お話 | ナノ

 大嫌いな食べ物を無理やり食べたような、胃の違和感と嫌悪感。気持ちが悪いのに吐き出すこともできなくて、ただただじっと、小石のように丸まっていた。さっきまで笑顔を作っていたはずの表情筋はどこかにいってしまったようだ。目の前に信号の色は赤色。待っているのは私だけ。横切っていく車を睨みながら、はやく信号が青になれと念を送った。横に並んでいる信号機は青のまま。
 大音量で流れる音楽に意識を集中させていても、よみがえる記憶は今日のバイトでの失敗と、嫌いな人の顔ばかりでどんどん気分は落ちていく。携帯で時間を確認して、出そうになったため息を堪えた。
 コンビニに行って、好きなデザートを買って、はやく寝よう。明日は学校もバイトも休みだから、好きなバンドの新譜でも買いに行こう。そうしたらきっと、大丈夫。ドラムの音が鼓膜を叩く。それと同時に、右肩を掴まれる。慌ててイヤホンを外して音量を下げ、後ろを振り向いた。

「にしのや」
「おっす、今帰りか」
「あ、うん。バイト帰り」
「へえ」

 隣に並んだ西谷の頭は、私とあまり変わらない。横を見れば彼の目もそこにある。イヤホンを耳から抜いて、iPodに巻きつけて、カバンの中に押し込んだ。ゆるゆるとそよぐ風に、私と西谷の髪の毛が揺れる。間にある距離は三十センチくらいだろうか。手を伸ばせば触れられる距離に他人がいるというのは、なんだか落ち着かない。じんわり、口の中に溜まった唾液を飲み下せば喉がごくりと鳴った。車のライトが地面を照らし去っていく。信号機はまだ赤い。

「にしのや、バレー部だったっけ」
「おう。最近まで休んでたけどな」
「へえ」

 すとん、と、胸につっかえていた何かが胃の中に落ちて溶けていった。ドキドキと脈を早くする心臓は、まるでさっきまでの私とは別人のモノのようだった。朝起きてなにも考えずに着てしまった私服を、こんなところで後悔するなんて。知っている人に見られるとわかっていたなら、こんなダサい格好はしなかった。常日頃から気を使うべきなのだと痛感する。ハイカットのスニーカーの踵を少し後ろに引いて、重心をずらす。信号機が点滅を始め、車たちは慌てて加速する。唸るエンジン音にかき消された私のため息は、私だけを緊張させる。
 距離は変わらない、三十センチメートル。
 色が青に変わる。動き出した足は彼と同じ歩幅で、同じスピード。白と黒のゼブラ模様の道路を、踵を引きずらないように気を使いながら歩いた。肩にかけたバッグが痛い。ひとつ、ふたつ、みっつ。心のなかで数を数えた。ゼブラ模様を渡り終えると、西谷が立ち止まる。

「じゃあ、俺こっちだから。気をつけて帰れよ」
「あ、うん、はい。気をつけます。お疲れ……また、学校で」

 いつものくせでお疲れ様でしたと挨拶をしそうになり、慌てて引っ込める。学校で、なんて言うけれど、そこまで親しいわけでもないのに。西谷は「またな!」と大きな声で別れの挨拶を切り出すと、しゃんと背を伸ばして歩いて行く彼の背中を見てから、ゆっくりと歩き出す。耳にイヤホンは刺さないまま、かかとを引きずらないように。
 すれ違うカップルたちの会話を耳にしながら、立ち止まる。カツカツと女性の歩く音と、車のエンジン音。
 今振り返ったら、西谷も振り返って、私の背中を見ているかもしれない。あのまっすぐな目で、表情で、わたしを。そんな予感がして、想像をして振り向いた。さっきすれ違ったカップルが、楽しそうに歩いていて、その何メートルも先に、西谷はいた。さっきとまったく同じ、しゃんとした背中が私を見ていた。前に進んでいく西谷の背中を見ながら、私は一歩も進めなかった。
 曲がり角を曲がって、彼の姿が完全に私の視界から消え去ったとき、初めて呼吸をした。詰めていた息を吐き出すと、重い鉛のような塊が胸にあるような、変な気分だった。踵を引きずり、背を丸め、カバンの中からiPodを取り出して再生ボタンを押した。西谷の小さく、大きい背中を脳裏に思い浮かべると、コンビニに寄る気分ではなくなった。明日の予定を思い出しながら足早に家へと向かう私の世界は、なんだか味気ない。三十センチメートル横にいたの西谷のことだけが、はっきりと私の中に存在していた。

13.05.06
彼はきっと私の名前すら知らないけど