君を見つめる | ナノ

 寂しいという感情を自覚したのは、彼女と交際を初めてからだった。
 キセキの世代。天才。変わり者。そんな風にべたべたとレッテルを貼られ、ひとりでいることが多かったせいか、俺は「寂しさ」を感じたことはなかった。もっと正確に、細かく言うのであれば、それが「寂しさ」だとわからなかった。青峰が部活に来なくなったとき。黒子がなにも言わずに退部したとき。高校の先輩たちが卒業したとき。あのときのことを未だによく覚えている。寂しい、というよりも先に納得をして、その感情を塗り替えていた。そうなることが運命だったと思えば呼吸も乱れないし、頭も痛くなくなった。でも今ならあれは寂しさだったと認めることができる。彼女のおかげで。

 彼女が選んだローテーブルや、彼女のお気に入りのカーテン。俺しか住んでいなかったこの1LDKの部屋は、彼女の色が残されている。積み上げられた本の山に、一冊だけ見覚えのない本が重なっていたり、緑色の歯ブラシに寄り添うように置かれたオレンジ色の歯ブラシだったり、彼女がここにいるのだという証拠がいたるところに存在している。床に脱ぎ捨てられていたスキニーデニムに足を通し、クローゼットからパーカーを取り出した。チャックが肌に触れて冷たいが、じきに慣れるだろうと薄着のまま温められたリビングへと向かう。
 テーブルの上に置かれたメモに従い、冷蔵庫の中からサンドウィッチを取り出した。これは彼女が昨日作っておいてくれたやつだ。「コーンスープを作ったので、温め直して食べてください」。抜けきれていない敬語に少しだけくすぐったさを感じながら、言われた通りにコーンスープを温めた。
 時計を確認すると、まだ午前十時。休講になったから、今日は有意義に時間を使える。一限からの彼女にはだいぶ羨ましがられたが、仕方がない。
 食器棚から赤いスープボールを取り出して、ふつふつと音を立てるコーンスープを注いだ。ご丁寧にクルトンまで用意されている。三つほど乗せると、彼女がいつも作ってくれるものと同じに出来上がる。

「いただきます」

 彼女の手紙を端にどかして、コーンスープとサンドウィッチを置いた。テレビのリモコンへと手を伸ばして、代わり映えのないニュースを聞き流しながら完食する。
 牛乳がないことを、牛のニュースを見ながら思い出した。近くのコンビニまで買いに行こう。彼女はカフェラテが好きだから、きっと切らしていると文句を言われてしまう。ここは俺の家なのだが、彼女はお構いなしだ。けど、それが嬉しい。俺の家に止まるのは週に何度か、決まっているわけではない。会えないときは二週間会えないときもある。今回は連泊するみたいで、俺は少しだけほっとしている。彼女のいないときほど、この部屋の広さを呪ったことはない。はじめはひとりで住んでいたのに、今はそれが思い出せない。どんな風に時間を過ごし食事を取っていたのか。
 服を脱ぎ捨てて、クローゼットの中から衣服を引っ張りだした。エアコンとテレビを消して、コートを羽織った。財布と携帯だけポケットに詰め込んで、戸締りや火の元の確認をする。これも、彼女から口うるさく言われたことだ。一人暮らしなんだからしっかりてくださいと、なぜか母のように怒られた。
 玄関に腰を下ろすと、そこには俺の靴と一緒に彼女の靴も並んでいる。お上品に並べられたその黒のハイヒールに、なぜだか釘付けになる。いつもこんな高いヒールを履いているのか、と感心してしまう。それも自分のためだと知っているからこそ、危ないとも言えない。
 入るわけもない。だから、入れなければいい。そう思った。
 細いフォルムのそこに足を乗せた。足の甲が反れ、本来踵を載せる部分には土踏まずが乗っている。つま先に指を引っ掛けて軽く持ち上げると、そこにはつぶれた哀れな靴と、不釣り合いの自分の足。これはきっと、帰ってきたら怒られる。

「……まぁ、買えばいいか」

 自分の足にぶら下がった黒いハイヒール。
 早く帰ってこい。彼女の怒った顔が見たい。どうして彼女は休講じゃないのだろう。お前がいれば、お前の私物にまで欲情しなくても済むのに。色あせたハイヒールを、そっと撫でた。

13.02.04 / ハイヒールを踏み鳴らす