プラトニック・キネマ | ナノ

 駅のベンチで待ち合わせをして、手をつないで、途中にあるコンビニに寄る。今日の部活はどうだったとか、監督が怖いとか、愚痴のようで実はただの日常風景を面白おかしく話してくれる。お菓子の列と向い合って、今日はどのポテチがいいかと言い争う。パートのおばさんは、それをくすりと笑いながら見守ってくれるのだ。

「今日はのりしお!」
「えー、俺コンソメの気分」
「私コンソメ好きじゃないのにー」
「知ってて言ってる。いいじゃん二個買えば」
「よっ、太っ腹」
「割り勘だっつん」

 店員さんにも顔を覚えられるほど通った。毎週同じ時間に二人で。ビニール袋は、絶対に彼が持っていた。手をつないで、影が伸びる帰り道を並んで歩いた。もうなんどもそうやって繰り返してきた。たまに夢にだって見るほど、あの光景が好きだった。かけがえのない宝物だった。
 秋の風を嗅ぎながら、今日の夕飯を予想する。カレー、肉じゃが、生姜焼き。もしかしたら秋刀魚かもしれないと笑いながら。そうやって毎日を繰り返してきた。




 彼女は生きていない。
 目の前のディスプレイに映し出された彼女の年齢と日付。三年前の出来事だ。彼女はこのとき、23歳だったらしい。新聞紙にも大きく報じられたこの交通事故の被害者は、中山美緒と、はっきり書かれていた。
 目の前が真っ暗になる、というのを生まれてはじめて体験した。そんなことはないと新聞やネットを見るたびに、嘘だと思っていたものは真実という姿で自身の前に現れる。氷室はディスプレイから手を離し、もう何度も読んだ文面をまた最初から読み返した。
 中山美緒。23歳。
 手のひらの温度が失われていく。目の前にいるのはたしかに、高校生の格好をした、美緒だった。

「そっか、調べたんだね」

 今日はピンク色のマフラーだった。氷室は目の前で座ったまま動こうとしない彼女をただ見つめた。唇は寒さで震え、声が出せない。彼女だけは、そうではない。

「三年前、ちょうどこのくらいの時期だったかな。無免許運転の男子グループに横から突っ込まれたのよ。もともと見えづらい十字路だったんだけどね、焦ってブレーキとアクセル、間違えたんだと思う」

 もう何度も見た文章だった。なんども口に出して読んだ文章。彼女はピンクのマフラーに顔を埋めて、立ったままの氷室を見上げた。

「座りなよ。君は背が高いから、首が疲れる」

 いつものように、彼女の隣へ腰を下ろした。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、いないなんておかしい。あきらかな矛盾だ。
 君は死んでいるんだね、と、ストレートな言葉にも彼女は動揺を見せなかった。ただいつもと同じように彼の顔を見て、ひとつ頷いた。氷室はこの一週間、ずっと、彼女のことを考えていた。そして彼女のことを調べていくと、ある疑問にたどり着いた。どうして俺には見えるのか、ということだった。彼女はピンクのマフラーを外して、ベンチへ置いた。氷室との間に境界線が作られる。

「弟に会ったよ」
「ああ、ジュンタに会ったんだ。元気?」
「元気だよ。今日、一緒にミニゲームをしたんだ」
「そっか……よかった」
「……聞いてもいいかな」
「答えられることなら」
「ここで、誰を待っているの」

 先週とまったく同じ確認と、了承と、質問だった。氷室は彼女の顔が見れない。どんな顔をしているのか考えるだけでも苦しくて、辛かった。頭のなかを回る質問は氷室の心を締め付けていく。どうして、白い肌に触れられないのだろう。

「元彼だよ」

 その答えに傷ついたこと自分に、なによりも傷ついた。黙り込んだ氷室に、美緒はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「高校を卒業して、彼は上京した。そこで別れたんだ。でも、連絡とかはマメにしてたんだよ。まだ好きだったからさ。彼の方はどうか知らないけど。それで、こんど東京に行ったら会おうって、約束してたんだ。そしたら私、事故にあったんだよ」

 氷室は顔をあげようとしない。手を組んだまま、ただひたすらひび割れたコンクリートを睨みつけていた。

「ここね、私の家の最寄り駅なんだ。高校の時は、ここから家まで、彼と歩いて帰ったよ。途中にあるコンビニでジュースを買って、手をつないで。彼の部活が終わるの、いつも私がここで待ってたんだよ。黒髪の、ちょっと前髪が長くてね、そんなにイケメンではなかったけど、男前な人だった。ああ、性格とかがね?」

 顔を挙げない氷室を見ながら、名前は続ける。

「君がこの駅に降りたとき、『ああ、来てくれたんだ』って思っちゃったの」
「……元彼が?」
「うん。背はもうちょっと低かったし、氷室くんみたいに美人じゃなかったけどね。電車から降りて、改札を出るとき、ちょっと目が合っちゃったの。氷室くんはわからないと思うけど。あーやばいなと思って慌ててうつむいてたんだけど、まさか見えるようになっちゃうなんて」

 昔、彼と同じように降りてくる黒髪の男を見て、期待を抱いてしまったのだ。あれから何年も経って、もうここにはいないのに、まるであの頃のように私の元へ来てくれたのだと思い込んでしまった。何回も繰り返した行為のせいで、美緒の時間は高校の時で止まったままだった。
 誰にも見つからなかった。けれど、氷室にだけは見つかった。というより、見つけて欲しかったのかもしれない。いい加減、ここから離れなければならないのだ。変わっていく人たちを見ながら変わらない日を繰り返すのは、苦痛でしかないのだ。でも自分ひとりでは動くことも出来なかった。怖いかった。もう一度死ぬことが。
 心臓に悪い、踏切の音が聞こえてきた。あの時と同じ。立ち上がった美緒が、ベンチに置いたピンク色のマフラーを首に巻く。その光景に思わず目をむいた。

「行こう、氷室くん」
「行くって、君も? 電車に乗るのか?」
「君は上り。私は、下りに乗る」

 氷室も立ち上がり、床に置いておいたエナメルバッグを肩にかけた。
 改札をくぐったあと、彼女はゆっくりと歩いて氷室とは反対のホームへと向かう。氷室はその様子をじっと見つめながら、渦巻く感情の波を沈める努力をしていた。怒りでもあるし、悲しみでもあるその波は大きく揺れ、身体を震わせる。
 マフラーを巻いた彼女が、大きく口を開いた。

「何も言わずに聞いて。氷室くんは、ただ聞いていて」

 別れの挨拶だと誰が聞いてもわかるようなセリフを吐いて、彼女は笑う。

「いろいろ言いたいことはあるんだけど、やっぱり、ごめんねっていうのが一番大きいかな。巻き込んでごめんね。それから、こたえられなくてごめん。でも、わたしは。私は、氷室くんに会えてよかった。最期に会った人があなたで、よかった。だから、ありがとう。ありがとう、」

 滑りこむ電車。踏切の音はいつの間にか止んでいた。
 彼女の口は、なんと動いていたのだろう。
 名前を呼ぼうと開いた唇を、小さく動かす。音にすることなく、そっと彼女の名前を形どるけれど、彼女はもういなかった。氷室はそこにいるはずだった電車の中をじっと見つめたあと、後ろを振り返った。待合室には、もう誰もいなかった。氷室は、一人、駅のホームに立たされていた。

13.04.09