目を覚ませばあなたがいる | ナノ

 真太郎は言った。「この目を褒めてくれたのは、前にいたお母さんと、姉さんだけだから。だから俺は、姉さんが好きなのだよ。俺を認めて受け入れてくれたから」。寝ぼけて目をこすりながら、言った。楓は彼の頭を撫で、「そっか」と出会った時のように返事をした。たまにこうやって、同じベッドで寝ることがある。彼はもう小学五年になる。楓が真太郎と出会ったときの年齢に。楓は中学一年になっても、こうやって弟を甘やかす。柊二と小百合は、「仲の良い姉弟でなによりだ」と手放しで喜ぶ。でもきっと、そうじゃない。楓はいつも、笑顔で言う。

「世界で一人の弟よ。愛しているに決まっているじゃない」

 あなたたちの過ちで生まれたわたしを。彼はこの世で一番好きだと言ってくれる。楓のほうこそ、依存しているのかもしれない。自身を好きだと、求めてくれる存在に。両親は、お互いのことを深く愛し合っている。いくら可愛いわが子とは言え、自分の“夫”や“妻”のが好きなのだ。それと同じように、楓も真太郎を愛している。両親よりも、半分だけ遺伝子が繋がった尊い存在を。心のそこで愛していて、同時に、突き放したくなるのだ。
 船をこぐ真太郎のおでこにキスをして、「おやすみ」と声をかける。長い下まつげがふるりと震えて、眠りについた。楓もおなじように目を閉じて、眠りにつこうと努力を始めた。

「(ああ、どうせなら、眼の色も似てくれたらよかった。綺麗なグリーンに。そうしたら、わたしの目を見るだけで、真太郎を思い出すことができるのに。)」

 そして絶望する。ああ、やっぱり、姉弟なのだと。



 朝起きて、隣にいる真太郎を起こさないようにそろりと部屋を出た。リビングへ行くと、新聞を読む柊二と、その隣に座ってコーヒーを啜る小百合がいる。

「おはよう、楓」
「おはよう」

 にっこりと笑いかける柊二に、楓は小さく頷いた。眠いときは脳がうまく働かない。小百合が「カフェオレ作ってあげるわね」と席を立ったので、お言葉に甘え楓は柊二の前に腰を下ろした。ここが楓の定位置だ。そして隣には真太郎が座る。

「また真太郎が楓の部屋で寝たみたいだね。ほんとうに仲がいい」
「そうなの。可愛い弟だよ」

 新聞から顔をあげることなく言われた科白には、ただ純粋な嬉しさが滲んでいた。楓の気持ちになど気が付かない。なぜなら、柊二がこの世で一番愛しているのは小百合で、小百合のことだけをいつも気にかけているからである。愛しい人との間に生まれた楓のことを愛していないわけではない。ただ、それ以上に、小百合のことだけを盲目的に愛してしまっているのだ。
 ――狂っている、と言われてしまえばそうなのだろう。しかし、楓はそんなことはどうでもよかった。親はたしかに私を愛してくれているし、ちゃんと育ててくれている。ただ、わたしたちの気持ちや本質には気が付かない程度の愛なだけだ。楓は母親が持ってきてくれたカフェオレを両手で掴み、礼を言う。

「今日から夏休みですものね。真太郎はまだ寝ているの?」
「もう少し寝かせてあげて。成長期だから」

 小学五年にあがってから、真太郎の身長は少しずつだが大きくなってきている。そのうちわたしの身長を越しちゃうわ、と楓が言うと、小百合と柊二はくすくすと笑った。穏やかに流れる空気は家族そのものだ。“本当の家族”なのに“義理の家族”というのは、やはりこの年になっても違和感があるものだが。
 楓は、柊二こそが本当の自分の父親だと気がついている。でも、それを親から言われたことはなかった。真太郎も、それに気がついているだろう。彼は敏い子だから。そして、楓自身も言うつもりはなかった。
 ずずず、とカフェオレを飲むと、タンタンと階段を降りる音がする。

「姉さん、なんで起こしてくれなかったのだよ…」
「成長期はいっぱい寝るべきなの」

 目をこする真太郎を見て、いつから姉さんと呼ぶようになったんだっけ、と考える。しかし結局答えが出ず、楓は手元のマグカップを両手で包み込んだ。柊二が新聞を畳んで、真太郎に言う。

「真太郎、顔洗ってきなさい」

 こくんと小さな頭を上下させ、真太郎がリビングから出ていった。

「すぐ大きくなるわね」

 母の言葉に、大きく頷いた。楓はテーブルに置かれたリモコンを手にとって、テレビの電源を入れた。すぐ大きくなる。きっと。こうやって寝ることもなくなって、いつかちゃんとした女の子を好きになって、私から離れていくのだろう。

『今日のおは朝うらな〜い!』

 元気な女子アナの声を聞きながら、楓は生まれた悲しみを向き合う。そして懺悔をするのだ。生まれてこなければよかった。彼と他人なら、良かったのに。なんどそう思っても楓は真太郎の姉弟という立場から離れられないし、ましてや一緒に住むことができないなんて苦痛でしかない。そしてまた彼女は絶望するのだ。すっかり仲良くなってしまった絶望と、肩を並べて歩くのだ。真っ暗な道を。前に進むと後に戻れないように崩れていく、道を。
 柊二が「蟹座が一位だぞ」と嬉しそうに言う。「真太郎が一番ね」。楓の言葉に、二人とも笑った。

12.12.30