お話 | ナノ

 原作の本は、買った。主人公である美しい男を、愛おしい男の姿で想像して、すぐに嘔吐した。どうしたって――美しい男を彼に想像できたって――私をその恋人役に当てはめることができなかったからだ。胃からこみ上げてくるものを、慣れ親しんだシンクの上に吐き出したとき、トイレに間に合わなかったことだけを後悔した。
 数年前から注目を浴びている著者の映画であり、そして主演は今をときめく人気俳優、黄瀬涼太。世間の色はそれ一色に染まる。週刊誌にも、ニュースにも、どこにだって黄瀬涼太の姿があった。それはもう半年前のことだ。映画は大ヒットのまま終わりを迎え、DVDの売れ行きも好評らしい。いいことだ。雑誌の表紙になっている黄瀬をまじまじと見つめながら、交わらない視線に腹を立て、ベッドの上に放り投げる。
 デッキの上に無造作に置かれたままのDVDは、買ったものでも、貰ったものでもない。主演である黄瀬涼太の私物だ。今日はこの映画を二人で見ることになっている。

「好きなら言ってくれればよかったのに」

 よそ行きの笑顔を浮かべた涼太は、楽しそうに見えた。原作を処分し忘れた私のミスだ。人生最大のミス。
 シャワーを終えた涼太が、好きなアーティストのTシャツと、高校時代のジャージを履いてリビングへと戻ってきた。湯気が出そうなほど温まった涼太は私の隣に腰を下ろすと、リモコンを手にとった。

「見たい番組とかあった?」
「アメトーーク」

 そんなに見たくはないけれど。涼太は私を一瞥すると、口角を上げて「今日つまらないやつだよ」なんてさらりと言った。見せるつもりがないなら、逃げ道をちらつかせないでほしい。今日はどうやっても映画をみるつもりだ。

「原作読んだから、別に見なくてもいいよ」
「でもほら、原作と映画はまた違うし。ね?」

 もういやだ。逃げ出してしまいたかった。あいにく私には、自分の傷口に塩胡椒をまぶすような自虐的趣味はないのだ。けれど涼太は楽しげにリモコンを操作していく。止める術は教えられていない。
 バラエティーから一転、真っ暗な画面に切り替わる。幕が開けた。

「……俺ね、この映画、本当に頑張ったんスよ」

 知っている。しばらくは缶詰状態になり、私の家に顔を出すことすらままならなかった。どんな撮影をしているのか、どんなお弁当を食べたのか、どんな話をしているのか。詳しく教えてくれたのは他でもない、この画面に映し出されている黄瀬涼太だ。
 なにも言えなかった。溢れ出そうになる嫌悪感を飲み込むだけで精一杯だ。原作通り、美しい男は美しい女と恋をする。物語は私だけを置き去りにして進んでいく。

「この女優さん、綺麗だから演技しやすかったんだけど、」

 雨が振り、彼の髪はきらりと輝いている。星のような雨。真っ暗な部屋。いつか見た光景と同じような映像。そこにいるのは私ではない。私よりも美しく、折れそうなほど細い女。

「さすがに、裸になるのは辛かったなぁ」

 こみ上げてきたのは嫌悪感と嘔吐感。両手で口を塞げば、彼がゆっくりと背を撫でた。

「初主演だから、頑張ったんスよ?」

 知っている。ちゃんと知っている。言葉の裏に隠された「目を逸らすな」という命令には従えなかった。ぐるぐると内蔵が蠢き、すっぱい液体が喉を焼く。こらえきれず立ち上がり、またシンクの中へその嫌悪感を吐き出した。水の膜を貼った目で、ぼーっとそれを見つめていると、涼太がゆっくりと立ち上がる気配がした。

「大丈夫?」

 ひどく甘い声だった。また吐いてしまいそうなほど。喘ぐ私の背を、優しく優しく撫でる。手のひらは温かい。こみ上げてきたものを抑えることなく、またシンクの中へと落とした。ああ、今日のお昼ごはんすら思い出せない。涼太の手も、声も、胸焼けがしそうで、じんわりと涙が滲む。

「大丈夫っすよ」

 俺はアンタのものだから。

「アンタも、俺のものだもんね?」

 喉が痛い。差し出された水で口の中を綺麗にし、吐き出した。涼太の顔は、涙でよく見えなかった。

13.02.21