目を覚ませばあなたがいる | ナノ

 小学六年生で、お姉さんとお風呂に入っている男の子はどれくらいいるのだろうか。考えたところで答えが出るわけではない。けれど、きっと、いないのだろう。楓はプラスチックで作られた椅子に座りながら、そんなことを考えた。ましてや楓も中学二年のれっきとした“女性”だ。弟と風呂に入ろうと思えるような年齢ではない。けれどそれは、楓と真太郎にとってはどうでもいいことなのだろう。彼にとっては楓が全てで、彼女にとっても真太郎が全てなのだから。
 楓は目の前に広がる泡だらけの髪の毛を洗うために手を動かす。すると、向い合って座っていた真太郎がパチンと目を閉じた。

「姉さん」

 風呂場に反響する声は、出会った時よりも低くなってきているのがわかる。ああ、もうすぐ声変わりするときね、と楓はまるで親のようにうれしくなるのだ。身長もすっかり大きくなり、もう楓と変わらないくらいである。男の子との成長期とは恐ろしいのね、と小百合が笑っていたのはつい先日の出来事である。もともと柊二が背丈のある人間だ。そっくりそのまま受け継いでしまったのだろう。前のお母さんの陰を残すことなく、父親の遺伝子を、濃く。楓は彼のクロムグリーンの髪の毛を泡だらけにしながら、それでよかったと思った。

「なぁに、真太郎」

 まるで歌うように名前を呼ぶと、彼はかたく瞼を閉じて「目にあわが入ったのだよ」と言う。それは一大事だわ、と言い、シャワー出す。じっと動かない真太郎の髪の毛をぬるま湯で洗い流しながら、「シャンプーハットでも、買おうか」と提案してみせる。真太郎は「そうするのだよ」と、声を弾ませた。

「泡が目に入ると痛いし、それに姉さんの顔が見れないのだよ。だからつまらない」
「あら、いつもわたしの顔を見てたの?」
「見てたのだよ」

 得意げに胸を張る真太郎の髪の毛からぽたぽたと水滴が落ちていく。

「姉さんは、楽しそうに髪の毛を洗うのだよ。たまに鼻歌を歌ったりもする」
「それは、無意識だね」
「だと思ったのだよ」

 流し終わった髪の毛を手で少しだけ整える。もういいわよ、と声をかけられた真太郎が立ち上がり、湯船へと身体を沈めた。楓も後を追うように身体をお湯に入れる。ゆっくりと腰を下ろすと、向かい合うように真太郎が座る。この家の風呂は、無駄に大きく作られている。というよりも、この家自体が大きいのだ。薬剤師をしている柊二のおかげとも言える。グランドピアノがある家なんて、そうそうないだろう。
 向かい合った真太郎が、前髪を掻きあげた。ああ、やはり綺麗な顔だと、いつもと同じ事を楓は思う。

「母さんが梨を剥いておくと言っていたのだよ」
「本当? 楽しみ」
「姉さんは梨が大好きだな」
「うん、……大好き」

 その科白に、真太郎は嬉しそうに笑う。込められた本当の意味を、理解することはない。理解して欲しいとも、思ったことはない。

「ほら、十までゆっくり、数えて」

 楓のことばに、真太郎が「いち、」と数字を数え始めた。零れ落ちそうなほっぺたを赤くして、楓をじぃっと見つめたまま。幸せだと、思う。だけれどつねにわたしの心臓に居座る絶望が、その幸せを笑う。こうして並んでいるとき。目を見つめたとき。笑った顔を見たとき。幸せで嬉しくて、愛しいのに。死んでしまいたくなるのだ。

「十、なのだよ」

 数え終わった真太郎の頭を撫でて、「出ようか」と言う。真太郎が真っ赤な顔で頷いた。



 楓の部屋に置いてあるマイナスイオンの出るドライヤーの風を、真太郎は目をつぶって受け入れている。彼のクロムグリーンの糸が、さらりさらりと流れていく。指通りはなめらかで、つややかに光っているその髪が、楓は好きだった。顔を近づけ、彼の頭に鼻を擦りつけた。

「真太郎の髪は綺麗だね」
「そう、かな」
「そうだよ。私、すごく好き」

 ベッドに腰掛ける楓の足元にちょこんと座りながら、真太郎は彼女の部屋を見渡す。自分の部屋と大差はないのに、妙にそわそわとしてしまうのだ。ごくりと喉を鳴らすと、背中から楓の笑い声が聞こえた。

「喉乾いた?」

 ゆっくりと頷いた。本当は喉なんて乾いていなかった。

「今日、ココア買ってきたから、乾かしたら飲もっか。アイスとホット、どっちがいい?」

 姉は優しい。自分の中で絶対的な存在で、尊い存在である。息苦しいような、泣いてしまいそうな、そんな気持ちを転がしながら、真太郎はそっと目を閉じた。寝れそうだ、と、思った。はやく彼女の腕の中で眠りにつきたい。薄々気がついている。お互いの距離感が、歳相応でないことも、“姉弟”として不相応であることも。

「今日はアイスの気分なのだよ」
「じゃあ、アイスにしよっか」

 それでもこの関係を望んでしまうのだ。真太郎は、閉じていた目を開く。机に置かれた家族写真は、とても幸せそうだった。

13.01.06 加筆修正