お話 | ナノ


 赤司くんのおうちは、すごく大きい。立派な玄関に大きな庭。とても整えられた、庭。そしてそこに、猫がいる。赤司くんに聞いてみたけれど、どうやら飼い猫ではないらしい。「猫は嫌いだよ」。そう言った彼の表情は、いつになく不機嫌そうだった。口をへの字にして、不機嫌な音を奏でた唇はなぜか艶めかしく感じた。真っ白な毛並みに、真っ赤な目をした猫。私はこの猫が、とてもとても好きだった。松の木の下に寝そべって、和室でお茶を飲む私達をじぃっと見つめている猫。「赤司くん」。小さく名前を呼ぶと、着流しをさらりと身にまとった赤司くんがちらりと私を一瞥して、それからはっきりと「だめだよ」と言った。

「……まだ何も言ってない」
「庭に出たいと言うんだろう」

 わかっているよ。パチン、と将棋の駒を動かしながら、あきれたようにため息を吐いた。しかし、ここで諦めるわけにはいかないのだ。毎週私がこの家に来る度、同じように木の下で私を見つめているのだ。私を。彼をじゃないのだ。だから気になって、気になってしょうがない。

「おねがい、赤司くん」

 するり、彼の太ももに手を滑らすと、駒を動かしていた手をぴたりと止まった。綺麗なカーマインの瞳が私の顔を見る。彼のうっすらと開いたから、小さく息が漏れた。ゆらりと揺れた瞳を、私は見逃さなかった。赤司くんが、ゆっくりとした動作で私の手を掴む。

「……少しだけだぞ」

 はぁ、と大きなため息を吐いて、彼は許可を出した。私はにっこり笑った。「ありがとう」。赤司くんは「仕方がないやつだ」と、なぜか困ったように笑っていた。つながった手から、確かな温度が伝わった。温かい、木漏れ日のような。そんな暖かさだった。
 そして私は、彼――真っ白な猫なので、名前はシロと名付けた――にエサをやることが習慣になった。コンビニで猫缶を買って、赤司くんに品のいいガラスのお皿を借りるのだ。それに猫缶を綺麗にあけて、縁側に腰掛けて彼を呼ぶ。

「シロ、」

 彼は腰を上げて、とことこ歩いてくる。赤い目がすっと細められ、にゃあ、と鳴いた。「待ってたよ」と言わんばかりの態度に、私は笑ってしまうのだ。まるで、赤司くんのようだと。そう思うのだ。縁側に座る私の膝にひょいと飛び乗ると、私の胸にぐりぐりと頭をこすりつける。シロの温かい体温を感じながら、私はゆっくりと深呼吸をした。秋の気温が、肺にゆっくり落ちていく。すっかり色づいたもみじが風に揺れる。

「シロ、今日は温かいね」

 私の言葉に、シロはにゃあんと鳴いた。ゆっくりと頭をなでると、綺麗な目を嬉しそうに細めた。ガラスのお皿をシロの前に差し出すと、彼は勢い良く顔を突っ込んだ。そして小さな口をあけ、かぷりと噛み付く。もしゃもしゃと咀嚼する姿は愛らしい。私の視線に、シロが顔を上げた。

「今日はキャットフードじゃないのか」

 しゃべった、と、思った。猫がしゃべった。言葉を。「うそっ」。声を出した私を、笑う声が後ろから聞こえる。慌てて振り向くと、にっこり笑う赤司くんが立っていた。

「僕だよ。まったく、猫がしゃべるわけないだろう」

 美しい笑みを浮かべた赤司くんが、すとんと私の隣りに座った。お部屋で焚いていたのだろうお香のやさしい空気が彼を包んでいる。鼻孔をくすぐるその空気に目を細めて、私はシロの頭を撫でた。シロは顔をお皿に戻し、カツカツと猫缶を食べている。そして彼に一応聞く。

「触る?」

 すると赤司くんは、首を横に振る。

「いや、遠慮する」

 ぱっと表情を消すと、彼は腕を組んだ。猫缶を食べる猫を、じっと睨む。

「赤司くんはなんで猫が嫌いなの?」
「……小さいころに引っ掻かれてね。それ以来嫌いなんだ」

 苦虫を噛み潰したような顔をして、幼少期のことを語る赤司くんは、歳相応の男の子だった。思わず笑うと、赤司くんが「笑うな」と少しだけ怒る。私の腕に抱かれている猫が、にゃあ、と声を出した。視線を下げると、真っ赤な目で赤司くんを見ていた。挑発的な眼だ。「俺がひっかくわけないだろう」と、言っているように感じた。スンと鼻を鳴らすと、空っぽになったガラスのお皿を爪でカツンと引っ掻いた。私の膝からぴょんと飛び降りると、いつものように松の木の下に寝そべった。そしてそこから、私たちを見る。じっと。じっと見ている。にゃあ。その声に、赤司くんが言う。

「……いやな目をしてる」

 私は、そうは思わなかった。彼の目が、大好きだった。

「それにあいつはもう、長くない」

 私は、そうは思わなかった。彼が大好きだから、そう思わなかった。


○ ○


 一週間後、私はいつもと同じように赤司くんの家へ行った。お母様への挨拶を済ませて、きしりと鳴く廊下を歩いて行く。長い長い廊下を歩いて、赤司くんのお部屋を通りすぎて、いつも赤司くんが将棋をしている和室へ向かう。きしりきしり。きしり。私はこの音が好きなのに、今日だけはなぜか、心臓が痛くなった。ゆっくり息を吸えば、冷たい空気が肺を刺す。ぶるり、体が震え、どうしようもなく怖くなった。見慣れた和室の、綺麗なふすまに手を掛ける。すう、と音がして、開いた。
 そこに赤司くんの姿はなく、目を見張る。いつもはここに、詰将棋をしているはずなのに。

「赤司くん?」

 私の声だけが、しんと静まり返った部屋に響く。どうして、どこに。敷居を踏まないようにして足を踏み入れる。すると、開いている窓から冷たい風が私に当たる。そちらに目を向けると、庭に立つ、赤司くんがいた。彼が庭に出ることなんて、めったにないことだ。着流しが、寒そうにぱたぱたと揺れいている。彼はじっと、そこに立っている。私は慌てて縁側に飛び出した。

「赤司くん」

 私の声に、彼の方がぴくりと揺れた。

「……いらっしゃい、名前」

 その言葉は、いつになく優しくて。切なくて。なぜだか涙腺が緩んだ。目に水の膜が貼って、彼の背中がよく見えない。赤司くんはゆっくりと振り向いた。そして、無表情で言った。

「……死んでいたよ」

 無表情で、不機嫌そうなのに。なぜか声だけは、声だけはいつもよりずっと優しくて、脆かった。私は目を見開いて、彼の腕に抱かれるシロを見た。彼が、シロに触るのは、これが初めてのことだった。嫌いだと、苦手だとずっと嫌悪してきた。優しく、包み込むように、彼の身体を抱いていた。真っ白で艷やかだった毛並みは、荒れて少しだけ茶色い。赤司くんは彼とお揃いのカーマインの瞳を伏せて、口元に笑みを浮かべた。死んでいるのか。まだこんなに、綺麗なのに。赤司くんは言う。

「詰将棋をする僕に向かって、一度だけ、鳴いたんだ。真っ赤な目を、僕に向けて。こいつは、僕に似てたから。きっと、最期は名前に会いたかったろうね」

 ひどく綺麗な笑みだった。伏せられた目を、見たいと思った。同じように目をつむり、同じように笑みを浮かべる彼らの、目を。つうっと伝った涙が、私の洋服にシミを作った。うっすらと目を開けた赤司くんが、痛々しく笑う。縁側の床が、きしりと鳴いた。

「……埋めよう、赤司くん。松の木の下に。いつもの場所に」

 そう言うと、彼は無言で松の木の下へと歩き出した。私も置いてある外履き用の下駄に足を突っ込んで、彼の後を追う。赤司くんはそこにシロを置くと、庭の一角にある倉庫のようなところへ向かう。私はシロを、じっと見つめた。うっすらと笑みを浮かべた彼に、安心する。よかった、と。彼はきっと、幸せだったのだろう。きっと、満足だったのだろう。
 小さなスコップを二つ持ってきた赤司くんが、一つを私に貸してくれた。私たちは無言で穴をほり、そこにシロの亡骸を埋めた。最期に触れたシロは、冷たかった。冬の体温。前までは、秋の柔らかな体温だったのに。埋め終わって、私と赤司くんは一部だけ茶色くなった地面を見下ろした。立つと、くらくら立ち眩みがした。私は自分のスカートを握りしめて、目を瞑る。

「……おやすみ、シロ」

 花に水をやるように、私はただひたすらに涙を土へ落とした。掘り返された茶色の土が、私の涙で黒くなる。ぼたぼたと落ちる涙を、止めることはしなかった。隣に立つ赤司くんが、私の手を掴んだ。そして優しく握った。壊れ物を扱うみたいに。まるで、さっきまでシロにしていたように。

「……だから嫌いなんだ」

 震えることもない声帯が、とても羨ましかった。いつもと変わらない、芯のある声だった。少しだけ、悲しみを帯びた。彼の着流しに、小さな小さな、シミができた。握られた手は、春の木漏れ日のように、暖かかった。

12.09.24