目を覚ませばあなたがいる | ナノ

 綺麗な校舎に、大きな体育館。来校者用のスリッパは少しだけ大きく、履き心地は最悪だ。蝉の声が遠くの方で聞こえ、冷房が唸る。ホワイトボードの前に立つシワだらけの顔に意識を集中させた。 
 ホワイトボードには、「桐皇学園 学校説明会」と綺麗な字で書かれていた。今しゃべっているのは教頭だか校長だか、とりあえず偉い人なのだろう。
 パパ、もとい圭吾から勧められたのは秀徳と桐皇だ。偏差値はさほど変わらないが、学校の雰囲気というものがあるだとうと二つオススメしてもらった。パンフレットを見て、まずは桐皇にしようと思ったのだ。回りにいる生徒たちも、真剣なようで、まったく真剣ではない態度で話を聞いていた。顔だけは前を向いているが、手ではペンを回している。
 今日は全中の決勝戦だと真太郎が言っていた。彼の活躍をこの目で見たかった。もう何度も試合を見に行っているが、何度見ても感動してしまう。彼の手から放たれるシュートがリングをくぐり抜けたその瞬間、全身が震えるのだ。バスケになんて興味はなかったが、弟のあんな美しい姿を見て無関心ではいられなかった。未だにルールはさっぱりだけど。
 いつの間にか説明は終わっていたらしく、椅子がガタガタと音を立てる。持っていたシャープペンをペンケースに仕舞い、配られたプリントをカバンの中へと押し込んだ。そのとき、肘が消しゴムに当たりコロコロと床を転がっていった。ああ、なんかこういう話を小学生のときに読んだなぁと思っていると、ひょいとそれを拾われる。

「落としたで」

 独特の訛りだ。ぱっと笑みを貼り付けて顔を上げれば、そこには同じように笑みを貼り付けた眼鏡の男が立っていた。
 ――胡散臭さやばいでしょう。引きつりそうになる頬をなんとか押さえつけた。楓が手のひらを差し出すと、そこにぽんと置かれる。

「ありがとうございます」
「どういたしまして」

 低い声。完成された男の声だ。眼鏡の奥で弧を描く目が、なんとも胡散臭い。楓がペンケースをカバンへ仕舞い、立ち上がる。「なあ」呼び止められ、もう一度見上げた。閉じていた目が開いている。

「これから暇やったりする?」

 なるほど。
 蛇に睨まれた蛙とは、今の私のことを言うのだろう。



 中学三年生であれば、普通はサイゼだとかデニーズだとか、そういうありきたりで平凡なファミレスなんかで話をするのが普通だろう。女子同士であれば、たまには見えを張ってスタバに居座ったりもする。それが一般的だ。糸目の男は、さも当然と言わんばかりに小洒落たたカフェへと入っていく。個人経営の、小さなカフェ。本棚が並んでいて、コーヒーを飲みながら読書ができるようになっているみたいだった。

「アイスコーヒーひとつ」
「……私はアイスティーを」

 レモンとミルクは、と聞かれ、ストレートでいいですと首を振った。店内にいるお客さんは他に数名程度。みんな一人で、好きな本を読んでいる。楓は店内を見回しながら、さっき覚えたばかりの名前を何度か頭の中で繰り返した。「今吉クンは」すらっと名前を言えたことに、内心でガッツポーズをした。

「もう桐皇に決めてるの?」

 さきほど会ったばかりの人間に馴れ馴れしく話しかける、という行為は好きではないのに、なぜか彼相手にはそんな風に思わなかった。彼のちょっとおかしな関西弁、というところが、そうさせているのがもしれない。今吉は口元にべったりとくっついたままの笑みを剥がす気はないようで、終始胡散臭い表情を作っていた。

「そうやなぁ。ていうか、推薦もろうてんねん」
「あ、そうなんだ」
「緑間は? 桐皇にせえへんの?」
「私はまだ、悩み中かな」

 若い女性の店員さんがドリンクを運んできた。筒のようなグラスと、ガムシロがひとつ。たいして頭を使っていないのになんだか糖分が欲しくて、アイスティーの中へガムシロをいれた。ゆらゆらと底へ落ちていく。今吉はブラックのままストローを食んだ。

「待っとるよ」
「え?」
「桐皇で待っとる」

 眉に掛かる程度に切り揃えられた前髪が、ふわりと横へ流れた。頬杖をついて楓のことを見つめる今吉の表情は、穏やかなものだった。ストローでガムシロを溶かしていた手を止め、グラスをゆっくり持ち上げた。左手でストローを支え、口へ含む。ほどよい甘さに、舌が溶けていく。

「……ありがとう。ちゃんと考えとくよ、桐皇」

 グラスを置いた。「そうして」今吉は歯を見せて笑う。長い付き合いになるかもしれない。そんな予感がして、楓はきゅっと口を引き結んだ。社交辞令だと思えばいいのに、なぜかそんな風に思えなかった。待ってる、という言葉だけが、楓の頭の中を染めていく。
 きっと桐皇に行く。それは予感ではなく、確信だった。
 
13.02.25