お話 | ナノ

 そんな人じゃないよ、違うよ。そうやって自分に言い聞かせるたびに、もうひとりの自分が否定を繰り返していた。信じているよと言いながら、裏切られる準備をしている。そうやって何度も何度も自分自身と議論を繰り返す。否定をするたびにわたしが笑う。その先に紡がれる言葉が聞きたくなくて、私は耳をイヤホンで塞いだ。
 流れる音楽に合わせて口を動かしながら、コンクリートとにらめっこを始める。道行く人が親切に避けてくれるおかげで、私はまだ誰ともぶつかっていない。
 春が来た。
 それは突然、当然のように、当たり前にやってきた。身体も心もついていけない。春めかしいパステルカラーのスカートやバッグ、パンプスがチラチラと網膜を焼いては消えていく。迷惑だ。

「なにやってんだ」

 目下に現れた規格外のサイズ。どこかの有名ブランドなのか、少し高そうなスニーカーから舐めるようにからだを伝い、顔へと視線を移していくと、そこには見慣れた二股に別れた眉毛とするどい瞳があった。赤と黒の混じった髪の毛は、夏のように燃えている。

「かがみ」

 口からこぼれた言葉の、なんて幼稚なことだろう。漢字を知らない子どものようだった。火神は今にもはね出しそうな眉毛にぐっと力を入れると、大きな右手を私に頭に持ってきた。つぶされる、と、本能的な恐怖を感じ肩を窄めると、彼は優しく、割れ物に触るようにそっと、私の頭を撫でた。撫でた、といよりも叩いた、という表現のほうが近い気がするが、なんとなく撫でられたような感覚だった。

「下向いて歩くんじゃねーよ。ぶつかんだろ」
「うん」

 口の中が乾いて、うまく返事ができているのかすら不安だった。「ごめん」なんて感情のない形だけの謝罪に気が付き、火神の目付きがより鋭くなったような、気がした。シャツの袖をまくり上げたその腕は、私の求めたものよりもずっと頼りになりそうで、頭の片隅でちらりと姿を見せたその彼の一部をかき消すように奥歯を噛んだ。
 桜はいつのまにか散ってしまい、残った花と育つ葉が太陽の光を浴びて輝いていた。おいていかれた。春に置いていかれたまま、私は太陽の光を浴びて、いつの間にか薄着になって、歩いている。
 火神は私の歩幅に合わせて歩き、子どもに言い聞かせるような速度で「どうかしたのか」と小さく問いかけた。

「どうもしないんだけどさ」
「おう」
「なんか、やるせないなって、思って」

 あの人は、私の問いかけに対して、肯定も否定もしなかった。ただ黙って、私の質問を聞いて、咀嚼して、自分の言葉すらも飲み込んだ。「どうして」なんて、ありきたりな質問にすら「どうしてだろうな」と笑った。笑えなかった。私よりも大人のはずの彼は、私に叱られ、泣かれ、なにもせずに頭を抱えていた。
 すれ違う人が火神を見るたびに首をくいっと上にむける姿が、なんだかおかしかった。

「泣くなよ」
「泣いてないよ」
「今にも泣きそうだろうが」
「そうでもない。なんかもう、泣く体力すらないっていうかさ。めんどうだわ」
「あっそ。よくわかんねーけど」

 熱を孕んだ瞼を冷やすには、春の風はぬるすぎるのだ。

「マジバ行かね」

 見あげれば、そこにはいつものように笑う火神がいた。情けなくない、明るい光のような笑み。視界がにじみ、慌てて舌を向いた。震える喉が痛い。

「フルーリー奢りなら、行く」
「そんくれー奢ってやるよ」

 だから泣くな、と、言われた気がした。私の頭を、まるでネコでも撫でるように触ると、彼は一歩大きく踏み出した。春の風が、頬に冷たく突き刺さったのを自覚してから、私は彼の一歩後ろを歩いた。春はやはり、来てしまうのだ。

13.04.04