組は隣のクラスだけれど、友人もいないので今まで訪ねたことがなかった。放課後でもよかったのだけれど、俺は幸村くんに早く礼を言いたくて、手早く昼食をとった後、C組に向かった。入り口に立って、幸村くんの姿を探す。隅々まで見渡したけれど、それらしい人はなかった。どこかに行っているんだろうか、入り口に一番近い席にいた男子生徒に尋ねてみると、幸村くんは中庭の花壇にいると教えてくれた。礼を言ってから、中庭へ向かった。

 廊下の途中にあるドアから中庭に出ると、花壇の前にしゃがみ込むその人の姿が見えた。傍に寄ってみると、律儀にも軍手を付けて雑草をむしっている。
「あの、幸村くん」
 失敗したと思う。たかだか声を掛けるだけなのに、緊張して声がひっくり返る。
「あぁ、誰かと思ったよ。丸井くんか」
 変な声を出してよっぽど不審だったろうに、幸村くんは笑顔で接してくれた。立ち上がり、軍手を外して、手の甲で額の汗を拭う。俺は幸村くんに名前を呼ばれたことに感動していた。全国常連の立海テニス部には毎年多数の新入部員が入る。その中で幸村くんはずば抜けてテニスが上手く、立海の次代を担うのは彼だと言われるほどの人だ。それに比べて自分の実力は精々おこぼれで試合に出してもらえる程度、それにその試合にも負けてしまった。俺は凡庸な多勢の内の一人に過ぎず、彼は当代切っての名選手。そんな彼が俺の名を知っていてくれた。

「俺に何か用かい?」
 幸村くんに聞かれて、はっとして後ろ手に持っていた傘を差し出す。
「傘を返そうと思って!あ、ありがとう!」
 頭を下げながら、傘を持った両手を差し出す。
「ふふ、なんだ。放課後でもよかったのに」
 幸村くんは穏やかに笑って、それを受け取った。用事はあっという間に済んでしまった。けれど昼休みの終わりまでまだ十分ほどある。離れがたく思って、慌てて口を開いた。
「あ、あの!幸村くんて、緑化委員なの?」
「ううん、美化委員だよ」
 幸村くんは軽く首を振った。花壇の世話は緑化委員のはずだけれど、何故幸村くんがしているのだろう。
「あは、変な顔してるけど、そんなに不思議かい?」
 幸村くんは俺の顔を見てクスクスと笑った。
「そんなに変な顔だった…?」
「頭の後ろにポカーンって見えたよ」
 成る程、気の抜けた変な顔だったかも知れない。

「俺、ガーデニングが趣味でね。雑草とか生えてると気になっちゃって」
「そうなんだ…」
「変かな。乙女趣味だと思う?」
「え、そんなことないよ!花も、きれいに手入れしてもらって嬉しがってると思うよ」
 緑化委員に入るやつって植物が好きだからって奴は少ない。それに人気もない。地味だし、当番はあるし。でも毎週の当番は水やりだけだから、楽したいって奴もいる。そんな奴らに手入れされるより、幸村くんに手入れされる方が花も嬉しいだろう。
「そう言われると、俺も嬉しいな」
 幸村くんはにっこりと笑った。

「この花、何か知ってる?」
 幸村くんはさっき雑草を抜いていたあたりの、赤い花を指して言った。俺は生憎と、植物には詳しくない。見たことはあっても名前はさっぱりだ。首を横に振る。
「ガーベラって言うんだ」
「あ、なんか聞いたことある」
「でしょう?」
 名前を聞いたことがあっても、実物と併せて見たことはなかった。これが、と思いながら花を見る。赤いものだけじゃなく、ピンクや白やオレンジのも咲いている。花弁が多くて、可憐な感じの花だ。
「ガーベラの花言葉の一つに、『常に前進』っていうのがあるんだ」
 その言葉に、胸を射抜かれた。幸村くんを見ると、やっぱりきれいに笑ってる。優しい眼差しが俺を見てる。

 簡単に、俺は恋に落ちた。恋をするのに理由はなくても、きっかけは必ずあるのだと思う。ただ、それを自覚できるか、できないかだけ。俺は間違いなく、この瞬間に恋をした。



 昼休みの終わりが差し迫った頃、タオルを返し忘れたことに気づいて、次に会う約束をした。


(傘を返しに)


 タオルを返した後、メアドを交換した。あまり携帯を使わないらしくて、赤外線の位置も使い方も分からないよ、と言って幸村くんは笑った。俺は、とにかく幸村くんと途切れてしまうのが嫌で、ほとんど毎日といっていいくらい幸村くんにメールした。テニスにかこつけたり、小さい、つまらないことでもメールしたり。うざったいって思われてるかもしれないけど。幸村くんは最初、素っ気ないメールだったし、返信も遅かったのが、だんだん早くなってきて、絵文字も使うようになった。やっぱり花の絵文字が好きで、機嫌のいいときにはいっぱい付けてきた。かわいいなって思う。
 例えば、どうやったら効果的に腹筋が付くのかとか、持久力を上げるために何をしてるかとか、俺にとって幸村くんは目標だった。もちろん好きな人ではあるけれど、それ以上にコートの上で幸村くんの隣に並びたかった。練習試合の前、レギュラー面子がずらっとネット前に立つ。幸村くんは堂々としていた。願わくば、そんな君の横まで行けたら。きっと俺は自信を持って君を好きになれるだろう。
 毎日メールしなきゃ忘れられるかもって思ってる。そんな女々しい奴はきっと幸村くんも好かない。君の横に堂々と立ちたい。


(願わくば、君の横まで)


 今日、幸村くんのお見舞いに行った。部活を早退けして、ひとりで。こないだ会ったとき、次は今日って約束してた。早く会いたかった。幸村くんが好きだ。今日会えるって嬉しかった。
 赤也が俺の顔色が悪いって言った。ジャッカルが額に手を当ててきた。柳生は貧血じゃないかって言った。仁王に泣きそうな顔してるって言われた。柳が早退した方がいいだろうって言った。真田は黙って頷いた。俺は追い出されたように、病院へ向かう。顔色が悪いだとか、泣きそうだとかなんて、あるわけがないのに。だって幸村くんに会えるのに。嬉しいのに。泣きそうなのはきっと、幸村くんなのに。俺は何も、辛くも苦しくもないんだよ。それは心情だけで、実際に辛いのは、苦しいのは幸村くんなんだ。歯がゆいって言うんじゃない、憎い、自分が。幸村くんが好きなのに、何もできない。会えるのに、苦しくて泣きそうだなんて、自分勝手だ。


 ベッドにうずくまって幸村くんを思う。平気そうに笑っていたきみが蘇る。
 俺が元気のないのを心配して、抱きしめてくれた。好きだって言ってくれた。
 きみに俺が救われた分だけきみを救えたらいいのに。俺にとってのきみの価値の分だけ、俺がきみにとって価値あるものだったらいいのに。

 毒にも薬にもならない、むしろいっそなければいいくらいの存在にはなりたくない。

 ひとりの夜は不透明な感情ばかりで、嫌になる。


(夜は不透明)


 たった一言交わしただけのあの雨の日。あの日降っていたのはきっとシュガーシロップだったんだろう。甘く甘く俺の身体に染みて、俺は君に浸かる日々だ。

 はじめて交わした言葉は何だったんだろう。その次は。あの雨の日の前は、いつ会話したのかな。ちっとも覚えていない。運命を知らなかったが為に酷く損をしたと思う。
 なら、これから覚えていればいい。そう思って、幸村くんとの思い出は小さい事でも大切にしている。


 はじまりの雨の日。
 傘を返した運命の日。
 君に近づいた日。
 好きだと言った日。
 好きだと言ってくれた日。


 シュガーシロップに浸かって、甘く漬けられたチェリーは、ずっと先まで食べれるから。君に恋をした俺が、ずっと君のことを好きでいられるように、シュガーシロップを注いでください。


(君に浸かる)


God, you, and me.





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