お話 | ナノ

 死ね、と、ストレートに暴言を吐く女を見て、彼は顔をしかめて舌を鳴らした。

「まじかよ。イマドキいるんだな、ああいうキチガイじみた女」

 まるで年寄りみたいな言い草だ。彼のほうが一回りは若いだろうに。隣を歩く修造はパックジュースのストローを噛みながら、彼氏に平手打ちを繰り出す鬼みたいな女を見ていた。わたしも同じようにペットボトルを揺らしながら「本当にね」と肯定を示す。少し汚れた白いブレザーを身にまとうわたしたちは、最高学年とはいえまだまだ子どもで、無知で、馬鹿な生き物だ。でもあの女よりはマシかもね、と彼を見上げると、突き出た唇がくいっと持ち上がる。

「お前は馬鹿だけどな」
「学力云々の話じゃなくて!」
「はいはい、黙って歩け」

 ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回されテンションは急降下していく。彼は気にした様子もなく、すたすたと前を歩いていく。待ってよ、と言っても待ってくれないことは知っているから、しかたなく小走りで隣に並ぶ。
 来なければいいのに。気づかれないようにつぶやいた。
 未来なんて、これからなんて、なければいい。保証も保険もない未来は不安で、不満だらけだ。この男はそんなアホらしいこと、考えもしないのだろう。ずっとこのままでいたい。子どものまま、無知のまま、感情に名前をつけるだけで満足するような子どもでいたい。修造は最近知ったというアーティストの歌を口ずさみながら、いつもよりゆっくりと歩く。行き先は彼の家。一枚壁を隔てれば、そこにはわたしと彼しかいない楽園になる。
 コンビニの入り口に置かれたゴミ箱に、彼がパックジュースを投げつけた。

「ストライークッ」
「バスケ部なんだからシュートしなよ」
「いやこの角度はどう考えても無理だろ」

 楽しそうな修造を見るたびに、ああ、賢い女でいたいと、願う。


◇ ◇ ◇


 中学のとき、同級生だった人を夢に見ると言ったら、修造はげらげらと笑ったあと「お前らしいな」と一言の爆弾を落とした。わたしらしいってどういうことよ、と詰め寄ると、成長してないところだと言う。そんなはずない。わたしのがんばりのお陰でほぼ平らだった胸はふくらみつつあるし、背も若干伸びたし、太ももは細くなった。彼は「俺との運動のお陰だなぁ」とおっさんのようなセクハラをするけれどすべて、わたしの努力だ。
 変わったことばかり。それはきっと、修造だってわかってる。
 シーツに投げ出されたとき、わたしはいつも、自分があのときと違うことを知る。恐怖で汗が滲むこともなければ、身を裂くような痛みに泣くことはなくなった。そして彼も、苦しそうな、辛そうな、複雑な表情をすることはない。大人への扉を開けると、そこにあるのは階段ではなくエスカレーターだ。するすると、一定のスピードで登っていく。引き返すことはルール違反。そういう世界だ。
 寝息を立てる修造の顔を見ても、これが本当に寝ているのか、はたまた狸寝入りなのか、判断出来ない。わたし用に彼の母親が用意してくれたパジャマを拾い、パンツも履かずにそれを着た。すこし違和感があるけれど、これにも慣れた。バッグの中から持っていたペットボトルのお茶を飲み、息を吐くと、やけに大きな音で反響する。この瞬間が、とても好きだ。真っ暗なのに見えるし、綺麗で、静かな空間になる。真夜中にならないと味わえない気分が、心地いい。
 しゅう、と小さく名前を呼んでみると、口に馴染んだその音はすっと溶けていく。彼は小さく身動いだ。ベッドに膝を乗せてからゆっくりと彼の上にまたがった。足と足の間に丸まった男がひとり。シーツを口元で隠すのは彼のクセだ。腕枕をしてもらったことはない。する必要も感じられない。けれどその腕に触っていいのは、自分だけ。横を向いて眠る彼の身体を仰向けにすると、眉間に皺が生まれた。

「しゅう」

 低反発まくらがわたしの手を拒む。けれどわたしはそれに反発し、ぐっと力を入れた。彼の頭が少しだけ沈む。右手でそっと首筋を撫でる。彼は反応を示さない。

「好きだよ」

 暖かい体温。突出した喉仏を人差し指でなぞってから、ゆっくりとてのひらで包み込んだ。膝で全体重を支えて、両手で彼の肌に触れる。どくり。脈を打つ。喉仏が上下に動いた。手でそれを感じ、ぞわりと身体が震える。
 あのときとは違う興奮が込み上がってきて、自分の体温がだんだんと上昇している。熱くなった頭が、全身に汗をにじませる。背中に布がくっつく。

「殺してえの」

 瞼は開かなかった。彼の口はいつもと同じようにまっすぐに結ばれている。手のひらに力を少しだけ込めると、修造はうっすらと目を開いた。殺されるとは思っていない目でわたしを観て、それからゆっくりと息を吐いた。真夜中が揺れる。時計は今何時を指しているだろう。

「殺したくない」

 修造は目を開けた。真っ暗な部屋で、彼の目だけが少しだけ光っている。殺したくはないんだよ。ただ、もっと複雑な感情なんだ。そう説明して、彼はわかってくれるかな。修造は目を閉じで、それから自分の両手を首に持っていった。わたしの手を包む皮膚は、硬くて冷たかった。首はこんなにも暖かかったのに。

「殺したくなったらまたヤれよ。そうじゃねーなら、もうすんな」

 わたしになら殺されてくれる。彼はわたしだけのものじゃないけれど、彼を真夜中に閉じ込められるのは、わたしだけ。今はそれだけでも、十分だ。そっと手を離すと、痛いくらいの力で握られた。じっと、まっすぐにわたしの目を見つめる修造の顔は、あのころとまったく変わらない。わたしだけが、醜く腐っていくんだ。いつまでも賢い女でいたかったのに。

13.04.23