お話 | ナノ

 夜中にふと目が覚めて、隣で横になるサシャの寝息を聞きながらなんだ夢だったのか、と、思う。ぼんやりと脳に浮かんでいた映像が百倍速で離れていく。もう思い出せるのは登場人物くらいで、どんなストーリーだったのかすらわからない。けれどとても、楽しくて面白いことだけはうっすらと覚えていた。夢の中のわたしは、自分でも驚くほどの笑顔を浮かべていた。歯を見せて笑う、なんて、もう何年も前からしていない。
 寝返りを打つと、喉が乾いていることを自覚して途端にピリリと痛んだ。溜まった唾液を飲み下してから、そっと上半身を起こす。ぼんやりと見える人影を踏まないように注意しながらなんとかベッドから降りることに成功し、起こさないように詰めていた息を吐き出した。汚れた靴に足を突っ込んで、静かに扉を閉めたけれど、バタンとわりと大きな音がして心臓がはねた。扉の向こうは大丈夫だろうかと耳をドアに当てたけれど、サシャの寝言がうるさいことくらいしかわからないし、あれで起きないのならきっと誰も起きないはずだ。
 外は思ったよりも明るく、月は足元を照らしてくれた。明かりのついていない食堂を目指して、ゆっくりと歩いた。

 ◇

 綺麗に並べられたコップをひとつ手に取り、それに水を入れ、すぐ側の椅子に腰掛けた。飲んだらすぐ戻ろうと思っていたのに、すっかり眠気は飛んでいた。もうすこしここでゆっくりしよう、という気分になってしまい、明日の訓練に支障が出ないことだけを祈る。カチ、と音がして、時計の針が進んだことを知る。ひとつだけ火を灯したランプをぼーっと眺めていると、ギギィ、と木がしなる音がして慌てて立ち上がる。頭が警報をならし、やばい、としか言葉が思いつかなかった。

「なんだ、お前も起きてたのか」

 勢い良く振り返ると、そこには苦笑を浮かべるライナーがいた。

「ラ、ライナーか……驚かさないでよ、びっくりするじゃん」
「こんな時間に食堂が明るくなってて俺もびっくりしたよ」

 細心の注意をはらいドアを閉めると、足音を立てないように歩く。並べられたコップからひとつ綺麗なものを取った。どうやら彼も喉が渇いたひとりのようだ。教官でなかったことはよかったが、黄昏れているところを見られたのは恥ずかしい。ひくりと動く頬をつねり、なんとか平静を装う。傾けたポットからこぽこぽと水が注がれた。

「あんまり起きてると明日死ぬぞ」
「物騒なこと言わないでよ。多分大丈夫だし」
「うそつけ」

 私の方を見て、立ったまま水を飲む。ごくりと上下する喉仏に、自分とは違う生物であることを思い出した。がっちりとした二の腕も、分厚い胸板も、低い声も、全部が異質だ。歩いてきたライナーが私の目の前に座ろうとしているのを察して、「待って」と声をかけた。足を止め、怪訝そうな顔で私をみるライナーに「そっちじゃない」と首を振った。

「そっちじゃなくて、こっち。隣に座ってよ」
「は、はあ?」
「前はダメ。なんか嫌だから」
「何だよそれ」

 可愛いワガママでしょうと言えば、ため息を吐かれた。クリスタ以外の女はみんな同じに見える目の病気か何かを患っているのかもしれない。ライナーは首の裏をがしがしとかいたあと、ゆっくりと私の隣へと移動し、複雑そうな顔で座った。
 ありがとう、と言うべきか悩んで、結局、何も言わなかった。

「どうかしたのか」
「どうもしない」
「そういう風には見えないから聞いているんだ」

 優しい声だ。溶けるように。
 夢見が良すぎた、なんてバカみたいな話に付き合わせるつもりもなかったし、なにも覚えていない以上しゃべることもできない。ランプの光が揺れているのを目で追いながら、彼の腕を掴んだ。くいっと引っ張ると、ライナーは無言で身体を傾けた。しっかりした二の腕に頭を預けると、頭上からため息とはまた違う、けれど息を吐いた音がした。

「何だよ。やっぱりなんかあっただろ」
「だから、別にどうもしないってば」
「じゃあなんだよこの状況」
「ライナーの筋肉にさわりたかった」
「それだけか」
「それだけだよ」

 不機嫌そうな声は、不愉快に思っているからじゃない。私がなにも言わないからだ。同期の中でも彼は所謂“お兄さんポジション”というやつで、人の面倒をよく見ている。多少私のことも気にかけているのだろう。私は彼の年下でもあるし、比較的仲のいい仲間でもある。
 暖かい人肌に、軽かったはずの瞼が少しだけ重くなり、重力に逆らえなくなる。鍛えあげられた腕の、安心感というやつか。そういえば、さっきの夢にもライナーが出てきたような、気がしなくもない。もうぼんやりとしか覚えていないのに、彼の笑顔ははっきりと思い出すことが出来た。夢の記憶だとわかるのは、彼の背景には壁のない世界が広がっているからだ。どんな夢だか、忘れなければよかった。

「ライナー」
「今度はなんだ」
「抱きつきたいって言ったら、さすがに怒るよね」

 確信を持って投げつけた質問に、ライナーは何も言わなかった。それが答えじゃん、と思いながら頭を起こすと、彼が立ち上がる。それから、光の速さで背後をとられ、首元の布を引っ張られた。ぐえ、とカエルが潰れたような声を出しながら立ち上がると、ぐるりと身体が半回転する。目の前に迫るたくましい胸板と、白い布。肩に回された腕は私の倍くらいあるかもしれない。暖かく、たくましい。蹴飛ばした椅子が倒れた音が、薄暗い食堂に響いた。気にしている余裕はない。

「そういう発言は慎め。お前はなんもわかってない」

 父親のように説教を始めるライナーは、ぐいっと私の頭を自分の身体に押し付ける。鼻がこすれて少し痛いが、クレームを言える立場ではない。縮こまっていた腕を伸ばして、彼の背中へと回して縋るように服を掴んだ。

「ありがとう」
「俺は一応説教もしているんだが」
「ねぇライナー」
「……なんだ」
「今日はよく寝れそう。ライナーの体温は、すごく落ち着く」

 石鹸の匂いと、それに混じったライナーの匂いがふんわりと鼻腔をくすぐった。呆れと怒りが滲んだため息を吐いたあと、彼はいつもと同じ溶けるような優しい声で「今日だけだ」と言う。抱きしめる力が強くなり、彼の身体に額を擦りつけた。夢でみた壁のない世界よりも、今のほうがとても幸せだと思った。けれどやはり、どうしても、笑うことはできなかった。

13.05.23