目を覚ませばあなたがいる | ナノ

 雨が降っていた。空気はじとりと肌にまとわりつき、髪がうねる。色素の薄い髪の毛を手にとって、毛先を見つめれば一つ枝毛を見つけ、楓の気分はより一層落ちていく。吐いた息が思いのほか大きく、慌てて口を閉じた。
 楓の部屋に置かれたテーブルの上には、昨晩真太郎からもらったチョコパイが置いてある。「チームメイトからもらったが俺は食べないので姉さんに」とのことだ。自分だって甘いものが好きなくせに、こうやって楓にばかり餌を与える。にこりと、優しく笑いながら。
 今日小百合は友人とディナーを食べに行くと言っていた。家には柊二と楓と、真太郎。夕飯はどこかに食べに行こうと柊二がはりきっていたことを思い出し、楓は重い腰を上げた。チョコパイは、帰ってからのデザートにしよう。時計の針は、午後七時を過ぎていた。
 リビングに降りると、そこには珍しく休みの柊二がホットコーヒーを飲んでいた。テレビから流れるニュースを聞きながら、柊二は眼鏡を押し上げた。その仕草が、真太郎そのもので楓は思わず息を呑む。やっぱり似ているのだと、なぜか嬉しくなった。まるで彼の未来を見ているようだ、と。真太郎よりも少し長い髪の毛が光に反射してきらりと輝いた。二人の共通点。楓にはないもの。

「お父さん」
「ん?」
「雨も降っているし、真太郎を迎えに行かない? もう部活も終わる頃よ」
「そうだな……そっちのほうが早いし」

 白いテーブルにマグカップを置いて、柊二はにこりと笑った。綺麗な顔は、どんな表情でも綺麗に映し出す。テレビ画面は天気予報を映し出し、「明日は晴れるでしょう」と太陽のマークがにこやかに笑っている。柊二は眼鏡のブリッジを押し上げ、行こうか、と声をかける。



「高校は決めたのか?」

 その言葉に、楓は首を横に振った。ルームミラーに写った柊二の顔を確認しながら、座席に身体を預けた。隣に座っている真太郎がちらりと楓を見たけれど楓はそれに気が付かない。「まだわからないわ」と丁寧に答えれば、柊二も「そうか」と明るく返事をした。責めるつもりなどはないらしい。
 どの高校へ行くべきなのか、未だに悩んでいた。圭吾に勧められた秀徳もいいけれど、担任に勧められた別の高校も気になっているのだ。どうしよう。そう考えても答えは一向に出てこない。進路希望調査は、適当に埋められたままだ。

「……候補もないのか?」

 隣にいた真太郎の言葉に、楓は窓から視線を外して彼を見た。黒縁の眼鏡をかけた真太郎の顔を見て、自然と緩む口角。

「一応、秀徳というところがいいかなぁとは、思っているの」
「シュウトク?」
「そう」

 やわらかなシートに置かれたばった手を見て、楓は思わず自分の手を差し伸べた。それに気がついた真太郎が、少しだけ眼を開いた。眼鏡の奥の瞳が揺れる。前で運転している柊二は「シュウトクかぁ」と笑っている。
 シートに手を置いて、目で彼に言う。彼はそれをわかったようで、ふいっと視線を外に外した。流れるCDはゆったりとした洋楽。柊二の趣味だ。楓は少しだけ口ずさみながら、こつりと当たった手を包み込んだ。お互いに窓の外を見つめながら、手だけはしっかりと握った。
 こんなに大きかっただろうか。楓は記憶をたどり彼の手を握った日を思い出す。もういつのことだか思い出せない。あの日はどんな日だったろう。今日よりもずっと小さく薄い掌だったことしかわからなかった。
 どんどん男になっていく。そして、歳の差なんてなくなってしまうのだろう。楓はそれが嬉しいようで、少しだけ寂しいとも思う。
 強く握られた掌は、心臓の音を届けそうだと思った。楓は熱くなった頬を冷たいガラスに押し付けた。車はどんどん走っていく。二人の秘密の交わりを乗せたまま。

13.02.11