お話 | ナノ

 早朝に軽くジョギングをして、流れる汗をシャワーで洗い流してから旦那の一日がはじまる。結婚してから今日まで、よほどのことがない限りくずれないルーチン。徹底された彼なりの人事というやつでもある。親友、という言葉では言い表せない関係である高尾さんは、いつまで経っても変わることのない彼に安心するのだと、酔うたびにぽろぽろと口から本音をこぼしている。
 コーヒーメーカーの電源を入れて、いつものマグカップをセットする。起動して、ボタンを押して、私と彼の分を落とす。私は苦いのが苦手だから、いつも牛乳を入れてカフェラテにしている。その隣では彼が優雅にブラックコーヒーを飲んでいる。あんなにおしるこが好きなのに、苦いものを好んで飲む意味は、いつまで経ってもわかからなかった。きっと馬鹿舌なんだ。
 テレビから流れてくるのは、もうすっかり見慣れたニュース番組に女子アナウンサー。今日の天気をさらりと簡単に説明し、今日はどんな日だとか、そんな豆知識を披露していく。女子アナウンサーのいる外は快晴。洗濯物がよく乾きそうだ。
 結婚して、もうどれほどの歳月を重ねてしまったのか。一人息子は高校を卒業し、大学に通うため一人暮らしを始めた。私たちはまた、ふたりになった。まったく変わらない私への態度も、彼への態度も。

「明日は雨か」

 ゆらゆらと水面が揺れた。

「今日のうちにシーツ干しちゃわないと」
「ああ、それがいい」

 変わったことなんて、どれも些細な事だ。私にとっては、どれも。さして重要ではない。いや、重要だった。けれどもう、『変わった』ことに慣れてしまった。
 半分ほどになったカフェラテをテーブルの上に置いた。並べられたトーストとサラダとスープ。彼はぺろりと平らげた。

「そろそろカーテンも替えたいね」
「花柄のやつにするのか」
「うん。あれは春にぴったりだから」
「俺もあれは気に入っている」
「ふふ、でしょう」

 風になびいたカーテンを眺めながら、今週の日曜日にでも家の衣替えをしようと計画を頭のなかで立てる。たしかその日は彼の仕事も休みだったはず。衣替えをして、たまには二人で散歩に行きたい。テレビのアナウンサーが切り替わる。

「ああ、はじまったね」
「別に見る意味もないのだがな」
「昔からの日課だからねぇ」

 残っていたサラダを口に運びながら、キラキラと輝く画面を見ていた。流れる写真や絵を見ながら、今日はどの星座が一位だろうかと考える。
 彼があれほど執着し、こだわっていた『おは朝占い』は、数年前になくなった。この世の中にどれほどあの占いに人生を左右されている人間がいたのかはわからないが、あのときの彼の顔は、死ぬまで、いや、死んでもわすれないだろう。本当に世界が崩壊するんじゃないかというくらいには悲しんでいた。
 おは朝の代わりに始まった占い番組は、おは朝と同じ時間にやっている。だから自然と見てしまうのだが、これがまた、当たっているようで当たらない。ラッキーアイテムを持っていなくても、彼はちゃんと一日を過ごせるようになったのだ。神様のいたずらか、それともあのおは朝を担当していた占い師――名前は確か、ジュセリーノ・マキ――が本物だったのか。今では確認することもできないし、する必要もなくなった。
 今日のかに座は、四位というまた微妙な順位。

「ラッキーアイテムはエクレアだって」
「……そう言われると、久しぶりに食べたくなるな」

 食器を重ねながら、二人で占いを見る。赤司や黒子には万年新婚夫婦だなんて揶揄されるけれど、あながち間違いではないと、自分自身思う。

「買ってこようか」
「そうするのだよ」

 かしゃん、と、音を立てた。手元の茶碗が横たわっている。「久しぶりに聞いたね、ソレ」私が目を丸くすると、真太郎は口をきゅっと引き結んでそっぽを向く。最下位に映しだされたのは私の星座ではなかった。つまり残る一位の星座が私のものだ。元気な女子アナウンサーの声と一緒に、舌打ちが聞こえた。こみ上げてくるのは嬉しさだとか、懐かしさだとか、そういう類の感情。読み上げられる占いとラッキーアイテム。

「この占い当たってるかもね」
「なにを言ってる」
「懐かしいものが聞けたから」

 些細なことだ。彼の左手が荒れていることも、彼の語尾に「なのだよ」がつかなくなったことも、ほうれい線が濃くなったことも、好きな味付けが薄くなったことも。それでもやはり、少しだけ寂しくも思う。背負い続けてきた彼の背番号を夢に見ることだってあった。今ではもう、そんなこともなくなってしまったけれど。
 食器を持って立ち上がると、彼は昔よりも度がきつくなった眼鏡のブリッジを押し上げた。私もそのあとに続く。シンクの中に食器を置いて、水を出す。

「ねぇ、真ちゃん」

 彼は。
 真ちゃんは、目尻を下げて私を見下ろした。

「今日はちょっと遠くまで、散歩に行こう」

 どれだけ変わっても、私も彼も変わらない。いつまでも並んで手をつないで、慣れ親しんだ道を歩くんだ。彼は水を止めると、シワの多い口元をゆるりと綻ばせて「しょうがないから付き合ってやるのだよ」と私の頭を撫でた。荒れてシワだらけになった彼の左手は、今でも私には神様のように見えるのだ。

13.03.22