お話 | ナノ

 本能的に背を向けた。「好きです」という女の声が、しっかりと耳の鼓膜を震わせ、私の脳へと届き、血液に乗って全身へ配られた。ぞわりと全身が粟立つ。よくもまぁ、そんな風にカマトトぶって告白が出来るものだ。これだから女という生き物は恐ろしい。音を立てないようにゆっくりとしゃがみ、あれやこれやと繰り出されるセリフに耳を澄ませた。本当に好きなの、だとか、好きな人がいないのなら試しにでも、なんて、そんなことばかり言っている。

「付き合ってみたら好きに、」
「すまないが」

 かぶせ気味に声を発した緑間が、珍しく苛立ちを表に出して「好意はうれしいがはっきり言って迷惑だ」とばっさりと言い切った。ああ、ヤな男。バクバクと早鐘を打つ心臓を隠すように両手で抑えた。誰にも見つからないように、ひっそりと息を潜める。女は震える声で謝罪をし、緑間はそれに対して何も言わなかった。
 可哀想だとは、不思議と思わなかった。むしろ良かったね、と、思った。大きくなる前に風船が割れれば、音は大きくないし、割るのも怖くないのだ。小さいうちに割ってしまえば、次の風船をふくらませることが出来る。彼女はパンパンに張り詰める前に彼に針を刺された。良かったね。これであなたの生活は平和になる。いつか割れる日がくるんじゃないか、と怯えながら生きていかなくていい。そしていつかまた、新しい風船を膨らませることができる。
 がらりとドアを開けた緑間が、私を見て口を開いた。慌てて人差し指を口元へ持って行き、「しっ!」と小さく息を吐く。半開きになっていた口が、ゆっくりと閉じた。歩き出した緑間を追うように、私も立ち上がり歩き出す。

「悪趣味だな」
「ひどいなぁ、呼びに来ただけなのに」
「教室の前じゃなくてもよかっただろう」
「真ちゃんの告白現場なんて見慣れたよ」
「そういう問題ではない」

 どうやら結構怒っているみたいだ。あの告白方法はお気に召さなかったようである。男心というものはよくわからないので、ごめん、と素直に謝れば、緑間はスンと鼻を鳴らした。どうやら許してもらえたらしい。おしるこ買っていこうか、と自販機を指差すと、彼は長いまつげを動かし、綺麗な目を細めて私を見下ろした。

「じゃんけんで負けた方のおごりでな」
「えー、不公平!」
「なにを言ってる。じゃんけんはいつでも公平だ」

 よく言うよ。緑間は得意げに口角を上げると、左手で握りこぶしをつくる。私も同じように手を上げた。ああ、くやしいなぁと、言いようのない敗北感が生まれ、喉の奥が詰まる。じゃんけんの結果は、やはり緑間の勝ちだった。



「いいの?」

 紙パックのストローをかみながら、向かい合うように椅子に座っている高尾が私の足を蹴る。鈍い痛みに眉を寄せれば、同じような顔をした高尾がもう一度「いいのかよ」と、さっきよりも刺々しい言い方で問う。机に描かれた落書きを指でなぞると、うっすらと黒く汚れた。

「なにが」
「真ちゃん、また呼び出されてんぞ」
「関係なくね」
「どうすんの、付き合ったら」

 ごくりと喉がなる。焦りがバレないよう、平静を取り繕って足を組み直し、そのどさくさに紛れて彼の脛を蹴る。いて、と小さく舌打ちをする高尾の表情からは、なにも読み取れなかった。

「緑間の自由でしょ、そんなの」
「俺らの真ちゃん、だろうが」
「……。」
「お前が望んでるのは、そういうことだろ」

 不思議と悲しくも悔しくもなく、彼の言葉はすとんと胸の奥に落ちていき、じんわりと溶けていった。そうだよ、という肯定の言葉をひねり出すことは難しく、ただ曖昧に笑うことしかできない。高尾はそれに大きなため息をはくと、もうすっかり平らになってしまったストローをひっきりなしに噛んでいた。
 緑間が戻ってきたのは、昼休みが終わる二分前だった。「今日はどこまで行ってたの」と高尾がまじめに聞けば、緑間の茶化されているわけではないとわかったのか「第二音楽室」とすんなり答えた。

「遠っ! モテる男は大変だねぇ」
「うるさい、茶化すな」

 緑間の席は私の隣で、高尾の席は緑間の前だ。公平なくじ引きの結果だが、この日ほど私と高尾が人事を尽くした日は試合以外にはないかもしれない。席についた緑間が、「だいたい、昼休みに呼び出すのはやめて欲しいのだよ」と眼鏡を外した。ポケットからメガネ拭きを取り出して、汚れたレンズを拭いていく。

「なんでよ?」
「気疲れするだろう。断るのだって楽じゃない」
「俺もそんなこと言えるくらい告られてーわぁ」
「お前は告白される前に釘を刺してるからだ」
「おっと、バレてた」

 意味もなくスマーフォンの画面に指を滑らせて、会話を耳に入れる。立ち上がった高尾が自分の席に戻ったタイミングで、チャイムがなった。相変わらず器用な男だなぁと思いながら、スマーフォンをポケットの中にしまった。先生がくるのは、きっと五分後だ。生物の先生はいつも来るのが遅い。
 ちらりと隣を盗み見れば、自分の眼鏡を睨みつけている緑間がいてなんだか面白い。高尾は机の影に隠れるように携帯をいじっている。綺麗になった眼鏡をかけると、緑間の表情がすこしだけ和らいだ。
 ――ああ、悔しいな。
 まっすぐ窓の外を見つめる緑間の耳や、髪や、唇が、私の心臓を締め付けて殺そうとする。
 風船が大きくなるたびに、胸が苦しくなる。膨れ上がった風船はどこまで大きくなるのだろうか。自分で割れるなら、それ以上に平和的解決はないと知っている。けれど私は臆病だから、割ることが出来ない。緑間に針を刺してもらうことも出来ない。いつか劣化して萎んでいくのを待つしかないのだ。高尾はそれを、逃げだといい、模範的回答だと笑った.

 外の景色はすっかり春めいていて、冬はどんどん忘れられていく。季節はめぐり、人は出会い、別れ、歳を重ねていくのだ。私はあと何度人と別れ、出会い、季節をめぐれば、緑間のことを『過去』にすることができるのだろう。滲めに縋り怖いと泣き叫ぶ幼子は、いつ成長し、彼から切り取ることができるのだろう。
 今日もまた、緑間に殺されながら生きていく。

13.03.05