藍と、喧嘩をした。
多忙の中わざわざ時間を割いてくれた藍にひどく当たってしまったのだ。わたしはこのところ、仕事でちょっとした失敗をしたことを幕開きに、なぜだか何もかもが上手くいかなくなって、やりきれないことばかりで焦れて、苛立っていた。藍は、そんなことでペースを乱していたらこの仕事は務まらないだとか、過去の失敗は反省をして繰り返さないようにすべきだけれど、気にし過ぎるのは良くないとか、そんなことを言って諭してくれた。相変わらず厳しい口調だったけれど、それも普段なら気にする程度のものではなくて、むしろ今思い返してみると撫ぜるようなやさしい声音だったくらいだ。けれど諭しよりも好きな人からのあまやかな慰めを求めていたわたしは、すっかり失望してしまった。「もういい、藍なんか知らない」なんて勝手なことを言って、呼び出しに応じてくれた藍をカフェに一人残して帰ってしまったのが一昨日。頭が冷えて素直に謝ろうと思ったのだけれど、電話は通じないしメールも返ってこない。愛想を尽かされてしまったのではと一時は焦ったものの、喧嘩をする前、ロケで忙しなるから数日はコンタクトがとれるかどうかわからないと言っていたのを思い出して、ほんの少し冷静になると同時に、色々なものがどっと溢れ出てきた。自分の、雑然とした四角い部屋でひとり、馬鹿みたいに泣いて、わたし、藍がいないと駄目だなあ。気持ちの切り替えができない、幼稚な発散の仕方しかしらないものだから更に落ち込む、なんて悪循環。ああ、煩わしい!
藍と喧嘩してから二日、事務所のソファでひとりさみしく自分の不甲斐なさに項垂れていると、わたしにとっては随分と場違いに感じる明朗な声が事務所に響く。嶺二だ。
「やっほー!嶺ちゃんだよ!名前ちゃん、もしかしてちょっとお久しぶりじゃない?」
ちょうど仕事が一息ついたらしい嶺二は、身を投げ出すように勢いよくわたしのとなりに腰掛けた。ぼすん、とやわらかいソファが沈む。いやーもう、さいきん後輩ちゃんたちが若々しすぎて眩しいったら、いや、ぼくもまだまだ十分若いんだけどね、永遠の19歳だからね、なんて恥ずかしげもなく言う嶺二に深い溜め息がこぼれた。いつもならつられて笑ってしまう晴れやかな笑顔や明るいトーンに頭痛がする。こいつは悩みなさそうでいいな…と失礼極まりないことを考えるけれど、ちっとも笑えない。もうひとつ、重い溜め息。いつもと比べ物にならないくらいのローテンションを不審に思ったのか、いかにも沈鬱な雰囲気が垂れ流しだったのか、「名前ちゃんもしかして元気ない?」と顔色を窺うように嶺二がわたしの顔を覗き込む。わたしが余程ひどい顔をしていたのだろうか、嶺二は一瞬だけ心配そうな顔をして、それからぱっと笑顔に戻るとわたしの背中をばしばし叩いた。
「どうしたの、元気ないよ!悩み事があるんなら、おにいさんがなーんでも聞いてあげるから、元気だして!ねっ!」
元気づけるように言われて、泣きそうになった。背中を叩いていた手は、幼い子供を落ち着かせるみたいな手つきになる。唇を噛んで滲む涙をなんとか押し戻そうとたっぷり奮闘するわたしを、嶺二は何も言わずに待っていてくれて、そのあたたかな優しさにじんとした。
「……藍と」
「アイアイと?」
「喧嘩、しちゃった」
けんか?と詳細を求めて聞き返した嶺二に、藍との喧嘩に至るまでの経緯を掻い摘んで話している間、一昨日の藍の哀感で満ちたアイスグリーンの双眸が、わたしを見詰めているような心持ちがした。その冷たくてさびしい視線にわたしもひどく悲しくなってしまって、嶺二がすぐ隣で話を聞いてくれているというのに、さびしかった。藍も、いま、さびしいのかな。そんなことを考えて、心臓を冷えたほそい手でぎゅっと鷲掴みにされたような気分を味わう。ぎりぎり食い込む指が、さびしさが、いたい。背に置かれた嶺二の手が対照的にあたたかくて、うっかりまた泣きそうになるのを慌てて堪える。嶺二はわたしの頭を、ぽんぽん、とやさしく叩いて、「そっかあ、喧嘩しちゃったかあ」とやわらかく口を開く。
「上手くいかなくて不安定なときって、誰かに慰めてほしいもんね。そりゃ、アイアイのお説教も必要だったとは思うけど、甘さだって必要!名前ちゃんはちゃーんと反省してるんだから、あとは仲直りすればノーモンダイ!」
にっ、と嶺二は笑ってみせる。嶺二らしい慰め方だなあ、と思って、少し笑ってしまった。嶺二は「名前ちゃんわらったー!」と、大袈裟にリアクションすると、わたしの両手を引っ張ってソファから立たせる。
「よーし、それじゃあ名前ちゃん復活記念に、甘さ補給に行こう!近くでケーキバイクングやってるの、知ってる?丁度スポンサーさんから割引券貰っちゃったし、名前ちゃん甘いもの好きでしょ?ぼくも今日はこれからフリーだし、行こ行こ!」
「えっ、う、うん、いく!…ありがとね、嶺二」
「いいのいいの。名前ちゃんが落ち込んでたら、放っておけないでしょ?割引券、二人分だから、誰か誘おうと思ってたところだしね」
嶺二、なんていい奴…!悩みなさそうでいいなとか思ってごめん、と内心で謝罪したところで、ポケットが震える。携帯のバイヴレーションに一瞬びくりとして、もしかしたらと微かな希望を抱いて携帯を引っ張り出す。縦長のディスプレイに表示されたのは、着信・美風藍の文字。慌てて通話ボタンを押すと、聞こえてきたのはすこし不機嫌な藍の声。
「ねえ、キミ、なんで家にいないの」
「えっ」
「今日この時間はフリーだから、家にいるって言ってたのはキミでしょ?今どこにいるの?まさかまた仕事でミスしたなんて言わないよね」
面食らって何も言えないでいるわたしに、藍は続けて早口で捲し立てる。
「全く…これだからキミは。一昨日のことについても後でたっぷり説教してあげるから、そのつもりでね。ほら、待ってるから、早く帰ってきてよ」
「う、うん、いま行くね」
そう言ってしまってから、嶺二とケーキバイキングに行こうとしていたことを思い出して、あっと声を上げる。電話を切ろうとする藍に待ったをかけようとしたものの、藍との通話は無慈悲にもぷつんと切れた。藍が待っているというのにケーキバイキングなんて行ってられないけれど、嶺二だってわざわざわたしを誘ってくれたのだ。一度乗った話をすぐ断るというのも失礼な話だし、どうしたものだろうか。すっかり困り果ててしまったわたしは嶺二を見上げる。
「電話、アイアイから?」
「うん。それで…」
「ケーキバイキングは今度にしよっか。アイアイが待ってるんでしょ?早く行かないと」
何もかも分かっているとでも言うように笑うと、嶺二はわたしの背中をぐいぐい押して送り出した。大きく手を振る嶺二に手を振りかえすと、今までにないんじゃあないかと言うくらいの全力疾走で帰路へつく。途中、事務所の廊下ですれ違った蘭丸にぶつかりそうになったり、カミュにおかしなものを見るような目で見られたりしながらも、足を止めずに走る。自動ドアが開く速度や高いヒールのパンプスが煩わしい。藍、はやく藍に会いたい。藍のうつくしい肉声を、風に靡く髪を、アイスグリーンの瞳を、捕えたいのだ。やわらかな風がぶわりと後押しをするように吹く。憑き物が落ちたように体が軽くて、このまま少し跳ねれば、簡単に空へ飛びあることができそうな気さえした。いっそ、空が飛べたらいい。そんなことを考える。わたし、藍のことすきだなあ、と実感すると、なんだかあたたかい笑いが込み上げてきた。
130715