utpr fiction | ナノ

 貧乏学生の現実はいつもキビシイ。テレビはないし、立派なソファもありはしない。ネット通販でかったクッションソファだけがわたしの憩いの場所である。背もたれにしているベッドの上にはくしゃりと丸まった雑誌や、迷いに迷い結局着ることのなかった服が並んでいる。ため息が紙幣になったらいいのに。吐き出された見えない息を見つめながらクッションに体を深く鎮めると、ピンポン、とチャイムが鳴った。
 時刻は午後二時。思い当たるフシはある。
 パソコンから流れていた音楽を止め、床に転がっていた好きなバンドのパーカーを羽織って、玄関のドアをそろりと開けた。

「よぉ」
「……はよ」

 言ってから、おはようという時間ではないな、とぼんやり思った。ブリーチで色の抜かれた銀の糸。カラコンなのかもともとなのかわからないオッドアイが、わたしを見つめていた。黒のスキニージーンズが嫌味なくらい似合う男だなと考えて、こいつがアイドルであることを思い出した。最近は冠番組も持っていると、言っていたような記憶がある。蘭丸は自転車の鍵をわたしに見せるけるように持ち上げ、それから「行くぞ」とこれからの行動についてだけ話す。そんなことにも慣れてしまったので、わたしは一応「どこに」と質問をする。すると彼は当たり前のように「馬鹿か」と低く暴言を吐きつけた。

「隣町のスーパーに決まってんだろ。今日は第三金曜、油と卵が破格の日だ」
「そうだよね、うん、わかってたよ」
「じゃあ聞くんじゃねーよめんどくせえな」
「あー、うん、そうですね」

 わかっちゃいる。けれど少しくらい夢見たっていいじゃないか。大学生にもなって浮いた話のひとつもないわたしだって、「もし」とか、そんな夢の様なことを考える時だってある。まぁ、夢の様な、ではなく、本当に夢のまま終わるのだけど。
 彼の荷台に乗ることだって、はじめは緊張しなかった。そういえば、どうしてここに乗るようになったんだっけ。怪我したとか、そんなような理由だった気がするし、ただの成り行きだった気もする。要するにまったく覚えていない。彼へのファーストインプレッションは、「なんだこのいかついヤンキー」だったし、仕方ないかもしれない。あのころはまだ、彼が売れないバンドマンだった。聞こえてくる彼の歌声と、小さなボリュームのギターを聞くことがわたしの日課だった。作りすぎたカレーや煮物を持って行っては、彼の部屋で彼の作る音楽を聴いていた。
 隔たれた壁なんてない。目の前にいるのは蘭丸だけだ。わたしと彼の間はわずか十センチほどなのに、手を伸ばすことも、広い背中に頬を寄せることも許されない。築き上げた信頼関係は、男女を越えた「友情」という皮をかぶっているから、私はその皮を剥ぐことができない。その皮を剥いでしまえば、彼はきっとそこにはいない。ふらりともしない自転車を、蘭丸を、頼もしいと思うと同時に、ひどく憎らしくも思う。ポケットの中に突っ込んだ財布が落ちないように注意しながら、私は空を見上げた。蘭丸は無言でスーパーへと向かう。彼の耳に突っ込まれたイヤホンから流れる声のない音楽が、胸を引っ掻いた。




 スーパーはまさしく戦場だ。小奇麗な格好をした主婦たちが目をかっぴらいて安い肉や卵をカゴに入れていく姿を見ていると、わたしも将来はああなってしまうのだと考えて少しだけセンチになる。二十歳を過ぎた今ですら、結婚する自分の姿の想像すら出来やしないくせに。
 カゴを持つ蘭丸をチラリと見ては頬を染めていく若い主婦たちがうざったい。蘭丸は人間には目もくれず、ただひたすら肉片とにらみ合いを始める。ぶつくさとなにか呪文をつぶやいていると思ったら、どうやらグラムと金額の計算をしているようだ。おそろしい男である。わたしはサイズがバラバラのおかげで格安の卵を二パックと、安いささみを一パックカゴに入れた。今日の夕飯はささみカツにしよう。

「よし、これだな」

 ようやく決めた蘭丸の手元には、豚肉の細切れ。

「今日は肉じゃがにすっかな」
「えー、いいなぁ」

 そう言われると、食べたくなるのが人間という生き物だ。わたしのカゴに入れておいた彼の分の卵を彼のカゴへと移す。彼はそれを当然のように受け取った。「わたしも肉じゃが食べたくなってきたなぁ」小さくごちて、豚肉のコーナーと向かい合うと、隣に立つ蘭丸が「お前の鶏肉じゃねーか」といつもより穏やかな声色で言う。

「ささみカツにしようかと思ったんだけどさー」
「お前そればっかだろ」
「好きなんだもん」
「もん、じゃねーよ」

 腰を曲げた蘭丸が、ささみを手にとった。綺麗なビー玉みたいな、作りモノみたいな瞳がきょろりと動く様子がとても好きだ。彼の目は嘘を吐かない。

「しゃーねぇな。肉じゃが作ってやるよ」
「マジで!?」
「そのかわり明日ささみカツな。あとこれ一パック買ってけ」

 つまり。今日も明日も、彼と一緒に夕飯を食べれるということだ。「明日、蘭丸仕事じゃないの」声が震えないように、高くならないように、いつもどおりを意識して絞り出した言葉に、蘭丸は気づかない。豚肉を選びながら、「明日は雑誌の撮影だけだから、夕方には終わる」と淡々と予定を話始めた。彼の生活が順調に進んでいることを知り、少しだけほっとする。彼をテレビで見ることは出来ないけれど、それでいいのだと思う。
 うすしお味のポテトチップスを見比べながら、どっちがよりお得かと言い合ったり、チョコレートはたけのこかきのこかで喧嘩をしたり。離れていってしまうくらいなら。そんなことになってしまうなら、これでいいのだと、思うのだ。いつでも、毎回、何度でも。言い聞かせるみたいに考える。




 風になびく糸のように細く柔い髪の毛に指をかけてみたいと、彼の荷台に乗るたびに思う。心臓がかゆく、痛いのだ。胃の中にあるものをすべて吐き出してしまいたくなるような、泣いてしまいそうな、変な気分になる。ガタガタと油と卵のパックが騒音を奏でているけれど、それすらも気にならない。蘭丸がいる。それだけがわたしにとって全部だ。
 ポケットからはみ出した、Lと書かれたカナル型の彼の一部が、ぴょんぴょんと揺れる。彼の耳を見ながら、今日は穴があるのだとふと考えた。ピアスという意味ではなく、そのまま、耳の穴があるという意味だ。自転車をこぐときはイヤホンやヘッドホンを装着していることが多いので、今みたいになにもつけていないのは珍しい。おまわりさんに捕まるよと脅しても、彼はネコのようにそっぽを向いてシカトするのに。機嫌がいいのかもしれない。
 白い花びらをピンク色に見せるほど満開だった桜はすべて葉になった。懐かしくもない、ごく普通の光景に見入っていると、がたりと自転車が揺れた。「ぎゃあ」色気のカケラもない叫び声に、蘭丸が「うるせぇ」と小さく唸る。うるさく感じるのは、お前がイヤホンをしてないからだとは言えなかった。そうしたら彼は、本当にイヤホンをつけてしまうからだ。それだけは避けたい。
 今日も明日もバイトは休みだけど、明後日は早番で朝早くから仕事をしなければいけないのだと考えると、憂鬱になる。今日と明日だけ四十八時間になればいいのに。そうしたら蘭丸と長い時間一緒にいられる。明後日のバイトのメンバーを思い出しながら「蘭丸はさぁ、仕事楽しい?」と聞いてみると、蘭丸はぐっと押し黙った。彼が仕事に誇りをもっていることは知っている。ソレに女という生き物が関わることを嫌っているのも。

「……いきなりなんだよ」
「なんでもないけど、」
「けど?」
「わたし、仕事してる蘭丸、見たことないから」

 当然のように、さらりと、嘘をついた。蘭丸は舌を鳴らした。「見なくていんだよ」わりと大きな声で言われ、わたしは先生に叱られたこどものように「はーい」と返事をした。
 たった一度だけだ。彼のアイドルとしての姿を見たのは。
 テレビがないだけで、他にも蘭丸は存在している。雑誌にも、CDにも、どこにでもいる。わたしの隣に、当たり前に住んでいるはずの蘭丸は、みんなのところで生きている。女性誌にインタビューが載っていたとき、わたしは初めてそれを痛感した。そして、痛いほど泣いた。仲のいいアイドルは? 休日の過ごし方は? 理想の女性像は? すべての文字を隅々まで読み、控えめに笑みを浮かべた蘭丸の記事をシュレッダーにかけ、生ゴミと一緒に捨ててやった。後悔したのは、それから一週間後だ。彼の控えめだけれど、確かな笑顔を、あれ以来見ていない。でも、アイドルとしての蘭丸を買う気にはどうしてもなれなかった。万人に向けた笑顔では、虚しさが増すだけだ。
 好きなバンドが音楽番組に出たのに、録画を忘れたとき。レンタルショップに欲しかったCDがなかったとき。そういうときに呆れたように顰めっ面を浮かべて、それでも「しょうがねーな」ってわたしを甘やかしてくれるあの蘭丸が、わたしは欲しい。好きで、大切で、いっそ食べてしまいたいと思うほど。
 空気は穏やかに凪いでいた。伸びっぱなしの毛先が絡まっているのをみつけて、「あー」と濁った汚い声を出した。「今度はなんだ」蘭丸の声は、不思議とトゲのない、春の風のように私の鼓膜に触れた。

「髪の毛切りたいけどお金がなー。もったいないじゃん」
「女なら月一で行け。なめてんのか」
「鬼畜! 知り合いに美容師とかいればね、一番いいんだけど。世の中そんなに甘くないよね」

 足を伸ばして風を浴びるていると、珍しく蘭丸が焦ったように「やめろ、バランス取りづれぇ!」と声を上げた。私はしぶしぶよくわからないパーツの上に足を乗せた。鉄の荷台は、わたしの手の温度でぬるくなってしまった。しっかりとつかまりながら、もしここでわたしがバランスを崩したら。落ちそうになったら。彼は助けてくれるんんじゃないかと考えた。ぐらりと揺れて、そんなところを持っているからだと言って、彼に触れることを許してくれるかもしれない。真っ直ぐ続くアスファルトは、そんな私の妄想を笑うように平で、障害物はなにもなかった。

「切ってやろうか」

 ゆっくりと、けれど速いスピードで桜の木は去っていく。

「私の髪を?」
「おう」

 汗の滲んだ彼のシャツを見つめた。うなじを伝う汗に、彼がどれほど体力を使って自転車をこいでいるかがわかる。安定感も、スピードも、わたしには十分すぎるくらいだ。

「特別にタダで切ってやる」

 弾んだ。きっと今、彼の口角は少しだけ上がっているはずだ。どうしてわたしが後ろにいるときに、そんな表情をするのだろう。真正面から見たかった。全身が熱くなり、汗が滲んだ。やった、と喜んだわたしが、馬鹿みたいで思わず笑ってしまう。目の前の肩甲骨が動く。手のひらにも、額にも、汗が滲み髪の毛が張り付いた。
 妄想は妄想でしかない。彼の部屋にいくたびに意識をする下着も、部屋着も、リップクリームも。ここからなにか発展があるのかと期待してしまう自分が、ひどく愛おしいと思えるほど愉快だった。
 彼の肩甲骨に頬をすり寄せたい。そのシャツを剥いで、浮いた骨に舌を這わせてみたいと、何度も、何回も考える。これ以上の発展はないと断言できる。彼に愛してもらえるのはきっと、わたしじゃない他の誰かだ。その虚無感を埋めるためにわたしは蘭丸ではない他の誰かを使う。似た背格好の、筋肉質な肌を借りては同じ事を繰り返している、蘭丸の嫌いな『女』をやっているわたしのことを、蘭丸は一生知らなくていい。知られたらそれは世界の終わりで、わたしの死だ。
 それでもわたしはやめない。彼の肌に触れる想像を。妄想を、やめられない。手のひらが空気を掴み、蘭丸は変わらずに足を動かした。彼の口ずさむメロディーは、やはりわたしの胸を引っ掻くんだ。
 
13.04.17