プラトニック・キネマ | ナノ

 いつもよりも短い睡眠時間がいけなかったのだろう。がたりごとりと揺れる電車に、温かい暖房が身体を包み込めば、そこは自分の部屋のように居心地がよく、すこし硬い座席すら気にならなくなってしまう。
 田舎の電車というのは、本数が少ない。それなのに乗っている人の数も少ないのだから驚きだ。時間帯ということもあるのだろう。今日は午後錬のない日で、いつもよりも早くこの電車に乗ることができている。ぽつりぽつりと見える人の頭の数を数えながらなんとか意識を保とうとするが、その行為は無意味に等しい。船を漕いでいると、ふと見慣れた光景が窓の外に映しだされ、氷室は慌ててエナメルバッグを掴んだ。
 周りを見渡して、気がついた。ここは、自分の降りる駅ではなかったことを。

「……参ったな」

 確かに風景、駅の雰囲気などは似ているが、ここはまったく別の駅だ。寝ぼけて電車にのっていると、こういうことがあるから面倒だと思う。というよりも、自分の不注意なのでこの気持は自分のなかで消化しなければいけないのだが。
 氷室はバッグを肩にかけ、大人しく改札を出た。無人、だ。氷室はこういうときに、日本がいかに平和な国であるか思い知らされる。ポケットに入れていた定期を出すことなくするりと出ると、待合室のような空間に、一人の女性が座っていた。
 何も持たず、ただ座って自分の手元を見ているその女性に、氷室はゆっくりと近づいていく。チェックのマフラーに、キャメルのダッフルコート。どこかの制服なのだろうか、黒のプリーツスカート。色白で、目鼻立ちのくっきりとした人、だ。服装からして同年代くらいなはずだか、氷室はなんとなく自分よりも大人びていると感じた。まとう空気が、同年代とは少しだけ違うのだ。

「……隣、いいですか?」

 顔を上げた女性は、綺麗な目を大きく開いて氷室を見た。氷室はその表情に少しだけ驚いた。今まで頬を染められたことや叫ばれたことはあるが、こんな風に神妙な顔をされたのは始めてだった。あの、と声を出せば、彼女ははっと我に返り笑みを浮かべた。

「えらくイケメンだなぁと思って、びっくりしちゃった。私の隣でよければ、どうぞ」

 くたびれた駅には、ベンチがいくつかあるけれど、このベンチが一番綺麗で風が当たらない。氷室は一言お礼を言ってから、彼女と少し距離を保ちつつ腰を掛ける。ぎぃと鳴いたベンチに、うっすらと笑みを浮かべる彼女が、なんだかひどく遠い世界に来てしまったような錯覚を起こした。目の前にある券売機を見つめながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
 改札の向こう側に見えるホームには、誰一人いない。周りから人の声、車の通る音すら聞こえない、なんだか本当に、遠いところまで来てしまった気分だ。氷室は隣に座っている女性の横顔を見た。いつからいるのだろう。彼女はなぜ、さっきの電車に乗らなかったのだろう。

「あなたは、どうしてここに?」

 口をついて出た質問に、彼女は視線を上げて氷室を見た。

「……待ち合わせ」
「なるほど。ここで?」
「そう。相手がすごく、時間にルーズでさ」
「へぇ、そうなんだ」
「ところで、君は高校生? 大人っぽいね」
「そう? 君には言われたくないけど……君は?」

 いくつなの? という意味を込めて首を傾げれば、彼女は数回瞬きをした後に、クスリと笑った。

「いくつに見える?」
「同じくらいかなぁ、とは」
「じゃあ、そうだよ」
「……適当だな」
「秘密ってことよ」

 人差し指を唇に当てていたずらに微笑むと、彼女はそれ以上はなにも言わなかった。氷室はなんだか不思議な気持ちだった。同級生でも年上でも、年下でも、彼は“特別視”されることになれていたし、そういう女子が多いものだと思っていた。けれど彼女はさらりと会話をし、じっと目を見て話す。それは氷室にとっては“普通”ではなかったし、新鮮なものだった。そしてなにより、大人びて見えた。きっと恋人を待っているのだろう、その表情は華やかで綻んでいる。
 彼女が自分の手の甲を見つめながら、「変わってるって言われるでしょう」と言う。氷室はそれになんと言えばいいのかわからず、首をひねった。

「そうでもないと思うけど……どうして?」
「なんとなく。雰囲気っていうのかな」
「それなら、君のほうが変わってる」
「えー、そうかな」
「うん、そうだよ」

 変わり者だ。少なからず氷室はそう思った。廃れた駅に置かれた錆びた置き時計が、ちくたくと時間を進めているのを見ながら氷室は話題を探した。彼女の言葉をもう少し聞いてみたくなったのだ。

「ねぇ、君の名前は?」

 そして出来れば、これからも話してみたいと思った。惹かれてしまった。白くきめ細やかな肌を見つめながら彼女の名前を待った。彼女は一拍置いてから、穏やかに声を紡いだ。優しく、女性らしい声だ。

「中山美緒。あなたは?」
「氷室辰也。タツヤでいいよ」
「なら、私も美緒でいいよ」

 光は宿っているのに、それ以上なにも映し出されない瞳が不思議だった。どこぞの天才のような眠たげな目を毎日見ているからだろうか。
 心臓に悪い、踏切の音が聞こえてきた。けたたましく鳴り出したそのアラームに、氷室は内心舌を打ちながら光るライトを睨み上げた。

「ほら、もう行きな。乗り過ごすよ」
「あぁ、うん。ありがとう」
「どういたしまして」

 彼女は手をひらひらと振り氷室を見送った。ポケットから定期を出すことなく、改札を出た。無人の駅にひとりぽつんと、中山美緒は取り残される。シンプルなブレザーと、バッグに書かれた「YOSEN」の文字だけが頭の中に浮かび上がる。電車がホームにとまり、ドアがあく。

「ヨーセンかぁ」

 ぽつりとこぼした言葉を拾い上げてくれる彼はもういない。電車が走りだした。

「変な子」

 見えない片目と、やけに似合っていた泣きぼくろ。艶やかな黒髪。彼女の頭の中には、今、氷室辰也ただ一人しかいなかった。彼女はいつもと同じように、立ち上がった。誰もいなくなった駅で一人、大きなため息を吐いた。




 中山美緒を知っていますか、と聞いてきた後輩に、岡村も福井も顔を見合わせた。彼の名前から特定の女性の名前が出ることはすごく珍しいことだった。出てくるとすれば、師匠だというアレクサンドラの愛称か、監督の名前くらいである。いつもよりか楽しそうに見えるその綺麗な顔を見ながら、二人を首を横に振った。

「わしゃあ知らんぞ」
「俺も知らねーぞ。誰?」

 氷室は苦笑しながら、俺もよく知らないんです、と言った。遠くの方から、紫原の菓子について怒る監督の怒鳴り声が聞こえてきて、それに反応した氷室はそっちへと走っていった。疑問だけを投げつけられもやっとしたものだけを与えて去っていった男前な後輩を睨みながら、福井は「なんだあいつ」と岡村に聞いた。

「さぁな」
「俺らに聞いてくるってことは、俺らなら知ってるかもって思ったってことだろ?」
「そういうことじゃな」
「中山美緒……聞いたことねぇなー」

 腕を組み記憶を引っ掻き回しているが、そんな人間まったく知らない。いくら狭い田舎だとはいえ、同じ世代の人間を全て把握出来るわけでもない。短気な福井はすぐに考えることを放棄し、岡村の腕を引っ張り練習を再開した。こんなことに頭を使うなら、フォーメーションの一つでも考えたほうが有意義である。
 氷室は紫原の機嫌をなんとか持ち直そうとしつつ、頭の中では中山美緒のことばかりを考えていた。彼女はいったい、どこの学校に通っている子なんだろう。待ち合わせと言っていたけれど、いつもあそこにいるのだろうか。隔離されたようなあの空間が、なぜだか恋しいのだ。
 オレンジ色のボールが飛び交うコートを見つめながら、氷室は溢れそうになる笑みを抑えた。

「室ちん、なんかいいことでもあったの?」
「え?」
「今日やけにテンションたけーし」

 長い前髪がうっとうしいのか、紫原は眉間にシワを寄せてそれを掻き上げた。髪の毛を持ち上げるとおでこが露出し、その部分だけ涼しくなる。氷室は指でくるくるとボールを回しながら、コートを見ていた。

「うーん、どうだろう」

 氷室が“底”を見せないのは今に始まったことではないし、紫原は別にそのことにたいして興味が有るわけでもなかった。ただ機嫌がいいなら、それに越したことはないと思っているが。氷室に対して感謝もしているし頼りにもしているから、兄のようだけれど、ときどきすごく面倒だと思う。
 バッシュのスキール音、掛け声、ゴールの揺れる音。いつもと変わらない練習風景だけど、氷室にはそれがいつもよりクリアに見えた。頭が冴えている。紫原は彼にバレないようにこっそりとため息をついた。氷室は笑っている。

「アツシ、1on1しないか」
「えー……めんどい」
「そう言わずに」

 なにが原因か知らないが、勘弁してほしい。食い下がる氷室に折れ、結局紫原は兄貴分の面倒をみるはめになるのだ。今度はわざとらしく大きくため息をついた。帰り道にコンビニで新作の菓子を買ってもらうことにしようと、勝手に約束を取り付けた紫原は、氷室よりも先にコートへと足を踏み入れた。

13.01.02