目を覚ませばあなたがいる | ナノ

シトシトと雨が振り、パラパラと窓にあたって弾ける音がする。楓はハードカバーの本をめくりながら、その音を聞いていた。雨は好きだ。晴れの日は日差しが痛くて出歩くのさえ億劫になる。雨の日も出かけたくはないが、雨音を聞くことが大好きなのだ。楓は文章を目で追いながら、雨音を耳で捉える。部屋の時計は秒針を刻むことなくスムーズに動く。短い針が九と十の間で止まっている。
 すると、コンコンと小さくノックが聞こえた。「姉さん」。その声に少しだけ心臓がはねた。楓は少しだけ苦笑しながら、返事をする。きっと彼は、すごく辛そうにしているだろう。

「開いてるよ」

 そう言うと、ガチャリと扉が開いた。立っていたのは部屋着の真太郎。想像した通り、眉間にシワを寄せ、苦しそうに表情を固くしていた。人よりもぐんぐんと成長していく真太郎は、痛みも生半可なものではない。急激に伸びる骨がギリギリと痛み、軋む。「成長痛ね」と言うと、無言で頷いた。楓は読んでいた本を閉じて立ち上がる。扉の前に立つ真太郎の髪の毛を撫でると、彼が少しだけ表情を和らげた。

「もう寝ようか」
「……いいのか?」

 テーブルに置かれた読みかけの本を指した真太郎に「いいのよ」と言う。

「久しぶりに一緒に寝る?」
「……別に、どっちでもいいのだよ」
「じゃあ、寝よう」

 そう言うと、真太郎は少しだけ目尻を赤く染めて頷いた。小学生のときはよく私の部屋に来ていたのに、と、楓は心のなかでぼやく。自分でもしっかりと理解している。この感情を抱くことが許されないことも、すでに歯車が狂っていることも。きっと、楓が生まれた時から狂ってしまったのだろう。中学生にあがったばかりの真太郎には、緑色の携帯が買い与えられた。もちろん楓も持っている。今の世の中物騒だからね、と、柊二がもたせているのだ。役割といえば、アラームと親からのメールくらいだが。楓には多くの友人がいるが、彼女たちもあまりメールをするタイプではなかった。アドレス帳にある楓は、いつまでたってもそこにいるだけ。
 真太郎がゆっくりと楓のベッドに腰掛けた。

「……こんなに狭かったか」
「真太郎が無駄に大きいのよ」
「無駄ではないのだよ!」
「そうね、バスケ選手だもんね」

 同じように腰掛けて、真太郎の頭をなでると、彼は目を細めてそれを受け入れた。異常なことくらい、お互いにわかっているのだ。それでも、この家ではそれが普通になる。家に戻れば、異常が普通であり、安らぎなのだ。真太郎は自分の頭をなでる細く白い手に自分の手を重ねた。

「……冷たいのだよ」
「本読んでたからかな。真太郎の手は暖かいね」

 そうやって目を伏せ姉を、姉と知りながら恋をする。胸がドクンと脈打ち、真太郎は買ったばかりの眼鏡のブリッジを押し上げた。そうやって自分の顔を隠すと、少しだけ落ち着くことが出来るのだ。レンズ越しに観る姉の顔は美しく、そしてどこか自分に似ていて絶望する。ガラスを隔てた先にいる彼女が、どこか遠く、そして愛おしく思う。

「姉さん」
「なぁに」
「……痛いのだよ」
「それは、それは……大変ね」

 言葉を選んで、きちんと受け答えてくれるところが好きだと、真太郎は思った。痛いのは、膝でも腕でもない。心臓だと言えないのは、なぜだろうか。言ってはいけない気がするのだ。
 楓は横たわり、壁に背をつけた。

「ほら、寝るよ」

 手招きをする楓に、真太郎は小さく喉を鳴らした。「わかってるのだよ」、とひねくれたことしか言えなくなってしまった自分に苛立ちながら、彼女の隣に横たわる。羽毛布団に身体を包まれ、目の前には微笑む姉の姿。
 幸福がやってきたのだと、そう感じた。胸のあたりが暖かくなり鼓動が早くなり、ああ、自分は生きていると気がつく。必死に生き、恋をしている。

「姉さん」
「なぁに」
「呼んだだけなのだよ」

 くすくすと笑う声だとか、下がる目尻だとか、すべてが愛おしく感じる。真太郎は、自分の腕を楓の腰に巻きつけた。

「おやすみ、姉さん」
「おやすみ、真太郎」

 まぶたを閉じて、眠りに落ちる。鼻孔をくすぐる甘い匂いは、まるで精神安定剤のようだった。今日はいい夢が見れそうだと、真太郎は空気を肺いっぱいに取り込んだ。

13.02.11