お話 | ナノ

 手首についた真っ赤な鎖のような跡は、わたしをベッドに縛り付けているかのようだった。心のなかに沈んだ飴玉のような感情がわたしを殺しているのだと自覚してはいるが、それをどうにかしようとは思わなかった。長袖を着てしまえばギリギリ見えない位置。腕時計をつけるように巻きついた痣を見るたび、行為中の彼を思い出す。身体が熱くなることも、羞恥で涙を浮かべることもない。ぎゅっと握りしめると、ぴりりと痛みが走った。
 寮は面倒だからと一人暮らしをしている。料理は得意だけど面倒だから自炊はしたくないからたまに女の人を呼んで作ってもらっている。わたしを呼ぶのは単に体つきが好みだからで、料理が得意だからじゃない。どろっとしたハチミツをホットティーに落として、ティースプーンで底に溜まった液体を溶かしながら彼は目を細める。

「これで料理も出来たら一番だったのに」

 日本語は便利で、難しくて、残酷だ。彼が言う一番の意味を、わたしは理解することができなかった。“一番いい”のか、“一番の女”なのか、考えたけれど、結局どちらの意味でも嬉しくはないなぁと彼の背中を見ながら思った。返事がなかったことに怒った様子もなく、彼は「飲む?」と振り返る。「いらない」断れば、彼はいつもと同じ優しげな笑顔で「そう」と吐き捨てた。
 慎ましやかな女が好きだと言う。セックスのときに自分から腰をふるような女はもう飽きたと。ピロートークにしてはあまりにも色気のない会話だったけれど、わたしが彼をちゃんと意識したのは、この時がはじめてだった。
 彼がバスケ部のエースで、美人で、背が高いから、わたしは誘いを断らなかった。学校の人気者とセックスしたことはちょっとした自慢話にでもなるかと、そんな軽い気持ちだった。そのときちょうど彼氏もいなかったし、処女は捨てたあとだったし、高校二年の秋だったし。まぁこれもセイシュンってやつか、なんて。
 LEDの照明が目に染みる。眠気はもう限界を超えていた。

「俺、シャワーあびるけど」
「どうぞ。わたしは朝でいいや」
「あんなに汗かいてたのに気持ち悪くないの? 信じられないな」

 てめーの体力に付き合わされるこっちの身にもなれよクソが。
 目を見開いた氷室くんに背を向けると、くつくつと空気の震える音がした。床に落ちていたスウェットを拾い上げて、ぺたぺたと幼い足音を立てて去っていく。バタン、と静かに扉が閉まり、ようやく大きく深呼吸することができた。
 自分のからだを温めるように丸くなると、手の甲にくっきりとついた歯型を見つける。わたしの歯並びの悪さがくっきりと映されていて、なんだか急に悲しくなる。暖めあうハズの行為で冷たくなる身体も、反比例して高鳴る心臓も。脱脂綿につつまれた感情が暴かれることはない。彼はそこまで深く足を踏み入れないからだ。上澄みだけを掬っていく。かき回してくれればはやく溶ける。飴玉はぬるま湯に使ったままぴくりとも動かない。いやだと泣く喚くわたしはその飴玉が溶けるのをじっと待っている。
 明日になったら彼はいなくて、わたしは一人で学校へ向かう。そして朝練を終えたタツヤに向かって、「おはよう氷室くん」と綺麗な仮面を見せつけるんだろう。水の流れる音を聞きながら、赤子のように丸まって眠った。タツヤは誰よりも美しい。そう思いながら。

13.05.15 - 13.05.21
BGM:戯言スピーカー