お話 | ナノ

 大学生になっても、高校のときとなにも変わりはなかった。俺はバスケ選手兼モデルというわらじを捨て、ただのモデルになった。あんなに焦がれたバスケから離れるなんて考えられなかったのに、決断を迫られれば人間はあっさりと切り捨てられるものだ。これからは趣味でやっていくんスよ、と缶ビールを持つ笠松先輩に言ったら、あの人はすごく寂しそうな顔で「そうか」と笑った。

「お前はな、俺にとってヒーローみてぇなやつだったよ」

 刈り上げたうなじを自分で撫でながら、笠松先輩はぽつりぽつりと高校時代の思い出を話してくれた。負けたときのこと、勝ったときのこと、俺の最後の試合を見に来ていたこと。笑いながら、でも泣きそうになりながら教えてくれた『俺』のことを、きっと、ずっと忘れない。



 ポケットにいれたままの携帯が震えた。外は生憎の雨で、どうやら台風も近づいてきているらしい。彼女から聞いただけで、本当かどうかはわからない。俺の彼女はいつも適当なことをしか言わないから。着信はその彼女からで、もうすぐ駅につくよ、という内容のメールだった。運転しながらメールすんなよ、ともう何回も言ったセリフを送り返せば、すぐに「信号待ち」と言い訳された。そういうことじゃねーってば。ため息は電車の音にかき消された。
 乾燥した頬を指でつまんで、すこしめくれた皮をひっかいた。通り過ぎる女性のうち、五人に一人に二度見される。音のないイヤホンは声をかけられないように、かけられてもさりげなくシカトできるように。高校のときはそれも営業だとわりきれていたのに、年をとると他人と関わるのが面倒になる。元々好む性格じゃなかったけど。
 駅のロータリーに出ると、見慣れた軽自動車が停車していて、仲の運転手は口を動かしながら携帯を見ていた。今日は何を歌っているんだろうか、予想しながら窓ガラスをノックした。ぱっと顔を上げた名前が、はやく乗って、と大きな声で言う。

「おつかれさま〜」
「迎えありがと。傘持ってないから助かった」
「あんた天気予報見ないもんね」

 助手席には色気のないビニール傘と彼女のトートバッグ。傘は端によけて、バッグは俺が抱える。彼女と付き合い始めて、当たり前になったルール。カーエアコンの風を弱めると、彼女はハンドルを握った。

「スーパー寄ってから家行けばいい?」
「うん。俺の家飲み物なんもない」
「おっけー」

 車の中に流れていたのは彼女が好きだというバンドの曲。俺にはさっぱりわからない。
 ワイパー動く音と、彼女の鼻歌。運転席側の肘置きに頬杖をつくと、「邪魔くさいなぁ」と文句を言われるがどかされたことは一度もない。なんやかんや俺に甘いんだ、こいつは。だけど車の中でも眼鏡と帽子は外せない。どこで誰が見ているかわからないでしょうと彼女が口うるさく説教をするからだ。カサカサした頬をさすりながら、繋がれたiPodをいじる。選曲の権利は俺にも与えられているからだ。

「笠松先輩と飲んだんだっけ」
「あ、うん、一昨日うち来て二人で飲んだ」
「どうだった? 変わってた?」
「ぜーんぜん。あの人は変わんねえっしょ」
「それもそうか」

 笠松先輩のことはよくわからないけれど、あの人はとても優しいってことだけはわかる。突然連絡を寄越したかと思えばお前のマンションに泊めろなんて、青峰っちあたりに言われてたら断っていた。けれど相手はあの笠松先輩で。なんでもないときに連絡をするほど、あの人が暇じゃないこともわかってる。緑間っちとタメはるくらいツンデレなあの人なりに、思うことがあったんだろう。

「ホールのチーズケーキにしたよ」

 カチ、カチ、とハザードが点滅する。

「……タルトがよかった」
「わがまま言わないでよ。去年タルトだったじゃん」
「はーい」

 最後、先輩はなんて言ったんだっけ。
 雨は激しさを増すばかりで、きっと明日まで止まない。濁った空から落ちてくるしずくを、ワイパーが落とす。彼女は歌詞を口ずさみながらまっすぐ前を向いていた。

「ありがとう、黄瀬」
「……」
「遅くなったけど、誕生日おめでとう」

 毎年変わらない彼女からの愛の告白に少しだけ恥ずかしくなりながら「ありがとう」とお礼を言った。思い出した、笠松先輩の最後のセリフも彼女とまったく同じだった。意外と酒の強い先輩は焼酎の水割りを自分で作りながら、俺の金髪をがしがしと撫でた。同じように飲んでいた俺はもう出来上がっていて、それをただ甘受していた。真っ赤な顔をした男二人、面白くないバラエティーを流しながら酒を飲んで。

「ありがとな、黄瀬」

 泣きそうだった。

「お前のバスケ、好きだったぜ」

 カーステレオに映しだされたのは、俺の誕生日から数日経った今日の日付と時刻。名前はきっと、家に帰ってチーズケーキを食べながら泣くはずだ。そんな彼女にティッシュを差し出して、俺も泣く。生まれてきてよかったなぁ。こっ恥ずかしくて言えないセリフを、うっかり口に出さないように気をつけて。

「今から泣いてたら明日の仕事行けなくなるよ」

 困ったように頭を撫でる彼女の手は少しだけ冷たい。うん、とひねり出した声は、ずっと変わらない、ガキみたいな声だった。

13.6.18
Happy Birthday dear KISE.