お話 | ナノ

 見たことはないけれど、大きな鯨が好きだった。映画や漫画に出てくる、得体のしれない大きな生物。私達からした米粒のような感じで、私達を見れる鯨はとてもすごいし、この地球を支配している主だとも思ってた。映画に出てくる鯨の目はキラキラと宝石みたいに輝いていて、それでいて私の顔よりも大きい。神秘的だ。
 私はあれから十数年経って、背は伸び大人っぽくなってはきているけれど、やはりまだまだ、世界を支配できそうもない。するつもりはないけれど、出来るに越したことはない。私は鯨が好きだ。今でも変わらず、見たことはないけれど。

「ももちゃん」

 桃井さつきちゃんはピンクの髪の毛を耳にかけながらなぁに? と首をかしげた。私とももちゃんは三年間同じクラスの偉業を達成した友人だ。はっちゃけていうと親友という存在だけど、私だけがそう思っているんじゃないかと思っているので口に出したことはない。「親友だよね?」なんて聞いて気を使われるのも嫌だし、複雑そうな顔をされるのも嫌だ。だから自分だけが彼女を親友だと思っていればそれでいい。それに、彼女の一番はバスケ部なんだろうし。いいんだけど、ちょっと悲しい。

「もうすぐお祭りだね」
「うん? そうだね」
「今年もさ……あのー、なんだっけ、ほら」
「うん」
「バスケ部、のさ。いるじゃん」
「うん」
「彼は、そのー、バスケ部で行くのかな、お祭り」

 恥ずかしさで溶けそうになりながら言葉を続けていく私を、ももちゃんはにやにやと、可愛らしい表情で見守ってくれた。彼女の目尻は化粧を施していなくてもキラキラに輝いて見える。

「どうだろうね。行くんじゃないかな」
「そうっすか、そうっすか。なるほどね」
「でもわからないから、聞いてみたらいいんじゃないかな?」
「いや、それはいい、仲良くないし。向こうは私のことし、知らないしさ」
「そんなこと言ってるから仲良くなれないんでしょー!」
「私はももちゃんみたいにはなれないわ……」

 愛らしいボディーラインを目で撫でながら廊下を歩いているけれど、それなりに恥ずかしい。足の長さも細さも違うのだ。背も彼女のほうがすらっと長い。劣等感に潰されないのは、私がももちゃんを好きだからだ。彼と仲良くなるには、こんな風でなければと思いこむことでなんとか今日まで暮らしてこれたのに、いきなり話しかけるなんてハードルが高すぎる。もはやハードルではなく高飛びになってる。
 ももちゃんは少し意地の悪い顔をして「これだから名前ちゃんはっ」と横腹を突かれる。ひゃあともひょうとも言えない、マヌケな悲鳴を上げながら、私は廊下を突き進んでいく。
 今日も、彼のクラスの前を通るとき、すっと背筋を伸ばし声のトーンを落とす。教室で読書をする彼の横顔をちらりと一瞬盗み見て、この世の終わりだ! ってくらい幸せな気分になる。緑間真太郎、という名前は、どれだけ前世で良い事をしたらつく名前なんだろう。緑間真太郎くんの机になりたい、と小さな声でつぶやいたら、ももちゃんは堪えきれず爆笑した。わりと、私は本気だったので、少しだけ恥ずかしかった。



 夏祭りが近づいてきた。ゆっくりと、けれど驚くほど速いスピードで。私はまだ彼の横顔を眺めるだけの毎日を繰り返していて、ももちゃんは背中を押しながら「まったくもう」と呆れたように笑うのだ。どうすることもできないのはわかっているけど、行動しなきゃだめでしょ、なんて言われるたびに親に怒られたような気分になる。

「ももちゃんは、どうやって彼にしゃべりかけてるの?」
「どうやって、て……考えたこともなかったけど」
「あ、そうですか、まじですか、もう私無理ってことじゃないですか」
「なんでそうなるの!」
「だって名前すら呼べないんだもんー! なんなのあの名字ハードル高い」

 緑間、なんて。緑間真太郎。緑間真太郎くん。みどりまくん。やっぱり無理だ。
 通り過ぎた教室の中を盗み見たけれど、彼はいなかった。いつも座っている窓際の机には小さなペンケースだけが置いてあり、その前では青峰くんがうつ伏せで寝ていた。

「ちょっと青峰くん」

 ももちゃんはぷんぷんと頬を膨らませながら、教室へと入っていく。中にいた女子たちがぎょっと目を見開いたけれど、彼女を見て納得したように表情を消すと各自会話に戻っていく。がやがやとした中を突き進み彼の頭を殴るももちゃんについていくか、いくべきか、悩んでいると「おい」と声をかけられる。心臓がはねた。

「邪魔だ」
「あ……は、はぁ、すみません」

 やばい、と思った瞬間ぶわっと体温が上がり、手汗がにじみべっとりと前髪がおでこに張り付いた。想像していたよりもうんと背の高い彼は、メガネをきらりと光らせて私をにらむ。艶やかな緑色が、蛍光灯の光を反射して輝いている。まさに天使の輪。歯切れの悪い私に嫌悪の表情を見せると、彼はふんっと鼻を鳴らして教室の中へ入っていく。私はドアのところから半歩横にずれた場所で、彼に声をかけるももちゃんの後姿を見ていた。
 会ってしまった。見てしまった。あの目を。顔を。存在を。
 ドキドキ、じゃない。これは感動だ。



 その日から私は満足に寝れない日々を過ごし、ついに花火大会の日を迎えた。私はももちゃんと行くことになっている。バスケ部でいかないのかと聞けば、祭りくらい友達と行きたいと少し悲しそうにされてしまった。そしてそんなももちゃんが可愛らしく、好きで、ちょっとだけ泣いてしまいそうだった。
 小さな神社に人が集まって、カランからんと下駄を鳴らす。どういうわけか私も浴衣を着せられ(親にではなくももちゃんに)初心者にもやさしい下駄を貸してもらった。これでミドリンにあっても大丈夫だね、と言われたけれど、こんな格好であうことのほうがよっぽど事件のようだ。会いたくはなかった。見かけるくらいでいい。顔を合わせたら、私は泣いてしまうかもしれない。
 的屋のおじさんに絡まれ、リンゴ飴に悪戦苦闘し、少し痛くなる足をバレないように引きずって歩くのは、夏の風物詩。これでこそ日本の夏だ。私はこういう瞬間がたまらなく好きで、まだ十数年しか生きてないけれど日本に生まれてよかったなぁと思うのだ。ぱくりと口に入れたベビーカステラはほんのり甘く、笑顔でおまけをしてくれたおばちゃんの顔を思い出す。
 ももちゃんが私のうでを引いてもうすぐ花火が始まるからと急ぎ足で人混みをかき分ける。

「穴場があるんだよ! 前にテツくんに教えてもらったの」
「へぇ、噂のテツくんが」

 私はテツくんという男子生徒を見たことがないので、なんとも言えないが、どうやらももちゃんは彼にぞっこんらしい。影が薄く頼りないように見えてとても凛々しいく男前なのだと耳にたこができるほど聞いた。どんな人なのか会ってみたいけれど、話すこともないので探そうとまでは思わない。それなら私は、通りかかったふりをして彼を盗み見ているほうがいい。
 あっ、と大きな声を出すと、彼女の足はぴたりと止まった。ちょうど金魚すくい屋の前でしゃがみこんでいるふたつの背中はやけに大きく、そして頭はカラフルで見覚えがあった。黄色と緑が並んだ姿は、まるでスーパーに陳列されたカラーピーマンたちのようだ。

「きーちゃんにミドリン!」
「あれ、桃っちも来てたんスね。友達?」
「そう。これから花火の場所取り行こうと思ってたの」

 ふりむいた金髪に目を細めながら会釈をし、ぱくりとカステラを頬張る。彼も同じように頭をさげ、立ち上がる。すらっとしているモデルは、浴衣もよく似合っている。隣に座りこちらを見向きもしない彼は、もなかの金魚すくいを持ったまま動かない。

「ちょっと、ミドリン?」
「黙っているのだよ桃井。俺は今デメキンを捕ることに忙しい」
「いや、忙しそうには見えないけど……なんでデメキン?」
「今日のラッキーアイテムらしいっスよ。今日一日はストラップで過ごしてたらしいんすけど、本物がいるなら本物がいいってうるさくて」
「俺を駄々っ子のように言うのはやめろ」
「似たようなもんでしょー」

 なるほどわからん。
 モデルの黄瀬くんは私を一瞥したあと、「一緒のクラスの子っスか?」と綺麗な笑みを見せた。私はどちらかと言えばこんな至近距離で彼の背中を見ることはそうそうないのでそっちを見たかったが、さすがに蔑ろにもできず目を合わせて「どうも」といつもより明るいトーンの声をだす。その瞬間、彼のもなかがすっと動いた。

「あ」

 ぽちゃん、と音がして、彼の手にあったはずのもなかは消えた。
 おじさんは笑いながら普通の網で赤くほっそりした金魚を袋にいれた。三匹が小さな袋で泳いでいる。

「ほい、参加賞」
「くっ……」

 悔しそうに袋を受け取って、彼は眉間にシワを寄せたまま立ち上がった。

「わたしやろうか」

 踏み出してみろと言ったのはももちゃんなのに、彼女はぽかんと口を開けたまま、私を見ていた。彼は私の言葉にぐっと不機嫌そうな顔をすると「誰なのだよ」と低く唸る。

「ももちゃんの友達」
「そーいうこっちゃないのだよ」
「金魚すくいは得意なほうだよ。いいから黙って見てて」

 暑い。今日は無駄に。お団子ヘアに巻き込まれてくれなかった髪の毛がうなじにぴっとりとくっつく。
 おじさんにお金を渡したところでようやく我に返ったももちゃんが慌てて私の背中に抱きついた。たわわな胸がぎゅっと押し付けられ、暑さが倍増するが少し幸せだ。黄瀬くんも笑いながらももちゃんの後ろに立ち、肝心の彼は「ふん」と鼻で私を笑った。もなかを受け取って、隅の方へ移動する。
 コツさえつかめば簡単だ。私の親は金魚すくいが得意で、それをいつも見てきたのだ。デメキン一匹くらいなら、もなかと相打ちで掬えるはず。
 情けない。もなかを持った右手が小刻みに震える。こんなにも緊張に弱いタイプだったなんて知りたくなかった。ももちゃんが小さな声で「大丈夫だよ」と言った。それでも後ろに彼がいて、私は彼と言葉をかわして、彼のためにデメキンを掬おうとしているのだと考えると無性に泣きたくなった。この状況に追い込んだのは自分だけれど、だれでもいいから私のことを救ってくれ。なんてしょうもないダジャレを思いつきながら、ゆったり泳ぐ黒いデメキンめがけてもなかを水面に落とした。

「お」

 ぽちゃん。小さな器の中には、黒いデメキンが一匹。そしてもなかはボロボロになり、ぽとりと落ちた。ビチチ、とヒレを動かすデメキンと、一瞬、目があったような気がする。励ましているのか恨んでいるのか、喜んでくれているのかわからないが、なんとなく、ありがとう、と心のなかで感謝をした。
 おじさんは私のことを褒めながら、そのデメキン一匹を袋に入れてくれた。ももちゃんはキャーキャーと騒ぎながら私の腕をべしべしと叩いた。デメキンは騒ぐことなく小さな水の世界で泳いでいる。紐につる下がったそれに「すごい」と言ったのは黄瀬くんだった。

「なかなかすごいっスね! まさか本当に捕るとは思ってもなかったっス」
「ぶっちゃけ私も思ってなかった」
「なんスかそれ、あんな自信満々だったのに」
「信じる力は偉大だよ」

 呆然と、だけど釈然としない様子で私を睨んでいた彼に袋を差し出した。

「……どうぞ、緑間くん」

 むすっとしたまま(きっと自分で捕れなかったから意味がないと思っている)紐を掴んだ。

「……どうも」

 手の震えは止まっていた。触れることのなかった皮膚の熱が、空気で伝わった。ドン、と地面が揺れ、パラパラと散っていく音がする。それが一瞬で明るくなり、周りのお客さんが歓声をあげる。
 深い緑色の目が、私を見ていた。
 好きだった。見たことがなくても、声を聞いたことがなくても、ずっと大きな鯨を好きでいたように、彼のことを好きだった。左手のテーピングは? どんなストラップをつけてたの? 聞きたいことなんて山ほどあるのに、私にはそれを問う資格を持っていない。持っているのは報われることのない初恋。そのうち溺れて死ぬんだろう。大量のドーパミンを放出させる心臓の音はまるで花火のようで、きらりと光る眼鏡は火花のようで。

「こっちはお前にくれてやる。俺はデメキンだけで十分だ。もともと金魚は好きじゃない」

 ずいっと目の前に現れた袋に慌てて右手を出すと、指に赤い紐をかけられた。ずっしりと水の重みが伝わる。見あげれば、見慣れた横顔がある。ふいっと反らされた顔にどこかほっとした。彼の目は心臓に悪すぎる。

「じゃあ、桃っちと友達さんも、またね」
「あ、うん! バイバイきーちゃん!」

 せわしなく動く金魚。彼は眼鏡を押し上げると私をちらりと見てから歩き出す。人混みをかき分けることなくすいすいと遠くなっていくカラーピーマンたちは、どこへ行くんだろう。

「よかったね、名前ちゃん」
「うん」

 明日はホームセンターで可愛い金魚鉢とエサを買おう。名前はあとで考えよう。恥ずかしいから緑間、なんて名付けられないけど。それにあの名前は、きっと特別だ。
 悔しいな。私が救ってあげたあのデメキンは、彼の隣で綺麗な花火を見るんだ。別れの挨拶すら言えない私はひっそり心のなかで「またね」と繰り返す。ドン、と内臓を揺するような花火の音を聞いて、彼は笑ったりするのかな。



13.07.22