utpr fiction | ナノ

 何をもって特別と括るのか。誰が決めたかわからないものさしや基準で測りたくはないのだが、それが世界の道理といわれるのなら用いることも辞さない。それで測った場合、私と彼の関係は十中八九「特別」という括りに属するのだろう。そうでありたいという私の希望もあるのだが、なにより「幼馴染」という関係がある限り、私と彼を特別でないとは言い難いんじゃなかろうか。
 寿嶺二。私より二つ上の25歳。実家は寿弁当というある程度は名の知れた埼玉のお弁当屋さん。職業、アイドル。かの有名なシャイニング事務所に所属しており、バラエティやドラマなども熟すオールマイティな一面も持っている。言動はどこか昭和臭いものがあるのも彼の魅力なのではなかろうか。
 そんな彼と私の関係は、先も述べたとおり「幼馴染」だ。この世に生を受け、物心ついた頃には、寿姉弟に良くしてもらっていた。特に嶺二さん…ううん、れいちゃんとはお姉ちゃんよりも年が近かったからか、何処に行くにも何をするにも、彼の後ろをついて回った記憶がある。
 年が片手で足りる頃、私のマッチ棒よりも短い小指と彼の少しだけ男らしさを滲ませた小指を絡めたあの日。彼は真っ直ぐな笑顔で「大きくなったら結婚しよう」と言った。小さいながらにれいちゃんの事を好いていた私の答えはもちろんイエス。返事を聞いたれいちゃんにキスをされたのだが、きっとあの時が私のファーストキスなんだろうな、と。
 幼い頃の口約束なんて、取るに足らないものだし、きっとれいちゃんは忘れてしまっているだろう。それでもいいと思う。私の気持ちだけが真実で、彼を思い続けた時間は無駄ではないはずだから。
 それに彼がアイドルであることが、私に大きな安心を与えてくれた。シャイニング事務所のアイドルは恋愛禁止というのが鉄則だ。つまり十代からシャイニング事務所の傘下に見を投じた彼に、恋人という枠に収まる人物は存在しないに等しい。彼に恋人はいない、それだけで充分だったのに。


  

「女の子?」
「そうそう。最近嶺二からの電話でハルカちゃん? って子の名前をよく聞くんだよねー」
 寿弁当のからあげが食べたいね。そう母が言ったので嬉々として立ち寄ったそこで、こんな衝撃を受けることになるとは。たとえ今日聞かなくとも、いつかは聞く羽目になったこと。己のタイミングの悪さを呪ったとしても、おしゃべり好きなお姉ちゃんやおばさんと顔を合わせるのなら、きっとこの話題は出てきたはずだ。
 お姉ちゃんは珍しいものを面白おかしく話すかのように、その子はきっと嶺二の好い人になるとまで宣言した。口元はすべてを見透かしたような半円を描いて、だ。
「そうかな」
「そうよー!」
 正直、気が気でない私をお姉ちゃんは知らない。ああ、上手く笑えただろうか。

 お姉ちゃんが持っていくはずだった仕送りならぬ、差し入れを片手にれいちゃんの部屋の前に立つ。連絡もせずに来てしまった。今日はオフだったろうか。腐っても人気アイドル。最近はメディアで見かけることも増えた。きっと仕事だって増えに増えているんだろう。実家に顔を出す回数だって、以前とは違って随分減ってしまったし。
 今更だが電話でもしてみようかとポケットに手を突っ込む。確か右ポケットに携帯をしまったはずだ。
「あれ? 名前?」
 寿嶺二という文字をタップして、今にも電話をかけてしまいそうな時だった。エレベーターを降りたばかりであろうれいちゃんと、その後ろには銀髪の男性が並んでこちらに歩いてきている。私の姿を確認した彼は、変装のためにかけていたであろうサングラスをずらして、こちらにひらひらと手を振っている。
「れいちゃん!」
 久しぶりに見た彼の姿に言葉が上ずってしまう。恥ずかしい。でも嬉しい。顔を見て言葉を交わすのは、本当に久しぶりだから。
 どうしたの? そう言った彼の顔は、前に見た時よりも少しだけ疲れて見えた。長居は禁物だろう。そう思っていたのに、彼も銀髪の人も上がっていくよう薦めてくるので、私の足はいつの間にかれいちゃんの部屋の中へと向いていた。今はれいちゃんの部屋のソファに、しっかりと体を沈めている。
「嶺二の幼馴染なんだな」
「え、あ、はい…えっと」
「んだよ」
 この人は一体誰なんだろう。そう思って私が手渡した差し入れを冷蔵庫にしまうれいちゃんをちらりと見やれば、彼は肩をすくめてくつくつと笑った。銀髪の人はよりいっそう眉間の皺を深めた。おそらくなんて前置詞は不必要だろう。彼はアイドルだ。
「名前、ランランはね、ぼくと同じ事務所のアイドルだよ」
「やっぱり…」
 見た目だけで言うならば、アイドルというよりはバンドのボーカルのような印象を持つ。それをそのまま彼に伝えると、彼の目は大きく見開かれ、次の瞬間には肩は掴まれ、視界はぐわんぐわんと揺れていた。
「お前、嶺二の幼馴染のくせに見る目あるな!」
「ちょっとランラン、それどーゆー意味?」
 どうでもいいから、今すぐにランランさんとやらは私の肩を掴んで揺らすのをやめて欲しい。途切れ途切れになる意識の中、必死に紡いだ「やめて」という声は、かろうじて彼らに届いたらしい。未だに回る世界の中、銀髪の彼は自己紹介をしてくれた。
 れいちゃんはランランと読んでいたが、黒崎蘭丸という名前らしい。なんだか可愛らしい名前だと思い、くすりと笑みを漏らしてしまったのだが、ギロリと睨まれてしまった。どうやら禁句らしい。れいちゃんと同じ事務所のアイドルだが、れいちゃんのアイドル路線とは違い、ロック路線で売っているとのこと。聞かせてもらった楽曲は全てエレキギターやエレキベースなどが使われており、大きなホールで聴くよりもライブハウスで聞くほうが映える気がした。それもそのまま伝えると「お前わかるやつだな!」と今度開かれるライブのチケットを握らされたのは別の話。
 年齢はれいちゃんの三つ下、つまり私の一つ下だ。お互いに「年下だったんですか!」「年上だったのかよ!」という声をあげてしまい、れいちゃんがお腹を抱えて笑っていたのは、一旦置いておこう。
「ってことはなんだ、お前23か」
「声に出さないでください!」
 むっとして反論した声は、私が思っていたよりも荒げられた、大きいものだったらしい。蘭丸さんが顔をしかめて「うっせ」と私の頭を叩く。この短時間でここまで距離が縮まるとは、誰も思わなかっただろう。もちろん私は思いもしなかった。
 そんなことはどこ吹く風と言わんばかりに、彼は私のほうをじっと見つめ、地雷とも言えるフレーズを零した。
「結婚適齢期じゃねえか。結婚しねえの?」
 嶺二やオレはアレだけどさ。顎肘をつきながら、彼は私に言葉を続ける。
 確かに周りは結婚したり、子供が生まれたりと目まぐるしい。大学を卒業したと同時に結婚した友人は何人いただろうか。まだ23ではなく、もう23なのだ。いつまでも若いままではいられない年齢に片足を突っ込んでいるのだから。
 それでも私の心は幼い頃から変わらず、れいちゃんのことばかりを想ってきたのだ。結婚だってあの日の約束を未だに夢見ている。彼氏だって、旦那様だって、れいちゃん以外が隣に立つ未来が想像できないのだ。
「まだいいかな〜…なんて、」
 うまく誤魔化せただろうか。ひくつく頬の筋肉は私だけが知っている。他の誰も知らないはず。


   

 たまたま通りかかった寿弁当の前。名前ちゃん! と私を呼ぶ声に振り返れば、おばさんが丁度良かったと言わんばかりの顔で手招きをしていた。
「嶺二に持ってってやってくれないかい?」
 持たされたのは、れいちゃんが大事にしていたアルバムといつものからあげ。どうしてこれが必要なのだろうか。何も知らないふりしておばさん尋ねると、おばさんの口元がだらしなく緩んだ。途端に嫌な予感が背中を駆け上がる。
「実はね〜、」
 やめて。その続きは聞きたくない。そう想っても私にそう言えるだけの権利はないし、そう言えるだけの関係性はない。
「嶺二が見せたい子がいるって言ってきたのよ! そういう話が出来る子なんて、もしかして? って思っちゃうわよねー」
 奥歯がかちかちと音を立てる。かろうじて絞り出した「そうなんですか」という言葉は、きちんと空気を震わせたのだろうか。私の、誰にも侵されることのなかったサンクチュアリが、少しずつ崩落していく音がした。

 断るなんて選択肢は持ち合わせていなかった。おばさんに預けられた紙袋を片手に、今日もれいちゃんの部屋の前に立ちすくむ。先程から心が落ち着かない。これも気づかないふりが出来たら、私はとうとう無の境地にでも足を踏み入れてしまうのではないか。
 意を決してインターフォンに指を乗せた時だ。玄関の中から、今日は帰りますねというソプラノが聞こえた。どうあがいても男性のものではない、女性特有の軽さをもった声。心臓が粟立った。瞬時に体内の水分が蒸発したようだった。この中に、あの「ハルカチャン」がいるのかもしれない。
 私がインターフォンを押してしまう前に、玄関の扉は開いてしまう。あっと思った時には、アプリコットの髪色とボブヘアーがよく似合う女の子と目が合った。もちろんその奥にはれいちゃんがいる。いつもより少しだけ浮き足立った雰囲気の、だ。
「あ、えと、お、おじゃましました!」
 女の子は私とれいちゃんに一礼すると、バタバタと出て行ってしまう。…勘違いさせてしまったのだろうか。それはそれで都合がいいなんて考えてしまうあたり、私はなんて汚らわしい人間なのだろう。人間のクズだ、ゴミだ、最低だ。
 空気は凍っている。それもそうだ。私というイレギュラーな存在が暖かな空気をぶち壊してしまったのだから。脳をフル回転させて、必死に言葉を探す。からからの声帯をなけなしの水分で潤して発した言葉は、自分でも驚くほどに卑屈なものだった。
「さっきの子、可愛かったね」
「…」
「若そうに見えたけど、れいちゃんといくつ違うの?」
 無意識に上ずっていく声。ぎゅっと裾を掴んだまま離さない両の手。斜め下を見つめたままの視線。れいちゃんが立つ方向を見れないのは、彼の纏う空気に微量だが怒りを感じるから。幼い頃から怒ったれいちゃんとだけは、どうしても目を合わせることが出来なかったのを今思い出すだなんて。
「あの、これ、おばさんから…」
 玄関の中に入り、あずかっていたものを彼の前に突き出す。「さっきの子と見るの?」という言葉がすとんと唇から落っこちてきたのには、自分でもびっくりというか。何言ってんだろう。こんなこと聞いたって傷つくだけだとわかっているのに。
「あの子がぼくの大切な子って言ったら?」
 張り詰めていた弓がびいんと音を立てるように、彼の言葉は凍りついた空気を震わせた。
「ぼく、あの子のこと好きなんだ。本気なんだよ」
 水面に波紋が出来るよりも早く、私の鼓膜を揺らすのだ。
 かたかたとした震えが指の先まで伝わっていく。彼は、いま、何と言った? あの子が、好きだと、言った…?
 全てを理解した時、目蓋に全身の熱が集まる感覚に襲われた。泣くもんか。その気持ちだけで、どうにか涙を堪えてると言っても過言じゃない状況だ。
「そ、っか」
 ようやく紡ぎだした言葉は酷く弱々しい音を奏でた。
「そっか、そっか。急にごめんね。用はそれだけだったから、ごめん。あの子勘違いしちゃったよね、私ってばれいちゃんの彼女でもないのに。ほんとごめんね。これから予定あるし、もう帰るね」
「待って名前、車出すよ」
「大丈夫!」
 玄関の中でくるりと方向転換をして、ドアノブに手を掛ける。もう彼の方は見れない。見ることは出来ないのに、背後では「でも」と食い下がろうとするれいちゃんの声が聞こえた。
「大丈夫だから、ほっといてよ」
 チャリっという音がする。おそらくれいちゃんが車のキーを手に持った音だった。
「お願いだから」
 もう一度、同じ音がした。これはれいちゃんが車のキーを元に戻した音。あーあ、本当にほっといちゃうんだ。もっと食い下がってくれれば良かったのに。一人にできないよって。私が泣きそうな時はいつもそばにいてくれたじゃん。どうして、もう、無理なの。
「私ね、れいちゃんの事がちっちゃい頃からずーっと好きだったの」
 わざとらしく鳴らすつま先は、部屋の中では思ったよりも響かない。
「バカみたいでしょ。ちっちゃい頃の結婚の約束だって未だに信じちゃってたし。それにね、わたし、すっごく諦めの悪い女なんだ。…って、これはれいちゃんもよく知ってるか」
 ドアノブに手を掛ける。次にこの扉を開いた時、それが私の恋の終わりだ。長い長い片想いだった。初恋は実らないっていうジンクスをまさか23にもなってから、身を持って経験するだなんて。下手な恋愛小説家や漫画家が書いたシナリオよりも面白いんじゃなかろうか。
 すっと息を吸う。できるだけ、背後の彼のリズムからずらすように。れいちゃんのリズムをとらないように。
「だかられいちゃんのこと、ずっと好きでいちゃう。ずるずるずるずる、れいちゃんのことばっかり考えちゃうから」
 思い切り扉を開け放てば、すっと冷たい空気が私の頬を撫でた。
「バイバイ、れいちゃん」

 彼の部屋の扉を締める間際に、微かに私を呼ぶ声が聞こえた。今はそれでいい。きっと今日一日くらいは私のことばかりを考えてくれるのなら、それでいい。それだけで充分なのに。
 エレベーターに乗った途端に必死になって塞き止めていた涙が溢れ出す。失恋したんだな。告白だって言い逃げして、かっこ悪い終わりだ。それに呆気なかった。まるでティッシュペーパーが一瞬にして燃えカスになってしまうような。
 きっとれいちゃんは知っていたのだ。私から向けられる淡い恋心や恋慕を。幼馴染という関係の上であぐらをかいていた私なんて、あっという間に特別の枠から外れてしまうことも。
 次に会えるのはいつだろうか。それはすぐにやってきてしまうだろう。私とれいちゃんを繋ぐ幼馴染という糸が完全に切れてしまわない限り、幼馴染という関係に雁字搦めにされたまま生きていくのだ。
 ようやく幕が降りたのに、あっという間にカーテンコールはやってくる舞台のようだ。まだ気持ちが切り替わらない間に、役者はその仮面を脱ぎ捨て、本来の自分にならなければならない。私はまだ降りたばかりの幕を見つめることで精一杯だというのに、幕の前では共演者が手招きをしていた。カーテンコールは「ただの幼馴染」だと。



140414(莉乃)