お話 | ナノ

※ 222Q 僕らはもう ネタバレあり


 彼は人事を尽くす人間だ。勉強にもピアノにもバスケにも、何事にも一直線に、まっすぐに向かい合っていき全力で最善をつくす。私はそんな彼の後ろ姿を遠くから眺めているのが日課で、生きがいを感じる瞬間だった。
 流れる汗も、乱れる呼吸も、たまに不満気に鳴らされる舌打ちも、私には綺麗に写った。マネージャーの業務を放り出してずっと眺めていたいくらいには、彼の練習する姿が好きだった。私は彼にとって同じ部のマネージャーで、そこそこしゃべるくらいの同級生でしかないんだろうけど、私にとっては違った。緑間は私にとって神様みたいな聖域で、それでいて汚くも劣情を抱くような、そんな存在だ。
 たまに、残って練習する緑間を待っているときがある。私の気まぐれで、本当にたまにだけど。中学生の男女はむやみやたらに一緒に登下校ができないから。

「緑間?」

 少しの違和感に気がついたのは、きっと、たまにが良かったんだ。ずっと一緒にいたらきっと気が付かなかったはずだ。慣れてしまえば友人の変化に気が付かないように。

「ねぇ、ちょっと、……遠くない?」

 それは本当に、少しだ。歩幅にしたら2歩分くらいの僅かな変化。

「……最近はここだ」

 3Pラインよりも離れたそこでボールをしっかりもって、膝を曲げる。ぐっと伸びた時、綺麗な放物線で高く高く飛んだ。パシュ、と音がして、私は呆然と緑間の背中を見ていた。ああ、どうしよう。

「もっと遠くからも入る」

 立ち尽くす私にはしっかりと背筋を伸ばす緑間しか見えないけれど、彼が泣いてしまいそうな気がした。ゆっくりと下がった彼は、ゴールリングを見つめてボールを手にひとり、コートにいた。



 あの日から何週間か経過したけれど、彼はいつもと同じように放課後ひとりでシュート練習を繰り返していた。惰性ではない。しっかりと彼の意思で、人事を尽くしている。
 赤司くんが少しおかしくなって、部活の方針が変わった。そうしたら紫原と青峰が部活に来なくなった。青峰はさつきが引っ張ってこようと頑張っているけれど、あの調子ではきっと無理だろう。彼にとってバスケが一番だったからこそ、きっとすぐには元に戻れない。練習に出なくても試合に勝てるのは、チームプレイがないからだ。勝ててしまう。ワンマンプレーでも、あっさりと、単調に。

「汗拭いて、緑間」

 練習をして汗をかく。苦しそうに肩で息をしなくなったのは、一体いつからだっけ。もう忘れてしまった。あんな好きだったのに。緑間はタオルを受け取るとおざなりに顔の汗を拭った。

「ねぇ、さっき黄瀬に言ってたことだけどさ」
「……なんのことだ」
「人事を尽さんやつとは、ってやつ」
「ああ」

 眼鏡を外して、レンズを拭く。眉間にシワはよったままで、最近楽しそうにしている姿を見ていない。こうなってしまったのは、部の方針が変わってから。もっというなら、彼が、赤司くんが変わってしまったせいだ。

「あれ、自分にも言い聞かせてないよね」

 彼が遅くまで残って練習するのは、チームとしての勝利を手にするためには3Pのほうが得で、それが自分の役割だと思ったからだ。勝利の旗をみんなで手に入れるために。彼は得意だった3Pを活かすことにした。誰にも真似できないほどの練習量をこなして、確実に、自分の足で成長していった。才能に溺れることなく、どこまでも自分を高めていける。だからかっこいい。だから惹かれずにはいられなかった。
 だけど今はどうだ。ワンマンプレーになった今、敵チームをちゃんとマークしてしまえば、緑間だけでだって勝てないわけではないのだろう。難しいが、不可能ではない。飛び抜けて進化した『キセキの世代』なら。でも彼は、そうしていない。まだ。

「お前の言っていることは意味がわからん。もっとわかりやする喋れないのか」
「ごめんなさいね、馬鹿だから秀才の言語で喋れないみたいで」
「ふん」

 緑間はチームのことを特別に思っていた。ちゃんと仲間として仲良くしてきた。けれど彼は仲良くなどできないと言った。つながりを断つほどのいらだちを抱いてしまったのだ。

「私は人事を尽くせてるのかな」

 切られてたまるか。切らせてなるものか。
 緑間のお墨付きなんてきっと血を吐くほど人事を尽くさなくちゃなんだろうけど、私はそれでもいい。吐いたって折れたって、食らいついてみせる。

「お前は選手じゃないだろう」
「はは、そりゃそーだ」

 わからないけど。全然、どうしたらいいのかわからないけれど、それでもちゃんと歩いていかなきゃいけない。成長するのを見なくちゃいけない。緑間には確かに才能があって、それを開花させるために緑間は自分で土を選び、毎日上質な水を与え、丁寧に丁寧に育てたんだ。私はそれを遠くから見てきた。一生懸命な彼の背中だけを見てきたのだ。これからもよそ見なんてしてやらない。

「今日も自主練するの」
「……当たり前だろう。俺はあいつらとは違う」

 眼鏡をかけた緑間は、しっかりとコートを見据えている。走り、飛び、ドリブルで相手を交わしていく後輩たちの表情も、晴れやかとは言えない。
 人事を尽くし、立派に咲いたその花を一緒に育ててくれる人に出会い、緑間がまた肩で息をするようになるまで。彼が心から「このチームでバスケが出来てよかった」と言うその日まで、私を殺してついて行くよ。そのとき私は緑間の背をぼんやりと見ることしかできないんだろうけど。遠く遠く行ってしまうんだろうけれど。それでも私も、緑間に負けないくらい胸を張って、背を伸ばして、とびっきりの笑顔で笑ってあげるんだ。緑間は私にとって勝利の女神そのものだったと。

13.07.25 - 13.07.31(加筆)