くそったれ、虫歯が痛い | ナノ

 季節はめぐり、冬になった。青峰は、すっかり部活に出てこない。他のキセキのみんなも、変わっていく。黒子くんだけはただ一人変わることなく、部活に出ていた。彼の憂いを帯びた表情を見る機会が、増えていくのが苦しかった。辞めてしまいたかった。それでも、黒子くんのことを放っておくこともできなくて。私はただ、黒子くんの隣で笑った。崩れかけの笑顔で、彼の肩に手をおいて。「きっとだいじょうぶ」と、確証も保証もない無責任な言葉で、彼を支える。私は、それが苦痛だった。それでも、その言葉に救われるのだ。きっと黒子くんもそうなのだろう。彼は私の言葉に、無言で頷くから。
 私もいつか、と思い担任から貰った退部届は、名前すら書くことなく、バッグのそこに沈んでいた。それから、進路希望調査も。あと一ヶ月もすれば、三年になる。高校のことなど、なにも考えられない。書かなければならないと思えば思うほど手は重くなりペンから遠ざかる。私はペロペロキャンディーを歯で砕きながら、屋上への階段を登っていく。生足を撫でる風が嫌になるほど冷たくて、鳥肌が立つ。ドアを開けると、そこには懐かしい頭があった。

「……灰崎クンじゃん」

 私の言葉に、フェンスに寄りかかっていた灰崎が目を見開いた。

「てめ、なにやってんだ。今授業中だぞ」
「そのセリフ、バッドで打ち返してやるわ」

 よっこらせ、と彼の隣に腰をおろして、膝を抱えた。そして、ああ、やっぱりと思う。

「落ち着く」
「は?」
「灰崎の隣は、やっぱり落ち着く」

 ぎゅっと膝を抱え、顔を伏せた。おでこにくっつけた膝のつめたさに、冬を感じた。灰崎は「キモイこと言うな」と言いつつ、私の頭をガシガシと撫でた。不器用な優しさに、胸が痛い。

「私さぁ」
「おう」
「灰崎のこと、さ、友達だと思ってんだけどさ」
「おう」
「いないとさ、寂しいんだよ、部活、……寂しいよ」

 脈絡のない言葉に、灰崎は笑うこともしなかった。私の髪をぐしゃぐしゃにしていた手の動きを止めて、私の頭に手を乗せたまま。
 灰崎はきっと、バスケのことが好きでも嫌いでもなかったのだろう。これは本人にも聞いてないからわからない。けれどきっと、楽しかったのだろうと、思う。私にはなにもわからないけれど、部活中のあの笑顔は、信じたいのだ。休むこともなかった。遅刻はしても、喧嘩はしても、灰崎は部活を休むことはなかったのだ。
 灰崎は頭を強い力で掴んだ。

「しらねーよ、んなもん」
「ひっどぉ……てか、痛い」
「顔あげろブス、泣くともっとブスになんぞ」

 そう言うと、灰崎は私の頭をぐいっと引っ張った。素直に顔を上げて横を向くと、仏頂面の灰崎が私を見ていた。

「ブッサイク」
「うるさ、」

 灰崎はほんの少しだけ笑って、私の頬を撫でた。そしてゆっくりと顔を近づけた。音もなく、そっと合わさった唇に思わず目を見開いた。近くで見た灰崎のまつげは、黒く長かった。伏せられた瞼を凝視していると、キスが終わった。

「……え、なに」
「泣いてる女黙らす方法なんて、これしか知らねーよ」
「……え、ファーストキスなんですけど?」
「それこそ知らねーよ!」

 灰崎は舌打ちをした後、「もうしゃべんなブス」と言って、私にもう一度キスをした。お互いに恋愛感情のない、ただの戯れだった。触れたカサカサの唇が男らしくてすこしだけときめいてしまったことは、人生の汚点になるかもしれない。



 部活の後、黄瀬と帰ることが日課になっていた。二人でパピコを買って、歩いて帰る。わたしの家の近くまで送ってくれる黄瀬に、笑顔で別れを告げることも慣れた。今日もパピコを半分にして、黄瀬に渡す。歩きながら部活の話をして、笑って。何事もなかったかのように。今までもそうであったかのように、帰るのだ。

「名前っちはさ、部活楽しい?」

 にっこりと、雑誌で見るような綺麗な笑顔を貼り付けた黄瀬が言った一言に、私は少しだけ喉をつまらせた。「楽しいよ」。なんて、思ってもないことを言った。黄瀬はそれに気がついているのかいないのか、不服そうな顔をしながら「そっか」と言った。
 実際、楽しくはないのだ。青峰は練習にあまり顔を出さなくなったし、灰崎はいなくなった。こうやって、灰崎の代わりに黄瀬と帰っている自分ですら“つまらない人間だな”と思う。それくらいには、もう、バスケ部に愛着がない。それでも辞めないのは。辞められないのは、楽しかった記憶が脳にこびりついてしまっているからなのだろう。胸を焦がす勝利の美酒も、分かち合った喜びの価値も、私は知ってしまった。離れない。だから、またそのときがくるのを待っているのだ。だからバスケ部にいたいと思いながら、自分を傷つけている。

「黄瀬は楽しい?」

 私の問に、黄瀬は少しだけ目を細めた。

「うん、楽しいよ」

 その顔は、やけに涼しげで、穏やかだった。けれどどこか寂しそうで、憂いを帯びている。これだったら、灰崎の「嫌いだ」とバスケを嫌悪する物言いのほうが、よっぽど楽しげだと、私は思った。私はパピコを一気に吸い上げた。胃を通る冷たさに少しだけ肩を震わせながら、ゆっくりと歩いた。
 私は言える。まだ、バスケが好きだと、言える。

13.03.09