お話 | ナノ

 青空の広がる訓練場で立体機動の訓練が終わり、べったりと肌に吸い付くシャツをはやく脱ぎたい一心で本部へと速歩きで向かっていた。コニーの話には適当に相槌を打って、第二ボタンを外したときだった。

「ジャン・キルシュタイン」

 ハリのある高い声が俺の名を呼び、それに固まったのは俺ではなく隣にいたコニーだ。「はい」右手を胸に当て敬礼をすると、分隊長は気味の悪い笑顔を浮かべた。

「今夜予定はあるかな。少し……そうだな、作法を教えようかと思ったんだけど」

 真っ白な雲がもくもくと育って行く晴天の下、どぎつい雷が落ちてきた。もっといい棒はあっただろうに、なぜ、俺に落とされたのか皆目検討もつかないが、検討がつかないほうがいいに決まってる。コニーはわずかに頬を赤らめて、一歩二歩、後ろに逃げた。俺は綺麗に敬礼をしたまま、色素の薄い彼女の瞳を見つめ返した。

「ありません。分隊長に教えていただけるなんて、恐縮です」

 この世界で生きていくための作法は山ほどあるだろう。けど今この人が言っているのは、そういう作法じゃない。たったひとつ、くだらない、生きてることに直結した作法。めんどくさいな、とは思わなかった。下手に男の上司がついたのではたまったもんじゃない。

「食事が終わったら声をかけよう。それまではいつもどおりにしてくれてかまわないよ」
「了解しました」
「呼び止めてごめんね。行っていいよ」

 分隊長の横にいたヘルゲさんが目頭を抑えながら「ほどほどにしろよ」と、分隊長に声をかけている。生きるための作法を教えてもらえ、しかも相手が女性なんてかなり恵まれている。すれ違う兵士たちからの視線は嫉妬混じりの醜いものだった。ざまあみやがれ。



 初めての体験に対する感想といえば「なるほどこういう感じか」という曖昧なもので、分隊長――名前さん――への感想は、「なんだこの人は」だった。
 ヘルゲさんの口ぶりからただの遊び人だと推測していたのに、彼女はベッドの上でひどく優しく俺に抱かれた。むしろ俺が抱かれてんじゃねえの? と不安になるくらいには。恋人同士の行為、みたいに。もっと淡々と、業務的なセックスになるのだと想像していたので毒気を抜かれた。「行為の最中は名前で呼んでよ」なんて言われて、テンションが上がらないわけがない。このセリフも、いつか俺が部下に言う立場になるんだろうか。言えるだろうか。そのときが来ればいいな、と考えている余裕はなかった。
 肩のあたりで切り揃えられた髪の毛が揺れる。全裸のまま起き上がると、ワイシャツを羽織りベッドに腰掛ける。俺はうつぶせに寝たまま、背を向けて火を操る名前さんの腰まわりを見ていた。へこんだラインが、蠱惑的だ。

「……あの、分、隊長」
「呼ぶなら名前にしてってば」
「じゃあ、名前さん」
「はぁい?」

 ジュウ、と燃える音。消えていたランタンに火が灯る。月明かり以外の光でようやく視界が鮮明になった。暗闇の中で、名前さんの目が燃える。

「俺以外の新兵にも、こういうときには、名前で呼ばせてるんですか」

 問えば、名前さんは勢い良く振り向いた。

「あのさ、今のところキルシュタインにしか手は出してないんだけど」
「……え? そうなんですか?」
「そうだよ。関係を持つのはいつも一人。その人がいなくなったら、また誰かにって感じだよ。なかなかキモチワルイでしょ?」

 いなくなったら、というのは、きっと死んだという意味だ。口ぶりからして、もう何人も見送ってきているんだろう。ヘルゲさんのほどほどにしろよ、は、こういう意味だったのかよ。なんて紛らわしい。筋肉と脂肪の混ざり合った胸を揺らし、名前さんはベッドの中へと入ってきた。ふたりでひとつのシーツにかかるなんて、まるで小説に出てくるラブストーリーのようだ。物語はこんな血生臭い場所ではないし、もっと愛しあう関係だが。それでも俺達は、たしかに生きていくための愛を確認しあったのだ。きっと。

「どうして俺だったんですか」
「どうしてだと思う?」
「……。」
「ジャン・キルシュタイン。客観的に考えて、その答えを言えばいいよ」

 優しく微笑むと、俺の耳を撫でる。丸い爪が骨を引っ掻いた。ぞわりと腰が震えたが、瞼は重く性欲よりも眠気が勝つ。

「……俺だった理由はわかりません。分隊長の御眼鏡に適ったとしか」
「そう。まぁ、そうだよね」

 くすくすと笑う分隊長がこんな目の前にいるなんて、やっぱり夢かもしれない。訓練をしているときの分隊長はいつも目を細めて空を睨んでいるし、壁外調査にいったときはもっと勇ましく空を駆ける兵士だ。それなのに、今はなにも持っていないただの女の人。不思議な感覚だ。ミカサは、こういうときどんな顔をするのか考えたけれど、さっぱり想像できない。試しに裸を想像してみたけれどこれど、やっぱり、まったく、興奮しなかった。今はただ眠い。

「ある人間たちからすれば、私を抱くっていうのには、意味があるみたいだよ」
「意味、ですか」
「分隊長の一番側にいれば、親しく心を通わせれば、いざというときに助けてもらえるかもしれないっていう下心のある人間からするとね。私はもう何年も生き延びて、その分だけ愛した男も見殺しにしたのにね」

 おかしな話でしょう、と名前さんは言ったけれど、あまり笑えるような話じゃない。そういう人間からのアプローチに嫌になってきたから、俺に手を出したのだと悪びれなく言う。きっと俺は明日も嫉妬のまじった眼差しを向けられるのだろう。面倒だが嫌いではない。優越感に浸る、なんてことはめったにできることじゃないし、浸れるときにはひたっておきたい。それで死んだら元も子もねーけど。
 俺の耳をいじっていた指が、するりとほどけた。枕に手をおいて、名前さんは目を閉じる。

「ジャンって、いい名前だよね」
「そうですか?」
「呼びやすいじゃない。叫びやすいから、すぐ私の声が届く」

 硬い枕に頭を載せて、鼻先がくっつきそうなほどお互いの顔を近づけた。吐いた息が唇に当たってこそばゆい。
 この人はそうやって、ほどほどの加減がわからないまま、人に愛着を持ってしまうんだ。ヘルゲさんの忠告なんて聞きやしないで、俺のことを、特別に思ってしまう。目を伏せた名前さんの頬を撫でると、嬉しそうに肩を揺らした。ぴったりとくっついた瞼は開かない。

「ジャン」
「はい」
「ありがとう」

 それは何に対する礼なんですか。問うつもりで開けた口は、手に擦り寄る名前さんを見て、勝手に閉じた。それからしばらくしたら穏やかな寝息が聞こえてきて、体中の力がどっと抜けていった。やはり上官と同じベッドで寝るのは緊張する。
 抱き寄せてみれば、俺よりも小さく柔らかな体が体温を分けてくれる。自分の部屋に戻るのは、もうしばらく余韻に浸ってからにしよう。触れ合った胸から聞こえる心音は、たしかに俺達を生かしている。バラバラだった鼓動はゆっくりと一緒になり、どくり、どくりと、同じリズムで血を巡らす。このひとを悲しませたくない。名前さんの生きる世界は愛にあふれ、救いようのない絶望が満ちている。だからきっと、分隊長は、人を愛することをやめられないんだろう。規則正しい呼吸を聞きながら、俺も呼吸を繰り返す。心臓は同じリズムで生きていた。

13.07.14