目を覚ませばあなたがいる | ナノ

 入学式から数日経ち、真太郎が「……眼鏡がほしい」と言った。どうやら視力が低下してきたらしく、楓の顔がぼんやりとしてしまうのだ、と。

「一緒に選んでほしい。お金は父さんから貰ったのだよ」

 真太郎の財布を見ると、そこには諭吉さんが首を揃えて三人いらしゃった。楓は「いいよ」と言って、カーディガンを羽織った。そして手をつないで家を出た。並んでみると、真太郎のほうが、身長が高い。高一になり、身長はぴたりと止まってしまい、165cmという女子にしては高い身長を手に入れた楓だったが、まさか中学男子に負けるとは。今は高二だ。これから伸びることは、ないに等しい。楓は真太郎の横顔を見ながら「大きくなったわね」と言った。

「もう172cmなのだよ」
「そうなの?」
「そうなのだよ」

 ふふん、と得意げに笑う真太郎は、すっかり綺麗な顔立ちになり、これはさぞモテるのだろうと、楓は少しだけ悲しくなる。小学五年から、真太郎はミニバスを始めた。そのせいか、ぐんぐんと身長が伸びていく。そしてどうやら才能もあるらしく、試合では活躍していると両親の口から聞いた。中学は、帝光中に行き、すでに一軍になったらしい。真太郎がどんどんすごく輝きはじめるたびに、楓は嬉しくなり、同時に寂しくなる。遠くなってしまうのだと思わずにはいられなかった。しかし、今でもたまに真太郎が一緒に寝たいと楓の部屋に訪れることがある。そのたびに彼女は嬉しくなり、一緒に眠るのだ。朝起きると成長痛で痛い、と泣き言を漏らす彼のおでこにキスをして。まだ彼は渡しを求めてくれるのだと。嬉しさで喉を枯らす。
 駅前の眼鏡屋さんにはいると、店主が目を瞬かせた。

「おやおや、美人な姉弟さんだ」

 白髪の多いふさふさの髪の毛を揺らして笑う。年齢は、四十代半ばといったところだろうか。楓は「ありがとうございます」と当たり障りなく返事をして、店内の眼鏡を物色し始める。どうやら真太郎に選ぶ気はないらしく、楓のあとを付いてくるだけで眼鏡を見ることはない。

「自分でも選びなさい」
「姉さんが選んでくれればいいのだよ」
「もう、わがままね。一緒にって言ってたじゃない」
「建前なのだよ」
「そうやって、また難しい言葉を覚えて」

 中学一年だというのになぜが大人びて見えるのはきっと背丈だけではない。言葉の端々から感じられる、オーラのようなものだろうか。ずらりと並ぶ眼鏡の中から、黒縁の眼鏡を手にとって「これは?」と差し出してみる。真太郎はそれを受け取って、自分の顔にかけてみる。

「どうだ?」
「すごく似合ってるよ、真太郎。三割増しイケメンだわ」
「姉さんは、すぐそういう事を……」

 ほんの少し頬を染めた真太郎に、楓はにこりと笑う。「本当のことよ」。店主がカラリと笑った。

「仲いいね」
「……ありがとうございます」
「眼鏡、それにするのかい? 安くしとくよ」

 その言葉に真太郎と楓が目を合わせた。

「……どうだ?」
「似合ってるってば」
「じゃあ、これにしよう」

 姉さんが選んでくれたものだ。そう破顔して、真太郎はポケットから財布を取り出した。楓はそんな彼の横顔を見ながら、ずるいなぁと、思う。そうやって無邪気に笑われてしまったら、どんどん愛してしまうではないか。そして、また後悔する。好きになったことを、愛していることを。

「真太郎」
「なんだ?」
「すこしデートして帰りましょうか」

 その言葉に、真太郎がうれしそうに笑みを浮かべた。



 買ったばかりの眼鏡をかけた真太郎は、心なしかそわそわしている。きっと、慣れない眼鏡に落ち着かないのだろう。いつもより重い鼻がうっとおしいと言わんばかりにブリッジを押し上げる。楓はそんな彼の右手を掴んで歩いて行く。

「どこ行こう」
「そういえば、近くにカフェがオープンしたらしい」
「そうなの?」
「そうなのだよ」
「……それ。その、なのだよって、口癖ね」
「姉さんに言われたくないのだよ」

 ぶすっとした表情で、「俺の口癖は、姉さんの“そうなの”を真似たせいだ」と言う。「ごめんなさいね」。そういえば、真太郎は「別にいいのだよ」と首をふる。

「そういえば、今日は母さんと父さんが外食すると言っていたのだよ」
「あら、本当? どうしよっか、食べて帰る?」
「……いや、姉さんの手料理がいい」
「……あらあら」

 赤い顔を隠すように、真太郎はふいっと横を向いた。楓はそれにくすくすと笑う。

「真太郎」
「……なんなのだよ」
「今日は豆腐ハンバーグにしようか」

 ね、と首を傾げると、真太郎は小さく頷いた。うっすらと弧を描く薄い唇を見つめながら、楓はそっと祈った。どうか、どうかずっとこうして一緒にいられますように。敵うはずもない願いを唱えては、楓は夢を見るのだ。真っ暗の中に一人だけ取り残される夢を。遠くに消えていく光をなくもせず笑いもせず見続ける、寂しい夢。温かい右手をしっかりと握る。真太郎の大きな手は、いつも安心を与えてくれる。まだ明るい道を、二人はゆっくりとした速度で歩いた。

13.02.11