くそったれ、虫歯が痛い | ナノ

 バスケ部のミーティングの日、私は灰崎にメールをした。屋上にて待つ、とだけ書いたメールに、灰崎は律儀に返信をくれた。「果たし状かよ」という的確なツッコミに、私は少しだけ笑った。こういうところが、好きだ。友人として、だけれど。自分の上唇を撫でて、携帯を閉じた。唇の感触は、まだ残っている。
 三年間というのはあっという間に過ぎていくものだと担任は言っていたが、本当にそのとおりかもしれない。私たちはもう、“ここ”まで来てしまった。青々とした木々が大きく揺れているのを見て、これを見れるのも今年で最後なんだよなぁ、なんて柄にもなくセンチメンタルな気分になる。
 がちゃりと屋上のドアを押し開けた。

「はーいざーきくぅん」

 私の声に、銀色の男は舌打ちをした振り返った。口にはペロペロキャンディーが加えられている。「煙草かと思った」と言いながら彼の隣に立ち、フェンスに寄りかかる。彼は校庭を見下ろしながら「吸ってねーよさすがに」と私の横腹を殴った。痛いイタイとその部分を掌でこすりながら灰崎の足を踏んだ。

「今日さぁ、カラオケ行きたい気分」
「俺の所持金ひゃくごえん」
「カスじゃん!」
「うっせー殺すぞまじ!」

 春の風が髪の毛を弄ぶ。灰崎の銀髪は、根本を少しだけ黒くしていた。ああ、やっぱり脱色だったんだ、とぼーっと黒髪の部分を見つめた。流れるように動く髪を耳にかけ、目下に広がる校庭を睨むように見ていると、そこをカップルたちが通行していく。腕を組み、手を握り、あるいは一定の距離を保ちながら歩いて行くカップルを指さした。

「リア充爆発」
「妬んでんじゃねーよブス」
「非リアでヤリチンの灰崎に言われたくない」
「作らねーだけなんだよ!」
「はいはいお疲れ様」
「イチイチうぜーなお前」

 別に羨ましくもない。妬ましくもない。彼氏が欲しいなんて思ってもいない。あれから黄瀬とも、うまくいっていないから。青峰が練習に来なくなり、他のみんなも才能が開花してきた。黄瀬も、その一人だ。入ってきた時とは違う目つきが、私はすごく苦手だった。楽しい? って聞いても、頷くだけの黄瀬が、苦手だった。緑間も赤司くんも紫原も、みんな。クラスメイト達に、最近また体育館に幽霊が出るようになったと聞いた。その噂は、私の心臓に傷をつけた。枯れた涙は出ないので、「それは怖いね」と笑っておいたのだけれど。
 頭上に広がる空は青く、雲がちぎれて漂っている。灰崎はボリボリと飴を噛みながら、その空を眺めていた。フェンスの縁に膝を置き喉を逸らし上を向いている姿は、落ちていきそうで、少しだけ怖くなる。

「落ちるよ」
「は?」
「後ろに落ちるよ、その体制」
「そんなボケてねーよ」
「……わかんないじゃん」
「わかるっつーの」
「なんで」
「なんでもクソもねーよ、落ちねーんだよ」

 ケッ、と笑った灰崎に、私はぐっと言葉を止めた。辞めさせられることも、わかってたの、なんてきけるわけがなかった。

「明日はお金持ってきてよ」

 その言葉に、灰崎は空ではなく私を見た。灰色の柄の悪い目が、見開いた。

「は?」
「カラオケ行こう」
「なに言ってんだテメー、明日は」

 ざぁ、と大きな風が吹いた。砂埃が目に入ったらしい灰崎は口を閉じ、固く瞼を閉じた。私はその光景に笑った。灰崎が「笑うんじゃねーよ!」と怒鳴った。ごしごしと目をこする灰崎は、歳相応の少年に見えた。笑いが溢れて口から漏れる。

「馬鹿だなぁ」

 どいつもこいつも、本当に馬鹿だ。



「辞めるよ、部活」

 退部届にしっかりと名前を書いて赤司くんの目の前に差し出すと、将棋を見つめていた横顔がぐりんと私に向けられた。眉間に寄せられたシワを数えようかと思っていると、彼は大きなため息を吐いた。私達以外にいないミーティングルームは、贅沢なほどに広い。きちんと椅子に座っている彼の前に立つと、彼は首を横に振った。

「受理しないと言ったはずだ」
「なんで?」
「もうすぐ引退だ。今じゃなくてもいいだろう」
「わかってないなぁ、赤司くん。馬鹿なの?」

 私の挑発的な発言に、彼がピクリと眉を動かした。シワはより深くなり、まっすぐな瞳は私を射抜く。「馬鹿?」。小さく吐き出された言葉は小さく低い。機嫌の悪さがびりびりと伝わり、思わず苦笑いを浮かべた。

「今じゃなきゃダメなんだよ。三年になったから、もう辞めたいの」
「理解に苦しむな」
「求めてないよ、君の理解は」

 わかってもらおうなんてこれっぽっちも思ってない。むしろ、わかってもらいたくもない。置いて行かれるものの気持ちが。好きなモノが消えていく虚しさや悲しさが、わかるわけがないのだ。赤司くんは置いていく側なのだから。

「辞めさせてよ、もう、」
「名前」

 この数年間一緒に過ごしてきて、初めてだ。彼が私の名前を呼んだのは。続くはずの言葉が喉の奥から出てこない。目の前に座っている一人の少年が、腕を組んで私を見上げている。

「……灰崎が好きなのか」

 その問いは、もう使い古されたものだ。私は何度だってそれを投げつけられるたびに、丁寧に折りたたんで捨ててきた。私は首を横にふる。

「好きじゃない、でも、あいつは私の友達だから」

 すんなりと言葉になった答えに、赤司くんは目を閉じた。無言は肯定の意を示す。私の退部届は、静かに受理されたのだ。

13.03.09