お話 | ナノ

 身体にまとわりつく着物に風を送り込むようにぱたぱたと裾を捲っていれば、頭上から聞き慣れたため息を落とされる。予想通りそこには鬼の副長がいらっしゃり、仁王立ちで私のことを見下ろしている。

「品がない」
「いつものことでしょう」
「女という自覚を持て」
「持っていますよ」
「何度も注意してんだろうが」

 口だけの謝罪を二回ほど繰り返し、まくり上げていた裾を元に戻す。帯を締め直し、きちんとした服装に戻る。夏場は暑くてかなわない。男性はすぐに脱げるけれど、女はそうもいかないのだから不便だ。胸元を肌蹴させた土方さんは、いつもの様に煙草を吹かしている。

「馬鹿どもは祇園祭に行ったぞ。お前はいいのか」
「祭りじゃなくて、吉原でしょう」

 土方さんは何も言わずに、そっと立ち去った。大きな背中を見つめていたけれど、あの人が振り返ることはなかった。私は祭りには行かない。ここで、みんなのために働かなくてはいけない。彼らの仕事を支え、彼らの日常を守るのが、唯一の仕事であり使命のようなもの。息抜きはあっても、休みはない。
 もう女中を雇うことはないのだと聞いた。土方さんから直接聞いたわけではなく、沖田さんから聞いたことだ。昔からいる私だけ、信用できるものだけを女中にしかできない、と。もし私が死んだときはどうするのだと詰め寄ったとき、沖田さんは「死なせませんよ」とけたけたと笑っていた。妙に説得力があり、私は反論出来なかった。そっと手首に指を添えると、脈は正常に動いている。生きている。生かされている。
 干し終わった洗濯物は、微動だにしない。けたたましい蝉の声が、心地よく感じてしまうほどの暑さだ。

「誘えばよかったのかしら」

 そんならしくないこと、出来るわけない。


* * *


 長時間瓦の上に座っていたせいで身体が軋む。ぎしぎしと不穏な音をさせる腰を手でとんとん、と叩きながら、台所へと忍び足で歩いて行く。
 屋根の上で眺める花火は、とても綺麗だった。久々の休息に、土方さんも近藤さんも楽しそうにお酒を飲んでいた。沖田さんの体調も落ち着いたようで、咳をすることもなくお茶を飲んでいた。ほろ酔いになった土方さんたちは気分の良いまま寝ると自室へと戻り、沖田さんも明日は見回りに行くのだと床についた。急須や湯呑みを洗いながら、さっきまで見ていた花火のことを思い出す。咲いては散っていく火の大輪。
 ぎぃ、と小さな物音に背筋が伸びる。振り返ると、そこにはほんのりと顔を赤く染めた平助さんが立っていた。私の顔を見るなり、目を細めて「まだ起きてたの」とあくびを噛み殺した。

「平助さんこそどうしたの。厠?」
「そー。あと水」
「ああ、どうぞ」

 洗ったばかりの湯呑みに水を汲んで差し出すと、平助さんはそれを受け取り喉を鳴らして飲み干した。これから寝るところなのだろう。いつも結われている髪の毛は重力に逆らうことなく垂れ下がっている。巻かれたままの白い包帯が、暗闇の中で存在感を放っていた。

「傷、痛むの」

 ことりと湯呑みを置くと、彼は首を横に振った。

「そこまでじゃねーかな」
「なら、よかった」

 手拭き用の布で手を拭い、結っていた髪の毛を解く。

「お前、屯所に残ってたの」
「うん。土方さん達と、花火見てた」
「へぇ」
「屋根の上でね」
「あ、ずっりぃ」

 私と彼の距離は、何尺ほどだろうか。近いようで、いつも手の届かないところにいる。
 吉原に通っているが、これといってお目当ての花魁がいないことは知っている。抱くときもあれば、飲むだけで終わる日もある。新八さんはいつも、さりげなく私に教えてくれるのだ。ありがたい反面、少しだけ、申し訳ない気持ちが募る。見え透いた情愛を持ち込んでしまったことも、吉原でのことに目を瞑っていられない情けない自分も、くだらないと切り捨ててしまいたかった。どこまでいっても醜く女々しい自分を、受け入れることが出来ない。
 平助さんは、隣に立ったまま動こうとしない。そっと額の包帯を撫でると、「俺さ」と溜息のような声を出す。

「死ぬかと思ったんだ」

 目を見開くと、彼は傷跡を隠すように手のひらを額に置いた。

「目の前に迫る槍を見たとき、死んだと思った」
「……うん」
「覚悟ならある。だけど、」
「うん」
「怖いって、思っちまったんだよなぁ……」

 震える声は、泣いているようだった。けれど彼の目から涙は流れず、ただ悔しそうに歯を食いしばっているだけ。覚悟は本物だ。彼は新選組のために生き、戦い、死んでもいいと思っている。近藤さんや土方さんだって、それは同じだ。みんな同じ志を持って新選組を名乗っている。けれど、人間なのだ。

「人間はみんな、死ぬのが怖いよ」

 どれだけ覚悟があろうと、どれだけ死地をくぐり抜けようと、その恐怖心はなくならない。

「それに、死なれることも怖い」

 彼らは知らない。私がいつもどんな思いで送り出し、迎え入れているのかを。彼らの恐怖には満たなくても、あれは立派な恐怖だ。宙に浮く彼の手をとり、冷たい手を温めるように両手で握り締める。顔を上げた平助さんがきょとんと目を丸くする。

「平助さんがもう二度と帰ってこないんじゃないかと思うと、屯所から見送るのだって怖いんだよ。吉原に行ったきり帰ってこないかもしれないし、見回りに送り出したのが最後になるかもしれない。置いて行ってしまうんじゃないかと思うと、私は、平助さんの背中を見るのが怖くて怖くて仕方ない」

 新選組を誇って死んでいった隊士をもう何人も見てきた。忍びとして最後まで自分を貫き、むごい姿で帰ってきた私たちの姉の姿を、一生忘れることはない。平助さんは瞼を閉じて、長い睫毛を震わせた。張り詰めた空気がやんわりとほどけていく。

「置いて行かないで、平助さん」

 彼の手が、私の手を包み込んだ。分け合った体温のおかげで彼の手は温かく、しっとりとしていた。生ぬるい空気を肺いっぱいにすいこんで、震える唇をごまかした。平助さんは小さく頷いて、私の腕を引き、強く抱き寄せた。何も言わなかったけれど、彼の心音は饒舌に語っていた。彼の背をそっと撫でると、腕の力が強くなる。二人で同じ朝を迎えるのが、すぐ先の未来であればいい。

13.03.05