お話 | ナノ

 私はこしあんのが好きなんだよね、と、会話に割り込んできたソプラノに驚くと、犯人は小学生のような無邪気な笑顔を見せた。バスケットのボールを持つ俺は「こ、は?」と言葉にならない声を出すことしか出来ず、隣で話していた高尾に腹を抱えて笑われる。ファーストインプレッション、なんだこの女、だ。それ以外の言葉が頭の中に浮かばず、眉間に力が入る。

「おしるこって喉乾かないの?」
「いや、まぁ……」

 おしるこが好きではないという高尾に、あれのうまさや素晴らしさを説いていたのは自分だが、まさか第三者――それも関わりのない女子マネージャー――に割り込まれるとは思ってもいなかった。なんと言うかぐるぐると考えていると、ぐっと肩に重さがかかり身体は斜めに傾く。首に感じる汗ばんだ腕に不快指数がぐっと上がった。

「こいつは並の人間じゃねーからさぁ」
「おい高尾、離れろ気持ち悪い」
「ちょ、辛辣!」

 髪の毛をふたつに括った低身長の女子生徒は、俺達を見上げながら変な顔で「ふーん?」と言った。「ずっと聞きたかったんだよね、いつも飲んでて喉乾かないのかなーって」いたって真面目な顔で見つめられると、なんだか居心地が悪い。首の裏側が痒いようなくすぐったさに、表情筋が動かなくなっていくのが自分でもわかった。けれど女は、気にすることなく俺に手を振って「じゃあ次シャトルランだから」と去っていった。

「なんだ、あいつ」
「女子マネの名前。結構面白いやつよ」
「お前と同類か」
「なんだよその言い方! けどまぁ、そんな感じじゃね。コミュ力高いっつーか」

 真ちゃんとは正反対だよなぁ、なんて冗談でも腹の立つことを言われたので思いっきり足の甲を踏んでやった。カエルの潰れたような声を出した下僕を一瞥して、にこやかに罵声を飛ばしてくる先輩とお父さんのような威圧感のある主将の元へと急いだ。誰がコミュ障だ。誰が。


◇ ◆ ◇


 あれから毎日、彼女は俺に話しかけてきた。おはよう、元気?、なにそれラッキーアイテム?、など、言うことは毎日少しずつ異なっていて、けれど決して深入りはしない。距離感を掴むのがうまい。やはり高尾と同類なのだ。
 変なやつだな。最初の印象はそれだけで。きっと彼女から見たら俺も変人に見えているのだろうなぁと、まじまじと、まるで動物にきた子どものように真剣に俺の顔を見る名前という人間を見下ろした。客引きパンダという言葉を不意に思い出し、なんだか少しやるせない。

「それはどうかと思うなぁ」
「なにがだ」
「ラッキーアイテムだよ。なに、今日の助言は」
「大きなクマのぬいぐるみ。失敗して周りに迷惑をかけるそうだ。ちなみに最下位」

 ある程度会話していれば、奴の言葉など想像が出来た。次のセリフが出てくる前に質問に十まで応えてやると、右の口角を上げて笑う。

「二メートルの男が小脇にでかいテディーベアーはまじで笑えるけどね」
「……うるさいのだよ」

 ケラケラ笑うあいつの存在は、ちょっと特別だった。女子生徒に気軽にしゃべりかけられること自体が少ないし、なにより少しうざいが面白かった。まともに会話をするのは桃井くらいだが、あれともまたベクトルが違う。あれは気の置けない友人とはちょっと違う。

「汚さないようにね」

 捨て台詞もよくわからん女だ。へらへらと笑いながらぐにゃぐにゃと手を振って、短いスカートを翻して歩いて行く。上履きを少し引きずる歩き方、何回やめろといっても直らない。高く結われた長い髪が、歩くたびに揺れる。

「なーに見てんの」

 突然現れた高尾に肩を叩かれ、はっとした。

「別に、なにも、」

 彼女と反対を向いて、高尾の授業への愚痴を聞きながら眼鏡を外した。ぼんやりする視界ではっきりと思い出す名前の背中。いつもと同じように右手でかけ直し、まだ数学の公式が覚えられないと嘆く高尾を鼻で笑ってやった。
 ドキリ、心臓が唸った。胸がぎゅうっと締め付けられるこの感覚は、嬉しさだとすぐに気がついた。桃井のときは、ここまでではなかった。最初から恋愛感情を抱かずに、なんの引け目もなく接してもらえることは少なかった。背の大きさ、特技のこと、キセキの世代、そういった蜘蛛の巣みたいな見えない糸がいつもあった。名前も知らない相手から付き合ってくれと言われることすらあった。俺は赤司や黄瀬とは違う。そういうときに然るべき対応ができないことはわかっていたから、余計に苦しかったし、面倒だった。恐る恐る、興味本位で、そういうやつらならたくさん見てきたし相手もしてきた。けれど彼女は違う。
 似ている。高尾と似ているから、きっと、大丈夫だ。あいつとはうまくやっていける。


◇ ◆ ◇


 あのときからきっと、俺達は友人という括りにはまったのかもしれない。一年、二年、気がつけばずいぶん長い間一緒にいる気がした。高尾と俺と、名前。高尾は俺のことを真ちゃんと呼ぶ回数が多くなって、名前は真太郎と呼ぶようになった。「和成、真太郎」と、高校の頃から変わらない頼りない笑顔で俺達の間に立ってぺらぺらとくだらない話をして笑いをくれた。成人すれば酒を飲みに行き、ふらりと車で日帰り旅行に行ったりもした。中学の時からは想像もできない自分がいて、それがすごく楽しかった。子どもでも大人でもなく、どこまでも自由に走っていけるような、そんな感覚だった。
 三人の中で一番悪戦苦闘していた彼女もようやく内定をもらい、一段落したときに三人で打ち上げをした。からあげ、さしみ、サラダをつまみながらみんなで五杯目のビールを飲んでいるときだ。

「俺さぁ、もうそろそろ彼女と同棲しようかと思って」

 にやにやと締まりない顔の高尾の言葉に、付き合って三年以上になる、こいつのデキた彼女の顔を思い浮かべながら「へえ」と相槌を打った。それからぱっと浮かんだ自分の恋人の姿に、奥歯を噛み締める。

「てか今でも半同棲みたいなもんだべー」
「それもそーなんだけど! 正式にってこと!」
「やだやだ幸せなリア充は〜!」

 ごくごくと喉を鳴らしながらビールを飲み干すと、テーブルのボタンをすばやく押した。掛け声とともにやってきた男性スタッフによそ行き用の笑顔で「生ふたつお願いします。緑間飲むでしょ?」なんて注文をした。俺は空になっていたジョッキを店員に渡し、携帯の画像を眺めはじめた高尾の足を踏んだ。

「引っ越すのか」
「んー、俺のアパートに住めばいいんじゃねってなってる。彼女の服とかほとんどあるし。あっちの更新がもうそろそろだからさ」
「彼女が次引っ越すときはふたりのマイホームでしょ?」
「たりめーだろぉ!」

 両手で顔を覆い突っ伏し照れている高尾に爆笑しながらも、彼女はどこか複雑な表情をしていた。くいっと持ち上がったままの唇と、細められた目がアンバランスだ。ぼーっと彼女の横顔を眺めていると、いきなり高尾が起き上がり彼女を指さした。

「お前はどーなの」
「……どーって、なに、いきなり」
「彼氏と結構長いじゃん。同棲とかしねーの」

 ごくりと唐揚げを飲み込んで、慌てて箸を置く。カチャン、その音に名前の肩が大げさに跳ねた。

「お前、彼氏なんていたのか」
「真ちゃん知らなかったの!?」

 げらげらという効果音がぴったりな笑い声でテーブルを叩き、名前が眉間にシワを寄せ高尾の頭を殴った。ちょうどそのタイミングで、さっきとは違う男性スタッフが生をふたつ持ってきた。俺がそれを受け取り、酔ったせいかなかなか笑い終わらない高尾を相手にしている名前の前に置いた。「つくねとなんこつ追加で」綺麗な笑顔で「かしこまりました」と言われ、なんだかすこし気分がよくなる。あの人は来るたびに働いてるなぁと思いながらビールを口に含んだ。

「和成ホントうっさい。水飲め、とりあえず水飲め」
「だってお前、まさか隠してるとは思わねーじゃん」
「ねぇ、ちょっと、まじで黙って。なんなの? お前まじでうるさい」

 どうやら本当に機嫌が悪くなっているらしい。にたりと笑ったままの高尾に、名前は大きなため息をはいてジョッキを握った。

「お前のそういうとこまじ腹立つ」
「おっれもー! 名前うぜーんだもん」
「いい加減にしろお前ら、いつもいつもコントすんじゃねーのだよ」
「コントじゃないから! まじだから!」
「それも聞き飽きたな」
「俺はコントだと思ってるけどぉ」
「あいかわらず真太郎の言うことは絶対だな、クソ和成」

 ぐいっと仰いで、俺らとは違う喉がごくごくと飲んだ。勢いは男にも負けないだろう。こいつはそんじょそこらの草食男子よりもよっぽど男らしかった。店員さんがきて、頼んだつくねが来たのかと思ったら前に名前が頼んでいたカマンベールチーズフライだった。名前は「やったぁ」と女子みたいな(こいつは女子だけど)声を出してそれを受け取った。箸でつまんで、ぱくりと食べる。高尾は店員さんに水を頼んでいて、どうやら少しは酔っている自覚があるようだ。

「どんな相手なんだ」
「え? なにが?」
「お前の彼氏だ」
「……ええ? 真太郎がその話題引っ張るの?」

 大きなため息を吐いて、右手で顔の半分を覆った名前はふいっと顔を逸らしたまま動かない。分が悪いか、照れているか、不機嫌かのどれか。昔から感情が表に出やすい人間だった。

「高尾は知ってるんだろう」
「つーか俺のバイト先に来たんだよね、ふたりで」
「へえ」
「まじ見せるような彼氏でもないし……あー、あれに似てるかな、お笑い芸人のアレ」
「あれって誰なのだよ」
「名前なんだっけなぁ、忘れちゃったわ」

 高尾は笑いながら「お前らしーな」と言った。頬杖をついてにやりと笑う高尾の顔を睨みつけて、名前は「うっさい」といつものセリフを吐いて、がりがりと頭をかいた。
 彼氏、ということは、こいつが女の顔をしてその男のために尽くし尽くされているということだ。俺と俺の恋人がするように、駅で待ち合わせて、買い物をして、家に行って。たわいない話をして笑い合ってキスをする。そんな恋人たちの当たり前を、こいつがしているのだと思うとちゃんちゃらおかしかった。俺は自分の恋人の顔を思い浮かべながら、こいつもああやって笑うのかと想像する。本人に言ったら殴られるから絶対に言わないが、とても、信じられなかった。


◇ ◆ ◇


 燦々と太陽が降り注いで、網膜を焼き尽くそうとする光がガラスに当たるたびにきらりと瞬いた。目と頭の間がツンと痛くなる。
 盆休に集まろうと言い出しのは高尾で、あまり乗り気でなかった名前に来るように強く進めたのは俺で、そんな俺にしぶしぶ頷いた彼女は前にあったときよりも大人びた姿で俺の前に現れた。車で高尾を迎えに行って、そのまま駅で名前を拾った。また明るい時間から集まるのは久しぶりで、なんだか少し高校の頃に戻ったような、そんな気分になっていると、高尾も同じように「秀徳とか行きたくなんね」とぽつりとこぼしていた。ひとり後部座席に座っている名前は、くすりと笑う。あのころとは違う笑い方だった。

「冗談はさておき、カフェでも行くかー? この時間じゃいつもの居酒屋もやってねーし」
「そうだね。いいんじゃない」

 彼女はうすいピンクのペディキュアが施された爪でスマートフォンの画面を叩く。以前よりも白くなった肌と暗くなった茶色の髪の毛。変わっているはずなのに、「変わらないな」と口から出たのは、きっと気持ちがあのころのまま、お互いに変わっていないからなのだろう。車内の音楽を歌いながら運転する高尾に笑いながら、名前は指を窓の外に向け「あそこの店変わってる」なんて一人ではしゃいでいた。ああ、そうだな、へぇ。適当な相槌に、彼女は嬉しそうにしていた。
 結局カフェではなく学生の頃のようにファミレスで、と言い出した名前に賛成し、よく来ていたファミレスに入った。もう知っているスタッフもいなくなっていて、メニューやドリンクバーの種類も違う。

「年とったなー!」
「高尾はまだまだ学ランいけるって」
「えっ、まじか!?」
「背もあまり伸びなかったしな」
「真ちゃん、それは禁句だって……」
「えげつな〜」

 不思議と客は少なく、小声で話をする主婦や、ガツガツと飯をかきこむサラリーマンなどがちらほらといる程度だ。三人並んでドリンクバーを選んで、あのときと同じ物をグラスに注ぐお互いを笑う。
 懐かしい。けれど、不思議と久しぶりにあったなぁとは感じなかった。高尾はたまに顔を合わせていたが、名前はもう一年以上は会っていなかったというのに、開口一番「おつかれ〜」だったのには少しだけ笑った。アイスティーにガムシロを落とし、ストローをさす。高尾と名前が隣同士で座り、俺は正面でひとり座る。当たり前の流れができたのは、いつ頃だったかもう忘れた。どろりと液体の中を彷徨うガムシロをかき回して、メニューを開く。

「そういえば結婚おめでと」

 名前の表情にからかいの色はなく、あるのは優しげな眼差しだけ。高尾が目を見開いて、それからゆっくりとはにかんだ。

「おう、あんがと」
「もうさー、視界の隅でキラキラ光ってんだもん。気になるよね」
「まじで? いやぁ照れるわ」
「やっぱり和成が一番だったね〜」
「そんな気はしてたよなー」
「自分で言うなよ!」

 高尾の肩を叩いて笑い、左手にはめられた指輪を見て「いいねぇ」と声を高くする。頬杖をついてメニューをめくる彼女の手に指輪の類はなく、あのころ言っていた彼氏ともうまくいってないのかもしれない。今深くつっこむのはさすがによくないなと、口を結んだまま二人の方を見ていた。
 どれにしようか選んでいると、ポケットに入ったままの携帯がプルプルと震える。こっそりと取り出して確認をすれば、そこには恋人の名前が映し出される。新着メール一件の文字に舞い上がることもなくなったが、嬉しくはなる。くだらない内容なのに、きっちりと返信をする自分もゲンキンだ。高尾あたりならメールごと消す。

「真太郎決まった?」
「あ、ああ、すまん、まだだ」
「携帯ばっか見てんなよぉ」
「うるさい」

 隠す必要もないだろうとテーブルの上に携帯を置いて、きのこパスタを指さした。「呼んじゃうよ」ピンポーン。軽快な音が店内に響いた。店員さんにメニューを注文していく彼女の顔をぼーっと眺めつつ、「いいのか」と高尾に問う。

「なにが?」
「名前とはいえ女性と出かけることだ」
「大丈夫ってか、名前と仲いいし。それに、あいつも名前のことわかってるから」

 なにを、と聞く前に名前が「和成」とトゲのある声で抑えた。聞きなれないトーンの音に思わずびくりとする。社会人になると、やはり厳しさも身につくものなのだと関心してしまう。あの頃もちゃらんぽらんからは想像もできない。店員さんは笑顔のまま立ち去る。

「あんま無駄なことばっか言わないでよ」
「僻むなよ」
「そうじゃないけど……ああもう」

 苦虫を噛み潰したような表情のまま、彼女は「なんでもない」と首を振った。「そんなことより」ぱっと笑顔を浮かべ、名前は人差し指を俺に向けた。

「この間病院で真太郎みたよ」
「は?」
「後輩のお見舞い行ったときにチラっとね〜」
「はぁ!?」
「わかるかな、最近足にヒビいれた後藤くんって言うんだけど。わんこっぽい感じの」
「ああ……って、お前な、見かけたなら声をかけろ!」
「いやーなんか近寄りがたくて。まじで医者なんだもん、無理無理〜」

 高尾はふーん、と、目を細めた。

「後藤くん、ねぇ。年上の次は年下か」
「もー、あんたほんと人の恋愛事情にばっか首突っ込むね」
「親友の婚期を心配してんのさぁ」
「大きなお世話だよ、ばか」

 なにか声にするべきだと思って口を開いたのに、喉からはなんの信号も発信されず、いつもより大きく息を吸い込むだけで終わった。そういえば俺は、彼女の恋愛事情のことを全然知らない。昔からずっと知らなかった。三人で集まれば必然的にそういう話題を出すのは高尾で、それに嫌々ながらも彼女が答えるのを、俺は呆れながら聞いていた。けれどよく考えれば、こいつは、高尾は、三人で集まる前から、名前のことを知っていたのだ。昔から積極的に恋愛的な話に参加してこなかったせいか、か過去の自分を思い出す。引っ掻き回すのはいつも高尾の役割だ。名前はいつもあっさり恋人を作って、ひっそりと別れてしまう。あまり長続きはしないほうだと嘆いていたのは、高校三年のころだった。
 テーブルに置いた携帯が着信を知らせる。手にとって、内容を確認しようとメールを開くと、高尾が「わり、職場にちょっと電話してくるわ」と立ち上がる。彼女から届いたこんど二人に会わせてくれというメールに、そういえばと思い出す。高尾が立ち去り、一人アイスティーを飲む名前も俺と同じように携帯を見ていた。縦にしか動かない指は、きっとただ手持ち無沙汰なだけだろう。

「名前」
「ん〜」
「お前にまだ言ってなかったと思うんだが、」
「……なに?」

 ぱっと顔を上げた彼女のぱっちりとした目が俺を射抜いた。一瞬ドキリとしたのを悟られないように、表情に気をつけながらセリフを続ける。

「来年くらいに、結婚しようと思ってるんだ。今の彼女と」
「……は!?」
「だからお前も婚期を逃すなよ」
「え、ちょっと、ま、じっすか?」

 絶望、の二文字が見えるようだった。彼女は目をかっぴらいて、手のひらで口元を抑えた。

「まさか、こんな真太郎が結婚するなんて……」
「どういう意味だ貴様」
「そのまんまだよ」

 およおよ、なんてわざとらしい言葉で泣き真似をする名前の足を踏むと「痛いわボケ!」と低い声で唸る。思わず笑みをうかべると、名前は大きなため息を吐いて「式には呼んでよね」と俺の足を蹴った。
 言いたいことを言ってスッキリした。いつ言うかのタイミングが、なかなか難しい話題だった。高尾にはもう言ってあったし、あまり大きな声で言いたくもない。ひっそりと、知ってほしい人にだけ知っていてほしい。結婚式はあげる予定だが、大人数でするのはお互いに趣味ではない。

「わりーわりー……なんで真ちゃん笑ってんの? きもい」
「黙れ高尾」
「黙っときな和成」
「え、なにこの扱い!?」

 がやがやと店内が騒がしくなる。見慣れた学ランやブレザーを身にまとう子どもたちが、ふざけながらメニューを見ている姿がちらほらとあり、自分がどれほど年をとったのか改めて胸に刺さった。結婚、なんて。あのときの俺達には現実味のないただの単語だったのに。目の前に座っている友人ふたりは、どうして暖かいコーンポタージュがメニューにないのか、静かに怒りの炎を燃やしている。俺はかぼちゃの冷製ポタージュがあれば、それで十分だ。


◇ ◆ ◇


 真っ赤な髪をした友人と、涼し気な水色の髪をした友人がにこやかに扉を開けた。このふたりがこんなに穏やかに笑みを見せることなんて、もう二度とないかもしれない。

「なかなか似合ってるじゃないか」
「昔から見た目だけは良かったですもんね」
「褒めているのか? 貶しているのか?」
「褒めてるんですよ」

 ぞろぞろとカラフルな友人たちが部屋に入ってくる。眠そうにしていたり、菓子を貪っていたり、あいかわらずの様子に吐きそうになったため息を慌てて飲み込んだ。こんな日くらいこいつらの面倒を見るのはやめよう。ちょっとした近況報告やこども自慢、育児へのアドバイスなどなど。流れこんでくる声は久しぶりなのによく馴染んで、落ち着く。肩からふっと力が抜けたとき、自分が緊張していたことに気がついた。自分の爪を眺めながら、ゆっくりと呼吸を繰り返す。こんな調子では、笑われてしまう。真っ白のタキシードにワックスの匂い。頭が痒くなったときはどうやって掻こうか。そんなことを考えて、緊張をほぐしていく。
 俺達の間ですでに結婚したのは赤司だけで、それもどうやら親のすすめた結婚だったらしい。詳しく聞ける話でもなかったが、赤司が「俺の家族になる人だ」と紹介してきたときのあの表情が全部語っているようだった。俺もあんな顔をしているのだろうか。鏡をみる勇気はない。せめて彼女のウエディング姿を見るまでは、顔を引き締めていたい。

「じゃあ、そろそろ行ってみるよ」
「ああ、わざわざすまない」
「コケんなよ」
「お前と違ってそんな間抜けではない」
「うっせ!」

 べえっと舌を出した青峰を、黒子がくすくすと笑いながら宥めた。
 入れ違うように高尾と名前が入ってきて、甲高い口笛が部屋に響く。薄いピンクのドレスをきた名前が、「おお」と目と口を丸く開いた。

「めっちゃ似合うじゃ〜ん」
「つーかよくそのタッパにあうタキシードあったな」
「お前くらいなら選びたい放題だろうな」
「おいこら緑間」
「和成も似合ってたよ。馬子にも衣装って感じで!」
「褒めてねーじゃん!」

 あいかわらず無駄口の多い奴らだ。高尾は名前の二の腕をつまみながら「こんなお前に言われたくねーなぁ」なんてデリカシーが無いセリフを吐き捨ててる。名前はにこやかにピンヒールで高尾の足を踏んづけた。
 ぴろーん、と緊張感のない音がして、高尾がわりぃと右手を上げた。

「嫁さんからだわ。ちょっと出てくる」

 ポケットから携帯を取り出して、耳に当てる。もしもし、という声がいつも聞いてる声とは違う優しさを纏っていて、なんだかこっちが痒くなる。名前は腕をさすり、扉を見つめながら「ラブラブなんだから〜」と苦笑した。綺麗に伸ばされた髪の毛が、太陽の光で輪を作っている。右手の薬指には、銀色の指輪がはまっていた。

「ほんとに一年後に結婚するとはねぇ」
「嘘は言わん」
「知ってるよ」

 うっすらと開けた窓から風が差し込んで、真っ白なカーテンがふわりと揺れた。数メートル離れたところに立つ名前は、一瞬顔を俯かせた。「結婚かぁ」疲れたような、苦しそうな、震えた声だった。ドキリと心臓が唸る。あのときと同じ痛み。ほどけていた緊張が急に戻ってきた。顔を上げた名前は、右の口角を上げて笑顔を見せた。

「おめでとう、緑間」

 見覚えのあるあの目。かつて嫌になるほど見てきたモノ。体中の血液がすべて心臓に集まってしまったのか、つま先や指の感覚が消えていく。殺したいほど憎いのに、死にたくなるほど愛しい人間に向ける、劣情の眼差し。どうしてお前は、そんな目をしているのだろう。いつから隠していたのだろう。お前は。お前だけは、違うんだと信じてたのに。

「……ああ、ありがとう」

 そんな物騒なモノが自分に刺さっているなんて、思いもしなかった。今までずっと、隠してきたくせに。恋人をつくって、指輪までして、俺の友達として、並んで歩いていたくせに。今日、この場所で、お前は打ち明けるんだな。
 俺はどうして、気づいてやれなかったんだろう。彼女の耳に刺さったエメラルドグリーンのピアスは、俺を責めているように見えた。いや、きっと、責めていた。
 裏切られたような気持ちのまま、俺は眼鏡のブリッジを押し上げて震える指を誤魔化した。泣きそうな瞳に見つめられ、どうしたらいいのかさっぱりわからない。電話を終え戻ってきた高尾の言葉は一切脳に届かず終わる。ウエディング姿の恋人の姿には、嬉しさとは別の感情も混ざった涙を流した。左手で顔を覆って、真っ暗な視界の中で考えるのは「どうして」という疑問ばかり。
 ヴァージンロードを歩く俺に向け拍手を送る名前の表情は穏やかで、しっかりとした声で「おめでとう」と繰り返す。隣に座っているのは先輩の宮地さんと大坪さんだった。

「お幸せに」

 小さく、ぽつりとこぼれ落ちたセリフは、彼女からの最後のまじない。
 おは朝占い。今日のかに座は一位だった。今年一番の幸せが訪れるでしょう。ラッキーカラーはエメラルドグリーン。ラッキーアイテムはピアス。そういえば十二位は、名前の星座だったかもしれない。俺はあいつの星座を、自信を持って答えることができない。
 はじまりを告げるファンファーレが、高らかに鳴り響いた。隣で涙をながす恋人を、ずっと、幸せにしていこうと、神に誓うより前に名前に誓う。
 そっと心の中でつぶやいた。
 さようなら、名前。

13.07.07
Happy Birthday to you.
I think very tenderly of you.