お話 | ナノ

 恋をすると不安定になる。均衡を保っていられなくなる。浮かんだり沈んだり、汚れたり綺麗になったり。自分のことなのにまるで他人のことのようにわからなくなる。どうしたらいいのかわからなくて、結局、どうすることもできずふらふらと感情を持て余す。胃の中がぐるぐると渦巻いて、喉が引き締まり、手が震える。こんなにも意気地のない人間に成長した覚えはない。ぐっと唾液を飲み込んで、彼女がスカーフを外す後ろ姿を眺めながら、学ランのボタンを外した。
 真っ白な肌と、その脹脛を隠す紺色のソックス。手入れの行き届いた長い黒髪。毛先がゆらゆらと踊る。はずされたスカーフは、誰かの机の上に置かれた。目の前で着替えている高尾は、なにか俺に話しかけているようだが、今は相手をしている場合ではないので、「そうか」と「ああ」の二つを駆使して平静を装う。
 最初は、更衣室があるのだから女子はそっちで着替えるべきだと思っていた。このクラスは高尾というムードメーカーのおかげか、他のクラスの数倍は男女仲がよかった。だから女子も教室で着替えることを躊躇わない。更衣室は遠いからめんどうだと、授業が終わった途端に着替え出す。女子の「見せない脱ぎ方」というのは、いっそ発明と呼べるとさえ思った。その器用さをほかのことにも生かすべきだ。

「真ちゃん、聞いてる?」
「……聞いている」
「ならいいけどさ〜」

 視野が広い男だから油断ができない。かといって、眼鏡を外してしまえば彼女の後ろ姿すらまともに認識できないのだ。俺は生まれて初めて、自分の視力が悪いことを呪った。これ以上高尾を蔑ろにして感づかれても困る。大人しく眼鏡を外し、引き出しの中へと仕舞い、目の前にいる高尾らしき物体を睨みつける。ぼんやりとしていて、どこが目なのか、どれが口なのかもはっきりしないのっぺらぼう。ちらりと彼女を見てみたが、やはりよく見えない。けれど雰囲気で、きっとあれが彼女の後ろ姿なのだろうと、なんとなくわかる。視線を戻すと、高尾らしき影がゆらりと揺れた。

「ちょ、睨むなよ」
「お前の顔なんぞ見えん」
「それはそれで問題だけどな。ブルーベリーでも食えば?」

 いつもの軽い調子で言われたセリフに賛同したかった。自分自身、この視力はどうにかならないかと悩んでいる。けれど、世の中そううまくはいかない。なぜなら、俺はブルーベリーが嫌いだからだ。けれどそんなことを高尾に知られたくもないのであっけからんと「それで良くなったら苦労はしないのだよ」と吐き捨てた。目の前の高尾はげらげらと笑っていた。


△▽△


 今日のサッカーは、俺と高尾のチームが一位になった。当然といえば当然の結果である。クラスメイトと俺達では尽くしている人事が違う。不公平だなんだと背中をバシバシと叩かれ、少しだけひりりとした。男子の体育を担当している先生がいつも五分以上前に授業を切り上げるので、体育の後は着替えやすい。「ちょっと飲み物買うから先行ってて」とひらりと手を振った高尾にポケットに入れておいた小銭を渡すとジト目で睨まれたが、言い出したお前が悪いのだ。きっとあいつはおしるこを持って帰ってくるだろう。
 まだ授業をしている教室の横を通り、前の扉から教室へ入った。がらりとした教室は、嫌いじゃない。たった一人でここにいるのは、案外落ち着いたし、気分が良かった。黒板の前を通り、彼女の席を通りすぎようとしたときに、床に転がるリップクリームを見つけた。珍しい柄のそれを、俺は見たことがある。彼女が、愛用しているものだ。なかなか持っている人がいないやつだとか、そんな話で盛り上がっているのを見たことがある。間違えるはずもない、彼女の、リップクリームだ。
 がらりとした教室でひとり。それなのに、ここには彼女がいるような気分になる。ひろいあげたそれはひんやりとしていて、手に馴染む。かっと身体が燃えるように熱くなり、テーピングが邪魔だと感じるほどの手汗がにじむ。
 これはチャンスだ。彼女と会話をするチャンスになる。そう思いついた。今日のおは朝でも、舞い込んできたチャンスは逃さないようにと言っていたではないか。発展しようなど思っていない。今はバスケに全力をつくすと決めている。けれどこの気持をないがしろにすることも出来ない。こころがふわりと軽くなる。
 体操服を脱ぎ捨てて、いそいそと学ランへ着替えた。ポケットの中に彼女のリップクリームをしまい、席につき読みかけの本を開いた。文字を目で追い、脳で処理しているはずなのに、どうにも理解が出来ない。頭のなかがぐつぐつと煮えているような感覚に、眼鏡のブリッジを押し上げた。そのとき、ガラガラと音がして喧騒がクラスに流れ込んできた。高尾を筆頭に、すでに着替えた俺をみてクラスメイトがぎょっと目を丸くした。

「ちょっと真ちゃん、早すぎ!」
「緑間ってなんつーか、隙なさすぎだよな〜」
「そんなことはない」
「俺におしるこ買わせてるだけだもんなー」
「ついでだろう。狭量な男だな」
「お前に言われたくねーわ!」

 ことりと缶を机に置くと、高尾も着替え始めた。授業の終わるチャイムが鳴った。ごくりと喉を鳴らすと、高尾がちらりと目を向けたが、おしるこを飲む俺に何も言うことはなかった。喉を通る甘みが、疲れた身体に染みるようだった。それでも、手汗はひかない。書店でかけてもらったブックカバーにしみができるのではないかと少しだけ不安だった。そして、これから彼女がこの教室に入ってくるという現実は、もっと俺を不安にさせる。どうやって話しかけるべきか。渡せるだろうか。そんなことを考えながら、ぱらりとページをめくっていく。

 がやがやとした笑い声と共に、彼女が教室に戻ってきた。長い髪の毛は一つに結われている。
 どくりと心臓が嫌な音を立てた。胃がぎゅっとしまり、不快感が喉までおしかけている。もしかしたら、気づかないかもしれない。愛用のリップクリームがなくなったことに気がつくことなく、今日という日を終わらせる可能性もあるかもしれない。

「あれ、リップない」

 そんなことを考えているが、現実はそう優しくはなかった。というよりも、優しかったのかもしれない。俺に動けと、行動を起こせと言っているのかもしれない。くちにつけた缶を軽く噛んだ。硬い感触に、少しだけ冷静を取り戻せるような気がした。
 缶を握る手が汗をかき、滑る。眼鏡のブリッジを意味もなく押し上げた。高尾は着替え終わったらしく、静かに席についた。

「まじで? 落ちてるんじゃない」
「うーん、ないんだよねぇ」

 きょろきょろと床を見回しながら、リップクリームを探している。高尾が俺の机に腕を置いた。

「真ちゃん今日一番乗りだったじゃん。見なかったの?」

 俺にしか聞こえない声で言う。その表情には、どんなやましさも含まれていなかった。ただ、普通に、疑問を投げつけているだけの表情。本を閉じて、飲み終わった缶をゴミ箱へ投げた。綺麗な放物線を描き、それはカランと落下する。

「ああ、見なかったな」

 向き直ると、高尾は「そっか」と言って前を向いた。彼女は「もしかして生物室とかかなぁ」と笑っていた。「なくなったらまた買えばいいじゃん」と隣にいた女子が笑った。セーラー服を身にまとった彼女の横顔を、じっと見ることが出来なかった。ポケットに押し込んだ彼女のリップクリームを、使うか、使わないか。頭のなかにはもう、それしかなかった。
 
13.03.19