お話 | ナノ

 首を前に倒すと、肩から首筋にかけてのスジが張って痛い。これだから事務はイヤなんだ、と、就活中は事務しかしたくないと思った脳みそで考えるのがアホらしい。結局わたしは現状に満足できない、わがまま野郎だ。やわらかな椅子にずっと座っているおかげで、腰はバキバキと音がなりそうなくらい固まっている。来週の日曜日に整体の予約を入れようと、デスクの上に適当に置いてあったメモ帳に「整体、電話」とだけ書いてノートパソコンのディスプレイに貼りつけた。
 教員たちの給与に関する仕事は、精神的に疲れるものがある。昼休みに入り、お昼ごはんを買いに席を立つ人たちを見ながら、とりあえず飲み物だけ買いに行こうと重い腰を上げた。腰に手を当ててひねれば、やはりバキッと音がしてやるせない。まだ二十代後半だというのに。
 だから彼氏が出来ないのよ、と、結婚秒読みの友人から言われたところで、わたしは曖昧に笑って肯定を示すしかない。頑張って自分を取り繕わないとコイビトが出来ないのであれば、わたしはいらない。思っていても、そんなこと言えやしないけど。
 最近買ったトートバッグの中から、使いふるした財布を取り出して、一年で金運がなくなるんだよなぁとぼんやりと考える。信じてないけど、そろそろ買い換えるべきかもしれない。さり気なく中に入っている紙幣を数えて、そっと事務室から出た。生徒たちとすれ違いながら、短いスカートから伸びる太ももばかりを見てしまう。思春期ということもあり少しふとましいが、ハリがあって白い、魅惑の太もも。あと数年後には、「なんであんな丈のスカートを履いて階段を登れたんだろう」と頭を抱えるのだろう。わたしがそうであったように。学校用の紺色のクロックスと、生徒たちの上履きを見比べながら学食前の自販機まで行くと、そこにはスーツ姿の背中も混ざっていた。白髪のない黒髪に、かっちりとした肩幅。それからトントンと地面を叩くつま先。

「おはようございます、先生」

 思い切って声を掛けると、彼は無表情のまま「ああ、おはよう」と返事を返す。財布のボタンを開けたり閉めたりを繰り返しながら横に並ぶ。すれ違う生徒たちは、わたしたちなんかに目も向けず、携帯を見せ合いながら校舎へと戻っていく。

「また悩んでいるんですか」
「優柔不断なんだよねぇ」
「聞き飽きましたよ」

 中谷さんが自販機の前でうんうん唸っているのは、珍しいことではない。東の王者とまでいわれるバスケの監督をしていて、優柔不断だなんて信じられない。どうやら「判断」とはまた違うらしい。よくわからない。彼がにらみ合いをしている自販機の隣にお金を入れて、今日は十六茶にしようと早々に決めてボタンを押した。

「君はあいかわらず即決だな」
「どれも美味しいですから」

 財布の中におつりを仕舞い、出てきたペットボトルを拾う。彼はようやく決めたのか、これにしよう、と千円札を入れてパックのコーヒー牛乳を押した。

「コーヒー牛乳、ですか」
「……美味しいだろう」
「まぁ、はい、そうですね、わたしも好きですよ、コーヒー牛乳」

 こうして度々、自販機の前で会話をすることが楽しみになっている。週に二、三度くらいだけど、こうして話しているだけでなんだかほっこりする。癒し系、とかではないんだろうけれど、わたしにとってはそれと同じような存在。屈んでパックジュースを手に取る姿に、なんだか息苦しくなる。まくり上げたシャツに、そこから見える手首や腕時計。皺の多い顔も、気分が落ち着かなくなる。
 バカみたいな、こんな感情、誰にも言えるわけがない。一回りも違う年上の、職場の人間が好きだなんて言えば、友人からどんな口撃に合うか目に見えるようだ。いつも確認してしまう、彼の左薬指。バスケ部の監督だからしていないのか、そもそも結婚していないのか。そんなプライベートに土足で踏み入るような質問が出来るはずもなく、結局コイビトくらいはいるんだろうなと想像しては死にたくなる。眼中にないことくらいはわかっているつもりだ。これでも空気の読める、大人という生き物だから。
 他愛もない話をしながら校舎に戻り、彼は職員室に向かうために階段を、わたしは事務室に戻るためそのまま廊下を進む。「じゃあまた」という耳に優しい声に緩む頬をどうにか抑え、「はい」と元気よく返事をした。ああ、クソ、どうあがいてもやっぱり好きだ。絶望的だ。




 次の日も同じように仕事を片付けていき、うるさく鳴る電話を取り、自習になった教室へと足を運ぶ。無駄口を叩く女子生徒を注意しつつ、その会話に混ざってしまうこともある、だめな事務員だ。四時間目ということもあり気の緩んでいる生徒たちをやんわりと窘めつつ、わたしの意識も自然と中谷さんのことへと変わっていく。今日は飲み物を買いに来るだろうか。事務室に戻ったら、財布を持って、自販機へと行こう。

「そういえば先生ってカレシいないの?」

 うっすらと茶色に染められた髪の毛をふわふわとさせながら、男子二名がわたしを見ていた。すぐに返事をすることができず、「あー」と濁った声をだすと、彼らはそれだけで察したのか歯を見せて笑った。「頑張れよ」なんて言いながら、彼女の惚気話を始めるのだからイヤになる。長続きすることだけは祈っておいてあげよう。高校生の恋愛なんてそんなもんさ、と心中で吐き捨てると、同時に昼休み開始のチャイムが鳴る。あいさつをおざなりに済ませると、生徒たちは駆け足で教室を出て行った。
 若さというものはいつのまにかなくなるものだと、高校を卒業して一年も立たずに気がつく。あのころは、あのころに、なんて。わたしに足りのないのは若さではなく、度胸だ。それもはっきり気がついている。
 ――若いから出来た“アタック”の仕方なんて忘れてしまったよ、キリハラくん。
 彼の惚気話を断片的に思い出しながら、どうやって異性と距離を縮めるのかさえ、わからないままだった。いつものように財布のボタンを開けて、締めて。カチカチとなる音を耳にしながら、クロックスを引きずって歩く。自販機の前に立って、昔のことを思い出しながら、今日はなにを飲もうかを考える。紅茶か、お茶か、ジュースか。今日はなんだか、決められない。一本だけ伸ばした右手の人差指が、宙をさまよう。

「悩んでいるのか」

 すっと隣に伸びた影は、楽しそうな声でわたしを笑った。

「はい、今日は少し」
「珍しいこともあるんだね」

 彼は真っ黒の財布から小銭を取り出して、カシャンカシャン、音を立てて自販機の中へと入れていく。どうやらもう決まっているようだ。点灯する光を見ながら、今日はやっぱりお茶にしようと腹をくくった。先生は昨日と同じコーヒー牛乳を持っている。「気に入ったんですか」はにかんで、「美味しかったんだ」とわたしにパッケージを見せてくれた。
 食堂から出てきた生徒はお弁当を持ちながら早歩きで校舎へと去ってく。生ぬるい風からはすっかり夏の匂いがした。

「今日はこれから事務室に行こうと思ってたんだ。ちょっといいかな」
「え、はい、なんでしょう」
「実は急な用事で、休みが必要になってしまったんだ」

 そう言うと、彼はポケットの中から折りたたまれた紙を取り出して、わたしに差し出す。慌ててペットボトルを小脇に挟んで、両手でそれを受け取った。

「日にちと理由は、そこに書いたから。お願いできるかな」
「はい、大丈夫です。申請手続きしておきます」
「ありがとう。じゃあ、また」

 紙を広げようと手を動かすと、彼はわずかに頭を下げて去っていった。左手はポケットに、右手はパックジュースを持って渡り廊下を歩く後ろ姿は、なんだかとてもかっこよかった。大人の色気ってパックジュースでも出るものなのか、と変に感心してしまう。
 財布とペットボトルを器用に脇で挟んで、落ちないようにゆっくりと歩き出す。夏に香りを肺いっぱいに吸い込んで、校舎の中へと陰を消した。カサリと音を立てて紙を開いた。

「あれ、二枚ある」

 一枚は彼が言っていたように、休みの希望とその理由。
 もう一枚は、簡単な一言と、来週の金曜日が書いてある。事務室の前で呆然と立ち尽くしていると、中から出てきた事務員さんに驚かれ慌てて中へ入った。自分の机に座ってもう一度その二枚の紙を見比べて、折り曲げる。一緒に入っていた。ちゃんと、この紙と一緒に。わたしに。
 机の中からセロハンテープを取り出して、三センチくらいで切る。「整体、電話」と書かれた紙の下に、彼からもらったメモを貼りつけた。流れるような字で書かれた「仕事が終わったらご飯でも」という言葉を何十回も読み上げる。頭の中で彼の声を思い出しながら、どんな表情で言うのかを考えるけれど、さっぱりわからない。顔も頭もあつくて、沸騰しそうだ。小さく声に出してもう一度読み上げる。正常に動いていた心臓がバクバクと壊れ始めた。彼からのお誘いは、まるで殺人予告みたいだ。

13.05.11