くそったれ、虫歯が痛い | ナノ

 天才、と呼ばれる一握りの存在。その中に、確かに灰崎の姿もあったのだと、私は思う。
 傷だらけになった灰崎に、私は言葉を失った。放課後の中庭。部活に来ない灰崎を呼んで来いと赤司くんに命令された私は、そこに広がっている光景に思わず息を呑む。私の存在に気がついた灰崎が、くるりと振り返って眉間にシワを寄せた。

「灰崎」
「……なんだ、名前、赤司に回収役押し付けられたか」

 傷だらけの灰崎。そして、その周りにいる、複数の人間。そしてソレは、灰崎以上に傷だらけで、ボロボロで、気を失っていた。ごくり。溢れ出る唾液を嚥下して、私はもう一度、小さな声で彼の名前を呼んだ。だけど、彼は。灰崎は、ゆっくりと私の元へと歩いてきた。まだ明るい、青空の広がる時間。それなのになぜがすごく寒くて、寒くて、私は死んでしまいそうだった。ひゅうひゅうと声帯が悲鳴をあげ、身体が震えて動かない。まぶたを閉じることすら出来ず、白いブレザーについた血液を、じぃっと見つめた。

「灰崎」

 震える声帯から声をひねり出すと、それは思っている以上に間抜けで、弱々しい音だった。私が傷つけられたような、そんな声だった。彼は私の目の前に立つと、私をそっと抱きしめた。ひゅっと自分の息を吸うおとに、少しだけ驚いた。背中に回された腕は太くて、たくましい。さっきまで、そこにいる人間をねじ伏せた腕。

「なんでおめーが泣いてんだよ」

 灰崎はそう言って、笑った。なんで笑ってられるの。なんで、私が泣かなきゃいけないの。言いたいことはもっともっと、たくさんあった。でも私は、ただ泣くことしか出来なかった。なぜ泣いているのかもわからなかった。それでも、きっと、彼のために泣かなきゃいけないのだと思ったのだ。決して泣くことがない彼の“未来”のために、私が代わりに泣いてあげるのだ。

「は、い、ざき」
「……泣くなよ」
「はい、ざきぃ……」
「ブスがもっとブスになんぞ」
「くそ馬鹿、やろう……」
「だまれクソアマ」

 彼の背中に自分の腕を回して、しっかりと抱きしめた。穏やかにしゃべる灰崎は、なぜか、肩の荷が下りたような、そんな落ち着きがあった。私はそれがたまらなく嫌で、同時に少しだけ、嬉しかった。

「……ばか灰崎」

 私の言葉に、灰崎は何も言わなかった。涙はいつの間にか止まっていた。乾いた頬が突っ張る。私たちは、行かなければいけない。彼の、最後の部活に。



 赤司は口元をバインダーで隠し、傷だらけの灰崎と私をじぃっと見つめた。灰崎は何もかもを受け入れる覚悟が決まっているような顔だった。ミーティングルームでベンチに座っている赤司くんの前に立ち、私はずっと俯いていた。彼の目が見れない。彼は座っているはずなのに、どうして頭の先から見下されているような気分になるのだろう。心臓を握られているようだ。赤司くんはゆっくりと足を組み、灰崎を見上げた。

「灰崎、説明しろ」
「……俺が昔取ったオンナの元彼に喧嘩ふっかけられて、複数だから手加減できずにボコっちまった。今も中庭で伸びてんじゃね」

 しれっと状況を説明した灰崎に、赤司くんは思わずため息をついた。それにびくりと肩を震わせれば、灰崎はすんと鼻を鳴らす。

「……お前もわかっているんだろ」

 俺の言いたいことが。
 赤司くんは、灰崎の顔を見つめる。顔をあげると、一瞬だけ赤司くんと目が合い、背が震えた。彼は小さく息を吐いて、いつもと同じ落ち着いた声で言う。

「……お前には退部してもらう。いいな」

 この瞬間、灰崎は、帝光中学校バスケ部を退部させられた。私も灰崎も、泣きもわめきもせず、ただ小さく笑っただけ。こうなったほうがよかったのかもしれないと、そんなことすら思った。

 灰崎を退部させたことにより、男子バスケットボール部にかかる負担はなくなった。教師たちは「退部したのなら問題はない」と、それ以上なにも言わなかった。部活はいつもどおり行われ、練習試合も滞り無く行われた。なにも変わらない。変わったことといえば、ここに灰崎がいないこと。それから、スタメンが黄瀬になったこと。それだけだった。私はいつもどおりスポドリを作り、データをまとめ、タオルを洗った。あの日から一ヶ月。灰崎には、一度も会っていない。そして、私たちは全中二連覇を成し遂げた。

13.03.09