目を覚ませばあなたがいる | ナノ

 携帯に記憶されている懐かしい数字の羅列を数十秒ほどながめ、それをコールした。プルルルル、と聞き慣れた機械音に目を閉じると、スルーコールで音が途絶えた。日曜日の朝九時。きっと彼の朝も始まっているのだろう。前までは私の家だったところにつながる数字。

『もしもし』

 電波になって耳に届いたその低い声に、楓はうっすらと笑う。記憶から消えそうになっていたパーツが集まりだして、頭の中に“パパ”が出来上がる。そうだ、こんな声だった、と楓はそっとため息をついた。そして、いつもより少し高い声を出す。

「おはようパパ、ご機嫌いかが」

 その言葉に、電話の向こうにいるであろう自分の父親は息を呑んだ。そしてゆっくりと息を吐いて、声を出して笑う。忘れそうになっていた笑顔を、なんとか思い出すことができた。楓の言葉に、圭吾は言う。

『おはよう楓、すごくいい気分だよ』



 数時間後、楓は駅前に立っていた。圭吾に久しぶりに会う約束をしたのだ。朝練に出ていた真太郎には、内緒にしている。もちろん、両親にも。小百合はきっと「あらそうなの」と聞き流すだろうが、あまり言いたくはなかったからだ。
 改札を出てきた黒髪の男に、楓は手を降った。

「パパ!」

 呼びかけると、その男がわずかに目を見開いた。楓が側まで歩いて行くと、彼は苦笑いを浮かべた。

「すっかり、大きくなったな」
「もう中学三年だよ。大きくなきゃ困る」
「そうか、……そうだよなぁ」

 楓が圭吾と連絡をとるのは、別姓になってからはじめてのことだった。今まで何度も連絡をしようと思った。けれど、楓はそれをしないでいた。

「ファミレス行こう」
「いいのか?」
「ドリンクバーがあるとこじゃないと、長居出来ないじゃん」

 その言葉に圭吾は笑う。「そうだな」。それはずっと昔に見た笑顔そのままで、かわっていないことに安堵した。よかった、と。変わったのは私達だけなんだ。パパはずっとパパのままだと、胸に引っかかっていたトゲのようなものが取れた気分だった。



 話したいことがいっぱいあった。まず母親小百合のこと。それから柊二のこと。愛する真太郎という弟のこと。圭吾はハンバーグを食べながら、笑顔で相槌を打ってくれている。「ママは元気かい」と聞いた圭吾は、すっきりした顔で、楓は大きく頷いた。「それならよかった」と、付け合わせのコーンを食べる圭吾は、きっと日本一ハンサムな“パパ”だったと、楓は思った。
 冷めたカフェラテをかき混ぜながら、楓は「真太郎がね」と話を続ける。圭吾はうんうんと頷きながら、空になったコップを指で撫でた。

「その真太郎くんは、いい子なんだね」
「うん、そう。あとイケメン」
「ははっ、会ってみたいなぁ」
「背も大きいよ。パパいくつだっけ?」
「178cmくらいだったかな」
「真太郎は172cmって言ってたかな」
「それは……大きいな」
「でしょ?」

 実際、記憶というものは曖昧で、圭吾とのことなんてほとんど覚えていない。遊園地に行ったこと、行ってらっしゃいのキスをしたこと、断片的な思い出はあっても、声や仕草まで覚えていなかった。ピースをなくしたジグソーパズル。楓はそれを、ずっと心に持っていた。
 圭吾が人差し指と中指でなにかを挟むような仕草をして、「いい?」と首を傾げた。そういえば、煙草も吸っていた気がする。またジグソーパズルのピースが戻ってきた。楓は「いいよ」と頷いて、カフェラテを飲み干した。

「パパは、覚えてる? 昔のこと」

 問いかけた後に、ああ、唐突すぎたなと思い少し居心地が悪くなる。圭吾はジッポで煙草に火をつけながら、にっこりと笑った。

「覚えてるさ」

 じりじりと燃えていく先端部分を見つめながら、楓は「そっか」と頷いた。カフェラテに手を差し伸べて、さっき飲み干したことを思い出しその手を自分の膝へ戻した。スカートを握って、楓は空っぽのマグを見つめた。

「今、どこで働いてるの?」
「神奈川の高校。そんなに遠くないんだけど、城西ってとこ」
「聞いたことはあるかも」
「有名だからな」
「そっか……」

 窓の外では、高校生らしきカップルが手をつないで歩いている。サラリーマンや大学生、いろんな人であふれている。ぼうっとカップルを眺めていると、「楓はどうするんだ」と圭吾が言う。

「……高校?」
「そう」
「まだ、決めてないよ」

 担任たちにも言われていることだった。教師たちは、いい学校に行かせたくてしかたがないのだ。「お前の頭ならここに行ける」「ここならお前にあっている」。そうやって紹介されるのはやはり有名なところばかりで、ああ、利用されているなぁと思う。わかってはいるけれど、あまり気分は良くない。すべて保留の一言で遠ざけてきた。
 圭吾があまり短くなっていない煙草を灰皿に押し付けた。燃えていた火は静かに消えた。

「……俺な、来年は城西じゃなくて秀徳に行くんだ」
「秀徳? 都内の高校だよね」
「そ。お前も来ないか」

 その言葉に、楓は目を見開いた。なにか言おうと口を開くが、結局何も言えずそのまま口を閉じた。
 聞いたことのある高校だ。文武両道の歴史ある高校だと、前に誰かが言っていた気がする。秀徳。その単語を、口の中で転がした。味わうように、ゆっくりと。
 圭吾はもみ消した煙草を指でいじりながら楓をじっと見ていた。その顔は少しだけ穏やかで、“親の顔”そのものだった。進路相談に乗る父親。楓は視線を窓の外へ反らした。

「……私、パパのこと大好きよ。昔の記憶なんて全然ないけど、愛されてたなって思うの。こうやってちゃんと、私の話を聞いてくれるし」
「そうか」
「だから、考えておくね。秀徳。私の頭で行けるかどうか、わからないし」
「大丈夫だよ、お前なら。だってお前は……」

 言葉につまらせた圭吾に、思わず視線を戻る。目のあった“パパ”は、少しだけ悲しそうに笑って、

「お前は俺の子供だからな」

 と言った。楓は叫びだしそうな声帯を抑え、こくりと首を縦に振った。
 最近買ったお気に入りのスカートに、ぽたりと涙が落ちた。やはり私はこの人が好きだ。大事な“パパ”だと思った。圭吾はそんな楓の頭をグシャリと撫でて、新しい煙草を取り出して口に咥えた。大きな掌は、やはり記憶の通り優しかった。

13.02.11