お話 | ナノ


 カチャン、と食器の重なりあう音が遠くから聞こえて、微睡んでいた意識が引っぱり出される。ベッドの脇の置かれた電子時計を確認すれば、『08:42(sun)』と映しだされていた。うっかり寝過ぎてしまった。すっかり冷たくなったシーツに身体を寄せて、枕を抱きしめる。彼女は、いつから起きていたのだろう。俺も起こしてくれればいいのに、なんて。きっと起こされても気にせずに寝るんだろうけれど。
氷室はベッドの脇に投げ捨てられたボクサーパンツを拾い上げ足を通す。同じように放り出されたブラックジーンズを履いて、煩わしいベルトをするりと抜いた。キッチンに立って鼻歌交じりに皿を並べる彼女の後ろにそっと、バレないように滑り込んで、くびれた腰に腕を回す。

「Good morning, honey.」

 ちゅっ、とリップ音と共に彼女の頭にキスを落とせば、彼女が「わぁ、」と声を出す。振り向いた彼女はわずかに目尻を赤くして「Good morning.」と笑ってみせた。

「今日の朝食は?」
「ベーコンエッグとサラダ」
「うん、いいね」
「私が作るから?」
「そう」

 幼さが残る笑みを浮かべて、蓋のされたフライパンの方へ視線をうつした。すっぽりと収まる華奢な身体だとか、キャミソールから伸びる白い腕だとか。こうやって、俺のキッチンに立って朝食を作ってくれたりだとか。心のなかがぬるくなり、どろどろに溶かされるような感覚。しゅわしゅわと炭酸が弾けるような楽しさと、ホットティーを飲んだときの穏やかさ。氷室はするりと腕をほどいて、彼女の隣に肩を並べた。「上半身裸のままだよ」「あえてさ」「破廉恥ね」。なんて、たわいのない会話をして。ちょっとした、新婚気分てやつ。こみ上げてくる幸せを、なんとか喉元で堰き止めて、いつものポーカーフェイスを貫いた。彼女がゆるりと笑って「ご飯食べるから上着てちょーだい」と言うので、氷室はしぶしぶクローゼットから白いシャツを出して、それに腕を通した。
 蓋をとってスパチュラ――日本では、フライ返しというやつ――を使って二つならんだベーコンエッグを皿に乗せた。包丁をつかって、くっついた目玉焼きの間に軽く切れ込み入れる。

「まな板の上でやりなっていつも言ってるだろう?」
「だって、めんどうなんだもん」

 まるで反省の色の見えない表情であっけからんと言うものだから、氷室は呆れて「わかった、諦めるよ」と言った。運んで運んで、という彼女のほっぺにキスをして、切れ込みの入ったベーコンエッグの皿とバターロールの乗った皿を持つ。彼女はフォークとナイフ、サラダのボウル。リビングのテーブルに並べて向い合って座って、「いただきます」と両手を合わせた。

「美味しいね」
「ふふ、ありがとう」

 嬉しそうにはにかんで、サラダにフォークを差す彼女に、氷室は堪らえきらずに笑みを浮かべた。こうやってたまに泊まって、朝を迎えて。穏やかな朝食を一緒にとって、笑い合ってキスをする。こんな日が、いつまでも続けばいいと思ってしまう。“ずっと”だとか、そんな安易でチープな言葉で彼女を縛り付けたくはないのに、考えることはそんなことばっかりで。好きで、幸せで。胸がぎゅうっと締め付けられる感覚を、氷室はまた、喉の奥で堰き止めた。

 食べ終わった食器を重ね、シルクの中に置く。水につけておいて、あとで洗うのだ。氷室は彼女の肩に腕を巻きつけて、ソファに座ったままテレビを見る。日曜日のテレビは相変わらずつまらないなと思いながらも、チャンネルをかえることはしない。つやつやの髪の毛を撫でていると、「タツヤ」と名前を呼ばれる。テレビから視線をはずして、隣にすわる彼女を見る。なぜか泣き出しそうな表情をしていて、氷室はわずかに目を開く。

「タツヤ」
「なぁに」
「…私、幸せすぎてどうにかなっちゃいそう」

 するり、氷室の肩におでこをこすりつけると、彼女は「あのね」と小さく言葉を零した。

「いつまでも、こうしてたいなって思っちゃうの。そんな言葉でタツヤのこと縛ったり、未来を約束させたくないのに。好きで、幸せで、そんなことばかり考えちゃうよ。すごく幸せで、泣いてしまいそうだよ」

 穏やかな、それでいて切なさをにじませた声音が、ゆっくりと氷室の鼓膜を揺らして、脳に到達した。ああ、そうか、この感情は。喉の奥でずっと堰き止めてきたこの感情は。肩にもたれかかる彼女を引き剥がして、うっすらと開いたサーモンピンクの唇にキスをした。重ねただけのその行為にだって、こうも幸せな気持ちになる。いきなりのことで目を開く彼女の頬を、骨ばった手で撫でた。

「俺も、すごく好きだ。ずっと同じ事考えてた。好きで、幸せで、苦しくて、泣いてしまいそうなんだ」

 至近距離で合わさった、熱を孕んだ視線に、氷室はたまらずもう一度口付けた。そしてゆっくりと彼女の身体を倒し、ソファーに横たえた。顔の横に肘をついて、頭を抱えるように抱きしめた。ああ、好きだ。あらためてそう思って、喉の奥で堰き止めていた“カタマリ”を、出した。いっきに目頭が熱くなり、喉に“カタマリ”が詰まって、苦しい。耐え切れずに唇を離すと、彼女が笑って氷室の前髪を掻き上げた。クリアな視界に映る彼女が、穏やかに言う。

「タツヤは、涙さえ美しいんだね」

 ぽたり、彼女の顔に落ちたしずくが、まるで彼女の涙のように頬を伝った。彼女はそっと両手で氷室の頬を包み込み、涙がこぼれ落ちる瞼にそっとキスをした。

「好きだよ、…愛してるんだ」

 止めどなくあふれる涙が彼女の頬に落ちては流れる。穏やかな笑みを浮かべたまま、彼女は「私も愛してる」と、幸せそうに言った。腹の底から湧き上がる愛しさを涙に変えて、また大量の雨を彼女に降らす。
 氷室は自身の涙にまみれた彼女の唇にキスをした。ぺろりと舐め上げた幸せの味が、すこし塩辛いことを、氷室は今日はじめて知った。

12.09.04