お話 | ナノ


 放課後、氷室くんの右隣に座りながら、彼のペン先を視線で追う。英語をさらりと書く指は長くしなやかで、あー彼氏の指もこんだけ綺麗ならいいのに、なんて、失礼なことを考えてみる。すこし手首をひねったと、今日の英語の授業を休んだ氷室くんに英語のプリントを見せてくれないかと言われ二つ返事で了承したのだ。目の保養にちょうどいい、なんて最低なことを思ったからだ。
 こんなイケメンと、夕日が照らす放課後の教室なんて。ちょっとしたドラマみたいで、なんやかんや見惚れてしまう自分にちょっとだけ呆れたりもする。こちらの角度から見える右目に、ちょっとだけ胸が高鳴るのもまた事実である。彼氏に心でごめんと謝りつつも、反省はしない。氷室くんが形のいい唇を動かした。

「ごめんね、わざわざ」
「いや、平気だよ。気にしないで」

 すぐ終わるから待ってて、と言われ、断れなくて残ることを選んだのは自分だ。なのにこんなにも、後悔している。教室に漂う空気がもし見えるのであれば、きっと薄い紫色だと思う。欲望の色。制服から出ている腕を撫でる空気が、いやにぬるくて鳥肌が立ちそうだ。ブレザーに入れていた携帯が振動し、ピクリと身体が揺れた。取り出すと、『新着メール一件』の文字。彼氏からきたメールに「居残り勉強してる。バイトがんばれ」とだけ返す。カチリと画面を暗くして、机の上に置いた。隣の席にすわる氷室が小首をかしげる。

「彼氏?」

 やっぱり、ドラマに出てきそうな人だなぁと思った。夕日を背負って私に笑いかける彼はまるで異次元の人間みたいで。美しくて麗しくて、頭がクラクラとする。ああ、私ってもしかするとミーハーだったのかも、なんて考えて、彼の手元のプリントを睨みつけた。

「あーまぁ、一応」
「一応ってなんだよ」
「照れ隠しってやつだよ」

 ふふふ、と声に出して笑ってみると、自分でもわかるほど、わざとらしい声だった。氷室くんは「そうか」とだけ言って、また英語をすらすらと書き始めた。流れるようなアルファベットの羅列は綺麗で、なんだか見とれてしまう。商品化できるんじゃないだろうか、なんてアホみたいな考えがぽつりと浮かんで。耳の裏を少しかいて、その考えを消した。
 机に置いた携帯がもう一度震え、彼の右目がちらりと携帯を一瞥した。ああ、気が散っちゃうか。そう思って携帯を掴み、軽く返事をして携帯をポケットにしまった。がらりとした机の上が寂しく感じて、自分の両手を机に置いた。すると、左手にそっと、彼の手が重なった。

「え、」

 机、わたしの手、その上に氷室くんの手。きゅっと握られた自分の左手から、彼の温度が伝わる。どくんどくんと心臓が活発に動き始め、わたしの頭がずきんずきん痛み出す。彼の一回り大きな掌から、腕、肩、そして右目へと視線をずらしていくと、にこりと笑う、オトコがいた。細められた右目に灯る色欲の火が、どろりとわたしを襲う。身体がぼっと火を灯したように熱くなる。
 彼の手がゆっくりとわたしの手を握り、指と指が絡まり合う。ごつごつした骨っぽい指に、また彼氏との違いを確認し、目を開く。そうだ、このオトコは、彼氏じゃない。つよく握られているわけでも、ましてや無理強いされているわけでもない。ただ掌を合わせ、指を軽く絡めているだけ。それなのに、わたしは彼の瞳を見つめたまま、動けないでいた。美しい陶器のような肌に書かれたほくろが笑ったような、気がした。
 彼はわたしの手をゆっくりと持ち上げると、口元へと運んだ。私は、自分の手と彼の手を見つめながら、ゆっくりと息を吸った。心臓がうるさくて、呼吸がしづらくて、それでいて、興奮する。彼がわたしの目を見つめながら、爪の先に唇を押し付けた。ぷちゅ、という柔らかな音が指先で弾け、わたしは生唾を飲み込んだ。

「色々キミに、教えて欲しいことあるんだ。今日、俺の家に来れないかな?」

 ヴー、ヴー。ポケットに入れていた携帯が震える。わたしは彼の手を、優しく握り返した。ヴーヴー。震える携帯を、氷室くんは特に気にしていないようだった。

「…途中、コンビニ寄ってくれる?」

 さらりと口から滑り落ちた言葉が、オンナのソレで。まるでわたしから誘ったみたいな声色に、自分で嫌悪を抱いた。わたしの言葉に、彼は大きく頷いた。「いいよ」。携帯の震えが止まり、教室には静寂が訪れた。彼は、わたしの爪をぺろりと舐めた。
 彼の家に行けば、この世界にはもう、二人だけ。


12.09.11